第3話:雨宿りの毒蛇
嵐の夜だった。
扉を蹴り破って現れた刺客――望月蹴鞠は、朔夜の一喝と、その圧倒的な威圧感によって、毒気を抜かれたようにカウンターの席へ腰を下ろしていた。
「……香。酒だ。一番強いやつを、この嬢ちゃんに出してやってくれ」
朔夜が、厨房で立ち尽くしていた女将を呼び捨てにする。その声は低く、どこか有無を言わせぬ響きがあった。
「……はい、朔夜さん」
香は、驚きと戸惑いを押し隠すように深く一礼した。朔夜が自分を呼び捨てにするのは、彼が「本気」の時、あるいは周囲を自分の支配下に置く時の癖だ。彼女は震える手で、とっておきのアルコール度数の高い地酒をグラスに注ぎ、蹴鞠の前に置いた。
「……毒なんて入っとらんやろうね」
蹴鞠は、まだ桜猟を圧倒した時の荒い呼吸を整えながら、グラスを睨みつける。その口調には、育ちの良さと野良犬のような荒々しさが同居していた。
「入れたところで、お前さんには効かないだろう。……それだけ鍛え上げられた脚を持っていれば、代謝も常人じゃない」
朔夜は、自分の前に置かれた激辛の煮込みを再び口に運ぶ。砂を噛む。喉が焼ける。 その痛みだけが、目の前の女から漂う「あの人」と同じ匂いに対して、心が揺らぐのを防いでいた。
「……へぇ。あんた、そんなもん食べて平気なん? 見てるだけで目が痛かばい」
蹴鞠が、朔夜の料理を覗き込む。その仕草が、かつて岐阜の屋敷で、ろみなが鉄を打つ合間に麦茶を差し出した時の仕草と重なり、桜猟は思わず言葉を失った。
「……ねーちゃん。あんた、どこの出身ね。その喋り方……」
「教える義理はなか。……うちは、仕事ばしに来ただけっちゃ。あんたらの首を獲って、あの『紅時雨』を奪い返す。それが与えられた任務」
蹴鞠は酒を一気に煽り、乱暴にグラスを置いた。だが、その手は僅かに震えていた。彼女自身、この店に足を踏み入れた瞬間から、理屈では説明できない「懐かしさ」という毒に侵されていることに気づいていた。
同じ頃。移動要塞『ヘブンズ・ゲート』の奥深く、清潔すぎて吐き気のするような医療室。
無数のケーブルに繋がれたろみなが、透明な円筒形のポッドの中で浮遊していた。かつての美しいオッドアイは閉じられ、蒼白い肌には赤い電子回路が浮き出ている。
「……あ……う……、……が、あ……」
彼女の唇が、音にならない言葉を紡ぐ。それは祈りか、あるいは断絶された記憶の残滓か。
「代表。情動データの再噴出を確認しました。……この個体、やはり『母親』としての防衛本能が強固すぎます」
眼鏡の少年、歪が、ホログラムディスプレイを冷淡に操作しながら告げた。傍らでワインを傾ける浅葱が、退屈そうに目を細める。
「歪。『掃除』が足りないのではないですか? 彼女は兵器だ。兵器に故郷の言葉も、子供の名前も必要ありません」
「分かっています。……徹底的に、洗いますよ。……思い出なんていう、最も非論理的なゴミをね」
歪が、コンソールの「Delete」キーを叩く。瞬間、ろみなの身体が大きく跳ねた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ」
高電圧の電流が彼女の脳幹を焼き、家族と過ごした岐阜の、苺飴を煮詰めた午後の記憶を強引に剥ぎ取っていく。
「…………ターゲット、確認」
ろみなの瞼が開く。 そこにあるのは、アクアでもピンクでもない。すべてを拒絶するような、不吉な紅一色の瞳だった。
「……御門朔夜。桜猟。望月蹴鞠。……全対象の、抹消を。ミッション、承認」
ろみなの口から、温かな岐阜弁は消えた。 残されたのは、世界を砂へと変えるための、無機質な殺戮のプログラムだけだった。




