離間の計
次兄 信親様が失明をした。流行り病によるものだそうだ。父である武田 晴信様からの文にそう書かれていた。
文はそれはもう悲しみに満ち溢れたものと内容となっており、自らの目を差し出して次兄の失明が治るなら、喜んで差し出すとさえも書いてあった。
前世での武田 信玄は、非情で冷酷な人物と評価される場合が多い。だが俺への対応や信親兄上に対する悲しみを見る限り、そうではないと感じてしまう。
「こういう所を見ると、単なる子煩悩な父親なんだよな」
特に信親兄上は、父 武田 晴信様にも実母 三条の方様にも可愛がられていたと思い出す。僧として生きる道を選んだにも関わらず、二人してその夢を応援する見事な親馬鹿っぷりを発揮していた。
──末は大僧正か門跡か。
このような会話が二人の間で囁かれていたのは、容易に想像が付く。それだけに失明によって夢が断たれてしまったのは、痛恨の極みであろう。文からもその愛情の深さが窺い知れた。
俺もこの一件では、やるせない気持ちばかりが溢れてくる。信親兄上の失明自体はとても悲しい。だがそれ以上に、前世での記憶で失明を知っていながら何もできなかった自身の力の無さにほとほと呆れ返っていた。
勿論父 武田 晴信様には、信親兄上を高山城に派遣してもらうよう何度か打診はしている。但し、それまでであった。何としてでも甲斐国から外に出そうと全力を尽くした訳ではない。俺の東濃行きという歴史改変が起きたため、信親兄上にもその影響があるのではないかと都合良く解釈していた節がある。
そんな筈はないのに。
今回の一件で改めて歴史の改変、いや甲斐武田家の未来を変えるのは簡単ではないと思い知る。しかしながら、ここで諦めはしない。力が足りないならもっと力を付けるだけだ。そう深く心に誓った。
ただ、こういう時に限って足を引っ張る事件が起こるのが、歴史改変の困難さを物語っているのだろう。
「なっ、高山城下の町衆の代表の一人が、税の支払い拒否を予告してきただと!」
「はっ。先日の座の連中との喧嘩別れが原因のようで。民からただ税を搾り取るだけの今の領主には、この地を治める資格は無いと書状に書かれておりました」
「……参ったな。こんなやり方をされるとは考えもしなかったよ。酒の販売は利益が大きいからな。その利益で町衆の代表に銭でも貸していたか、賄賂でも贈ったのだろう」
意外なようだが、この時代の民は平気で税の滞納や支払い拒否をする。それも集団で。理由は徴税が属人的であり、標準化されていないためだ。要はムカつく相手には税金を払わない。こういうのが平気で罷り通っている。督促状を出した所でゴミとなるのが関の山と言えよう。
そのため、こういった事件は俺の領地に限った訳ではない。この時代は日ノ本の至る所で起きている。有名な所では、信濃国諏訪地区もそうだ。この地に住まう反抗的な民達の存在が、今も尚統治を困難にしていた。
諏訪大社を単なる歴史ある神社と思うなかれ。この神社には裏の顔がある。それも欲に塗れた酷く黒いものだ。
実は信濃国諏訪地区は、塩の集積地である。東山道を通って入ってきた関東の塩が、この地に入ってくるのだ。そこから信濃国の各地へと塩は運ばれていく。この事実から、諏訪大社が伝統的に信濃国の大半の塩の物流を握っているのが分かるだろう。諏訪大社は、塩の独占販売を資金源の一つにしている。
だが今の諏訪地区の統治者は甲斐武田家だ。これにより、諏訪大社と癒着して甘い汁を吸っていた者達が割を食った。
だからこそ納税拒否をする。甲斐武田家がいなければ、俺達はもっと良い生活を送れたのにという恨みを込めて。
今思えば、俺が一度は諏訪の本家後継者候補となりながらも実現しなかったのは、諏訪大社=諏訪本家が利権を手放す事に激しく抵抗した結果だと考えた方が良いだろう。養子を受け入れれば、甲斐武田家に利権の全てを持っていかれると考えたに違いない。このような獅子身中の虫さえも取り込んで統治をしなければならないのだから、父上の苦労の程が分かる。
