鉄砲は最後の武器だ
四月二〇日、事態は予想通りに動く。斎藤 高政軍の先鋒五〇〇〇が渡河を敢行した。この動きに合わせるように、斎藤 道三軍も鶴山を下りて迎撃に向かう。
世に言われる長良川の戦いの開幕である。
序盤は斎藤 道三側有利で進むだろう。兵数が少ないとは言え、その中身は精鋭部隊と考えた方が良い。弱兵であったなら、そもそも斎藤 道三殿が戦を仕掛けようとはしなかった筈だ。
だが所詮は多勢に無勢。質は良くとも長続きはしない。兵数の差をひっくり返す秘密兵器でもあるなら話は別だが、そうでなければ徐々に斎藤 高政軍が盛り返していくのが既定路線である。斎藤 道三軍が何日持つか? 後はその程度だ。
こうして最前線は佳境を迎えているものの、相も変わらず俺の属する後方はやる事が無い。出番が無いのは戦が順調な証拠だと分かってはいても、どう暇を潰すか考えるだけの日々を送るのは悲しいものだ。
「喧嘩だ! 喧嘩だ!」
それは兵も同じで、暇を持て余すと碌な事がない。博打を楽しんでいる内はまだ可愛らしい方だ。血が余っているのか、気が付けば喧嘩が始まっている。しかもそれを止めようともせず、周りは逆に喜ぶのだから尚性質が悪い。
喧嘩の観戦は暇を持て余している兵士達の格好の娯楽となる。
「陣借りと高遠諏訪がやり合ってるんだとよ!」
「どっちが勝ってる?」
「陣借りの男、かなり強いらしいぞ。高遠諏訪はかなり押されているそうだ」
「……えっ? 高遠諏訪? ウチじゃないか。何やってんだ、ったく」
だからこそ運悪く当事者になってしまうと、どうすれば良いのか対処に困る。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「それで何がどうなってこの結末になったんだ。正直?」
急いで現場に駆け付けると、そこではほぼ勝負が決まっていた。
当家から参戦した人数は四名。目を晴らして膝をつく保科 正直と、地面に倒れ込んだ純、長作、正児の三人がいる。三人がピクリとも動かない所を見ると、良い一撃を貰って気絶しているのだろう。
対するのは一人の若武者だ。年の頃は保科 正直と変わらないように見受けられる。けれども体の肉付きが大きく違う。まさに筋骨隆々といった表現が似合う体つきであり、そこから放たれた一撃によって倒されたのだと分かる。栄養失調の三人には荷が重い相手だったに違いない。
体格の違いは保科 正直も同様である。当家に来てからは武芸や体作りを始めてはいても、まだ発展途上と言った所だ。だからこそ、あっさりと膝をつかされる。俺が駆け付けるのがもう少し遅ければ、止めを刺されていた筈だ。
「四郎様、某から騒動を起こした訳ではありませぬ。目が合った途端、あ奴が突然殴り掛かって来たのです。この三名は体を張って某を守ってくれたのですが、一瞬で討ち死にしました」
「いや死んでない、死んでない。きちんと生きてるから」
要は保科 正直の目が気に喰わないから殴り掛かったと言いたいのだろう。後方とは言え、ここは戦場である。その中で心穏やかにいろというのはやはり難しく、気がささくれ立っている者もいたという訳だ。こうした理不尽が起こるのも戦場の特殊性と言えるだろう。
とは言え、それは保科 正直側も同じだ。心のゆとりの無さから、相手に知らず知らずの内に失礼を働いていた可能性がある。もしそうであったなら、この一件はこちらが悪かったと逆に謝罪する方が正しい。四人には申し訳ないが、自業自得だとして諦めてもらうしかないだろう。
「それでこちらの言い分はこうなっているが、その認識で合っているか? 異論があるなら聞くぞ」
「この者が俺に土を掛けた。それも蹴飛ばして。此度はその非礼を償ってもらったに過ぎん」
「あっー、なるほど。土で汚したのを気付かず、立ち去ろうとした訳か。その点は俺から詫びよう。申し訳なかった。ただ、やり過ぎだ。殴り掛かる前に、一言注意すれば良かっただけじゃないのか?」
「……」
「だからな。手間を取らせて悪いが、もう一戦付き合ってくれ。次は俺が相手をしよう」
そんな所だろうとは思った。相手も同じ人間だ。理由も無く人を殴ったりはしない。ただ目が合っただけで殴り掛かる者なら、四人が負傷する以前から似た事件が起きていただろう。そんな狂犬のような人物がこの後方にいたなら俺の耳にも噂が届き、事前に関わらないよう保科 正直達に伝えていた。
