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瓜の涙/一読者は鏡花小説をどう読んだのか  作者: らいどん


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解釈篇 1

 鏡花の小説は読みにくい、というのは――ことばの難しさについてはその都度辞書を引くしかないのだけれど、それ以前の問題として――ストーリーを語るにあたって表層的な意味内容を超えた縦の語りを過剰に意識する、独自の創作姿勢があるからだと思われる。

 一般的に読みやすい小説というのは、息も切らせずストーリーが展開するといった、横の流れがスムーズであるものをいう。けれども時間の経過と共に出来事を追うだけのストーリーでは薄っぺらく、読みごたえがない。そこで作家は構成というものを考えて、一つの語りに別の意味を重ねようとする。

 たとえばある男女の恋愛を語るのに、双方の家が反目しあっているという前提から語って、男が女の身内を誤って殺してしまうというドラマを並行して描けば(つまり縦の積み重ねを厚くすれば)、以後の描写には複雑な含みが重層して、最終的な結びつきをより劇的に盛り上げることもできる。

 横の語りと縦の語りが、ちょうどメロディとハーモニーが調和するように、バランスよく堅牢な建築物のように組み立てられたものが、よくできた小説ということになる。


 ところが鏡花の小説ではこのバランス感覚がおおむね無視される。

 時系列を外れた断片や、語られる内容とは別種の物語がこれでもかと積みかさねられて、肝心のストーリー・ラインはちらちらと垣間見えるだけになる。普段読み慣れた小説とは違って、小説の範疇を超えた他の文芸ジャンルや芸能、絵画や工芸の美意識、様式感が求められるように感じることもある。

 結果的に鏡花小説の鑑賞ではつねに、ストーリーを読み取ることにとどまらず、重層的な語りとして折りたたまれた何かを展開しながら読むことが求められる。表層的なストーリーからなんらかの感慨を受け取ったとしても、その上下に折りたたまれた何かの意味に気づくと気づかないとでは、物語が伝えるものの奥行きが格段に変わってしまう。


『瓜の涙』でいえば、表層的なストーリーラインでは、悲劇的な運命の崖っぷちでボーイ・ミーツ・ガールを遂げた男女の極限的な一瞬を鮮やかに切り取ってみせた悲恋物語が語られている。丁寧にことばを追いさえすれば、読み取ることはさほど難しくない。

 しかも、不意を突いて黒い竜巻が襲いかかるといった驚くべき趣向でクライマックスを迎えるのだから、それだけでも充分に切れ味のよい短編小説の醍醐味を堪能できるだろう。


 一時期のハリウッド映画で、群像劇を天変地異で締めくくる奇抜なスタイルの傑作が重なって観客を驚かせたことがあった。ロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』(1993)と『Dr.Tと女たち』(2000)、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』(1999)といった作品である。『マグノリア』では蛙の雨が降るが、『瓜の涙』では竜巻が金の(ふな)を降らせる。突然の天変地異は鏡花小説のいくつかに使われていて、はからずも八十年後のハリウッド映画を先取りしているのだけれど……。

 余談はさておき。


 さて、一見してシンプルきわまりない『瓜の涙』という小説には、表に見えるものに対してどんな仕掛けが施されているのか。

 あるいはなんらかの別世界のイメージが重畳しているのだろうか。



 鏡花小説を読み解くにあたって、最もよく引き合いに出されるのが夢幻能(複式夢幻能)の様式だろう。

 すなわち、前半(前場)と後半(後場)に分かれることが多い鏡花の作品(能の曲)では、前半に現在の状況がゆったりと語られ、まだ真の姿を隠しているヒロイン(前シテ)の正体がわずかにほのめかされる。物語の核心は中入りを経た後半にあり、正体を顕したヒロイン((のち)シテ)が過去の恋情なり怨念なりを晴らす活躍(舞)をして姿を消す。

 密度の高い描写が集中する前半部でヒロインが素描され、小説の真ん中あたりに転換点があって、後半は一気呵成にクライマックスへとなだれ込む。最後にヒロインは真情を吐露しつつ、なんらかの無念を晴らすための悲劇的な死を遂げる……というのが鏡花の小説や戯曲の最たる典型で、そのヴァリエーションも多彩である。能楽に典型的な物語の型というものをゆるくとらえれば、ごく初期を除く鏡花小説のかなりのものが夢幻能の様式にしたがって書かれているといえる。


 もう一つ目立つのは、神話や伝承の物語パターンをストーリー中に埋めこむという工夫である。これは『笈摺草紙』や『黒百合』(ともに明31)の頃から意識的に試みられはじめて、早くも『註文帳』(明34)で高度に成し遂げられたように思える。

 物語パターンの導入は描写の一部にとどまるものから小説全体の構成に係わるものまであって一様ではなく、深く隠されて見つけ出すのが困難な場合もある。一口で説明できるものではなく、その作品ごとに詳細を検討する必要がある。


 また、作家の伝記との比較も、鏡花小説の読解には欠かせない。

 鏡花小説の場合、作者自身によって物語化された伝記的要素と小説内のモティーフが混然としているために、複数の作品を最初に読み進める過程において伝記との接触は避けられない。それどころか、自身の経歴や交流圏、生活背景を読者が知っていることを前提として書かれた作品も少なからず存在する。

 たとえばテキストの表層から読み取れる情報を現代思想のツールを使って読み解くような試みも面白くは読めるものの、それぞれの手法に合致する作品は限られてしまうため、全小説中のかなりの割合を読むに値しないものに追いやってしまう。


 以上の三つが、鏡花小説を読む上での基本的な読解ツールだと現時点では思っているのだが、もちろん古典文学の素養も重要な位置を占める。『伊勢物語』『平家物語』『太平記』『雨月物語』『義経記』の引用や比喩は作中に頻出するのだし、有名な和歌も欠かせない。江戸文学では、幼少時から愛読した草双紙や洒落本は鏡花の文体の一部のようなものだし、滝沢馬琴、山東京伝、式亭三馬、柳亭種彦、十返舎一九の戯作や芭蕉、暁台らの俳諧が敬愛の対象となる。

 他にも歌舞伎、日本舞踊、座敷芸、中世の語り物、落語、講談、仏教思想、漢詩、漢文、漢語の知識、被服、織物、染物、履物、また日本髪に関する知識、仏教思想や仏典、仏教説話、地誌、民間伝承、民俗学、金沢や富山を主とする郷土史、動植物学、時事的な風俗や事件、知人の人物伝、希に欧米文学に関する知識などが描写を飾ったり、ときには創作のベースになったりもするのだけれど、個別要素を数えあげてもキリがない。あの、鏡花小説において圧倒的な物量を占める被服の細密描写も、一般的な小説におけるキャラクター描写の代替表現にすぎないと割り切って対処するしかない。

 もちろん、それぞれについて熟知するに越したことはないのだが、怠け者の私にそんな余力があろうはずもなく、その都度調べることでなんとか間に合わせているのだけれど。

(続く)



 さて、以上を鏡花読書全般にかかわる前置きとして、次の「解釈篇 2」では『瓜の涙』そのものを読み直していきます。


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