紅蓮の残り香
20年前。この日の夜は、天そのものが血を流しているかのような紅に染まっていた。 御門の屋敷を包む業火は冬の冷気を焼き尽くし、逃げ惑う人々の叫びを爆ぜる木々の轟音がかき消していく。
「桜猟、蹴鞠。……こっちおいで。私の手、離しちゃかんよ」
当時三歳だった桜猟の手を、母・ろみなが強く引く。彼女の岐阜弁はこんな地獄の中でも変わらず柔らかく、けれどその指先は火傷しそうなほど熱く震えていた。五歳の姉、蹴鞠は必死に桜猟の背中を押し、三人は燃え盛る回廊を突き進む。
その時。NEXUSの追っ手が放った閃光弾が、逃走経路を無惨に引き裂いた。凄まじい爆風。桜猟が目を開けたとき、目の前には崩れ落ちた燃える梁が立ち塞がり、姉の蹴鞠の姿が炎の向こう側へと引き離されていた。
「蹴鞠!!」
「……あ……ママ…っ! 助けて……っ!」
幼い姉の声が、火柱の向こうから響く。ろみなの瞳に、凄烈な決意が宿った。彼女は桜猟を、駆け寄ってきた夫・朔夜の胸へと、言葉より先に力任せに押し付けた。
「朔さん、桜猟を頼むて! 蹴鞠が……あの子がまだあそこにおるんや!うちは助けに戻らなあかん!」
「ろみな、無茶だ!火が回りすぎている、共倒れになるぞ!」
朔夜の制止を、ろみなは力強い微笑みで遮った。それは、この世で最後に見せる慈愛の笑顔だった。
「……大丈夫やよ。桜猟、これ持っとりゃあ。大事な、宝物やよ。母さんやと思って、ずっと持っとるんやよ」
ろみなが桜猟の手のひらに握らせたのは、二粒の銀紙に包まれた苺飴。
「……行かんね。あんたたちは、生きなあかん」
それが、彼女の最後の岐阜弁だった。ろみなは迷いなく炎の渦中へと飛び込み、崩れゆく屋敷の奥へと消えた。
朔夜は、妻を追いかけることすらできなかった。腕の中には震える幼い息子。背後には、容赦なく迫るNEXUSの機械化部隊。 無力。あまりに無力だった。愛する妻も、幼い娘も、この手で救い上げることができなかった己の弱さへの絶望が、朔夜を塗り潰した。
「……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!」
絶望に染まった朔夜の咆哮が、屋敷の蔵の奥底に封印されていた禁忌を呼び覚ます。
妖刀『紅時雨』
それは御門の一族が代々守り、同時に忌み嫌ってきた、魂を喰らう魔剣。
「……もういい。家族を守れぬ命など、砂も同然だ。……すべて、持っていけ」
朔夜がその禍々しい柄に手をかけ、鞘を払った瞬間、刀から溢れ出した血のような紅い霧が、彼の肉体を侵食した。その代償として、彼の右目の光が失われ、舌の上からあらゆる味が消え、世界は色彩を失った「砂」の色に染まり始めた。