このように甲斐武田家の領地でも税の滞納や支払い拒否は頻繁に起きているだけに、いずれは俺も経験すると覚悟はしていた。だが、いざそれに直面するとかなり堪える。例えそれが自業自得だとしても、こちらの事情を考慮しない一方的な通告には怒りさえ覚えてくる。
言う事を聞かない諏訪大社を燃やそうともしない父 武田 晴信様の偉大さが、この点だけでも分かるというもの。
「父上とは違って、俺は寛大じゃないんでね。座がこのような行動をする存在だと知ったからには、放置しておく訳にはいかない。一つ仕掛けをするか」
「どうされるのですか?」
「離間の計だな。土岐郡の座に加盟する造り酒屋から、ゴミとなる酒粕を買い取るよう手配しておいてくれ」
「……はて? ゴミを買い取るのですか? いやそれ以前に、例えゴミでも簡単に売ってくれるとは思えません。当家と座は決別したばかりですが」
「大丈夫だ。心配するな。幾ら座が会員の生活の面倒を見ているとは言え、繁盛している造り酒屋と閑古鳥の鳴いている造り酒屋が必ず出てくる。生活の苦しい造り酒屋なら、まず間違いなく売るさ。酒粕の買取りによって当家への支持を集めろ。会員間の分断を計れ」
「はっ。かしこまりました」
酒粕の利用はまだこの時代では、肥料とするのがせいぜいだ。そのまま食べるのも可能だが、一家族で消費するには量が多過ぎる。それだけに処分に困っているのは確実だ。しかし俺は肥料以外の活用法を知っている。新たな銭儲けの種として活用させてもらおう。以前から酒粕は欲していただけに、今回の買取は渡りに船でもある。
土岐郡の座は会員の生活の面倒を見ているとは言っても、それはあくまでも酒の出来・不出来でしか判断をしていない。販売の場には関与していないのが、長の発言から読み取れていた。
そうなると実際の利益では、会員の間で差が生じる。土岐郡は田舎だけに、市場規模はそう大きくない。造り酒屋の立地や常連の有無、蔵元の資質等々で生活水準に違いが出てくる。これを素直に受け入れている会員がどれ程の数いるか? 中には借金を抱えながら、営業を続けている者もいるだろう。
そんな生活に困った者を当家が救う。但し最初から大量購入はしない。一度の購入量は少量に留め、何度も足繁く通う。こうする事でその造り酒屋の安定収入とさせる。言わば補助金のようなものだ。
これにより会員は理解するだろう。現在所属する座と当家が作る新座とでは、どちらが自身にとって有益かを。この時点で酒粕の買取量を増やし、他の会員からも酒粕を集めさせる。こうすれば窓口となる者が求心力となり、座の中で対立軸が完成するという寸法だ。いずれは当家との和解を望む声は増えてくるのは明白である。
組織は一枚岩ではない。どんなに強固に見えても、必ず何処かに綻びはあるものだ。そこに風穴を開け、内部崩壊へと導く。これが今の俺の立場としては最も望ましい。
「時間は掛かると思うが、これで土岐郡の座も力を失う。長が自身の立場に固執すれば、組織を二分する必要があるからな。それか和睦派の排除となる。どちらにせよ、新座がその片割れを吸収すれば立場は逆転するさ」
「四郎様、座への対策は分かりました。反抗する者は根切り (皆殺し)にする。これに勝る方法はないのに、何ゆえそのような手間の掛かる手段を使うのかが理解に苦しみますが」
「おいおい光秀、何さわやかな顔で物騒な発言をしてるんだ。根切りにした所で当家の財政は一切好転しないんだぞ。それを理解して発言をしてくれ」
「残念です。では納税拒否を通達してきた町衆の代表には、どう対処されるおつもりですか? 命じて頂ければ、今すぐにでも首を刎ねて見せしめと致しましょうぞ」
「却下だ、却下。それをすると未来永劫の納税拒否になる。死人は税を納められないからな。町衆の代表への対処はしばらく静観だ。いずれ座の崩壊によって後ろ盾が無くなり、勝手に大人しくなるさ。だから絶対に手を出すな。どうしても首を刎ねたいなら、賊相手にしておけ」
「むぅ、それは仕方ありませぬな。此度は四郎様の申される通り、賊の討伐で我慢しておきましょう」
ただそうは言っても、武家は面子の世界である。明智 光秀の発言は過激だが、何が言いたいかは理解できた。要するに、ただ座の力を奪うだけでは物足りない。何らかの形で報復が必要と言いたいのだろう。舐められたら殺す。これが室町武士の基本原理だ。
だからこそもう一歩踏み込んだ手段を使う。とは言え、直接的な報復には出ない。当家へ納税拒否を宣言した事を後悔させる。これが有効な手段だと考えた。
「その代わりと言っては何だが、町衆に対しては嫌がらせをしようと思う。光秀、元美濃妻木家領地の妻木庄の道を整備する手配をしてくれ。それと妻木八幡神社の建て替えもするか」
「そのような行いをすれば、妻木庄の守りが危うくなるではないですか。狂犬のような織田弾正忠家が攻め寄せてくれば、どうされるのですか?」
「そのための光秀達だろうに。勝てるだろ?」
「無論」
「なら決まりだ。道の整備によって物の出入りを良くし、神社の建て替えによって民を喜ばす。高遠諏訪家に従順であれば、生活が良くなる実例として妻木庄を使わせてもらおう」
妻木庄は高山城の南に位置する山に囲まれた盆地だ。下街道から外れたこの地域は、不便この上ないと言って良いだろう。
しかしながらこの妻木庄は、一万石近い石高を誇る。土岐郡約二万石の内、その半分を占めている地だ。これが理由で、以前から妻木庄にはテコ入れをしようと考えていた。
今回決めた道の整備はその第一弾となる。本当は何を生産するか決めてから取り掛かろうと考えていたが、丁度良い機会である。計画を前倒しして、公共工事を行うと決めた。この時代は敵からの防衛を想定して道を整備しないのが基本なだけに、民から歓迎される施策となるのは確実となる。
神社の建て替えも同様だ。宗教が身近にある時代だからこそ、施設が新しくなるのは民の支持を得られる施策と言えよう。事実このやり方は、日ノ本各地でよく使われている。
「光秀、分かっていると思うが、この工事は納税拒否が無ければ、高山城下の町で行うものだったとしっかり喧伝しておいてくれよ」
「それはもう分かっております。これで私も留飲を下げました。この事実を知った時、町の代表がどんな顔をするか楽しみでなりませぬな」
「悪い顔になっているぞ、光秀」
「いやいや、四郎様には敵いませぬよ。妻木庄を完全に掌握すれば、高山城下の町衆に対しての米の供給も思いのままだと気付かされました故」
「そこまでの深慮遠謀がある訳ではないんだがな」
そうと決まれば、次は妻木庄で何を生産するか。これが俺は楽しみでならない。出土する陶土を生かして、陶器産業を伸ばすのも良いだろう。もしくはこれまで行ってきた土作りを生かして、食料を増産するのも一つの手だ。
ただどれを行うにしても、最後の一押しが足りないのが悩みの種である。限られた盆地の中で他と同じ物を作っても、満足する結果は出ない。生産するなら、隣国の尾張に負けない高付加価値の商品が望ましい。そのための布石は既に打っているだけに、後はこれが揃うのを待つ日々が続いた。
そんな日も唐突に終わりが訪れる。
「四郎様、お待たせしました。爺こと 秋山 紀伊が、この高山城に到着致しましたぞ!」
待ち焦がれていたパズルのピースがようやく揃った。
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補足
武田 信玄の次男である海野 信親の失明時期は、弘治2 (1556)年の9月から10月頃と言われております。原因は本文にも書きました通り、流行り病です。そのため生まれた時から視力が弱った等の説は、現在では否定されています。