よって今回は保科 正直の自業自得と言いたいのだが、さすがに土で汚されただけでこれは頂けない。こうした時、家臣の面子を守るのも主君の務めだ。俺には荒事は似合わないと思いつつも、時と場合によってはやらなければならないのがこの時代である。
「俺が勝てば、この四人に対してやり過ぎたと詫びてもらう」
「逆にこちらが勝ったら?」
「その時は俺がもう一度詫びよう。生意気言って済まなかったと」
そう言いながら、俺は野次馬として集まっている兵の一人に手拭いを借りる。黒ずんで汗臭い歴戦の強者だ。仕上げに瓢箪に入った水を掛けて完成。これで戦闘準備が整った。
「ただ、今の俺では素手では勝てないからな。得物を使わせてもらうぞ」
「何だ。良いのは威勢だけか」
「まあそう言うなって。使うのはコレ。濡れ手拭いだ。この程度なら許容範囲だろう」
「ぶっ、そんな物が得物だと。良いぜ。好きに使いな。負けても卑怯者とは言わない」
「その言葉、忘れるなよ」
こうして今一度の喧嘩が始まると、周囲は一気に沸き立つ。下品な野次、下卑た笑い声、無責任な歓声が俺の背に襲い掛かってきた。
……いやまあ俺も止める所か逆に喧嘩を売っているのだから、同じ穴のムジナではあるか。
「高遠諏訪家当主 諏訪 勝頼だ。いつでも掛かって来い!」
「……服部 正成だ! いざ尋常に勝負!」
そう言うや否や服部 正成は距離を詰め、右腕を大きく振りかぶる。
喧嘩に作法は無い。どんな形であろうと良いのを一発入れれば勝ちである。だからこそ先手必勝とばかりに、服部 正成は全力の一撃を繰り出してくる。この思い切りの良さに保科 正直以下の四人もやられたに違いない。自らの強みを生かす良い先制攻撃だ。
だが、その拳は振り下ろされない。
「な、今何が起こった?」
パチンと音がした途端、服部 正成は動きを止めて立ち尽くす。それも両手で顔を覆いながら。
「面白いだろ? 濡れ手拭いにはこうした使い道もあってな」
当然ながらその原因を作ったのは俺である。左手に持った濡れ手拭いを、鞭のようにしならせて服部 正成の顔面へと叩き込む。威力自体は大した事はなくとも、突然顔面に攻撃を受ければ困惑する。猫だましの感覚に近い。
ついでとばかりに、無防備となった膝関節に下段蹴りをお見舞いしておく。
「──!?」
この一撃で服部 正成は怒り心頭となった。
そこからは一方的な展開となる。目が血走り冷静さを失った状態で俺に肉薄してきても、軽く翻弄できてしまう。具体的には濡れ手拭いを警戒している場合は足で、下段蹴りを警戒すれば濡れ手拭いで。動きが止まれば野球投手の要領で、大きく振りかぶって真上から濡れ手拭いを叩き込む。
実質一〇歳のお子様である俺と背中に重機を背負った筋肉ダルマの服部 正成では、真面目に戦えば即終了となる実力差だ。ならば真面目に戦わない。策を弄する。柔よく剛を制すると言わんばかりの流れに持ち込んだ。
お陰で観客は大盛り上がりである。当初はすぐに終了すると思われた喧嘩が下馬評を覆す展開となるのだから、面白くて仕方ないのだろう。俺が負ける方に賭けた馬鹿には御愁傷様の一言である。
「うん? 雰囲気が変わったか?」
何度目かの下段蹴りで片膝をついた服部 正成がゆらりと立ち上がる。直後に大きく深呼吸。これまで、怒りで耳まで真っ赤にしていたのが嘘であるかのような行動をした。
「──来る」
体を前に倒し重心移動したを確認する。ようやく分かったのだろう。俺を侮っていた自身の未熟さに。だからこそ初心に立ち返る。自らの最も得意な一撃で俺の小手先の技など食い破れば良いだけだと。そう覚悟したかのように感じた。
悪いな。俺もそれを待っていたよ。
雄たけびを上げ、服部 正成が全力で俺へと向かってくる。腰を落とし姿勢を低くしている理想的な体当たりの姿だ。これでは中途半端な攻撃は役に立たない。むしろ逆に何倍もの強烈な一撃を俺が喰らう。まさに肉を斬らせて骨を断つ、覚悟を決めた攻撃であった。
「遅い!!」
後一歩、いや半歩距離が近ければ俺が負けていただろう。しかしながら現実は酷だ。体当たりが届く前に、俺の右膝が服部 正成の顎を鋭角に捕らえて上方へとカチ上げる。これにて勝負が決した。
「痛ってーーー!!」
俺の渾身の膝蹴りを喰らい、服部 正成が顔面から前のめりに地面へと倒れ込む。普通ならこれで意識を失ってもおかしくないのだが、軽く砂煙が舞ったと思った途端に顎の痛みを訴え出した。
「というか、あの攻撃を喰らって気絶しないのか。随分と頑丈だな」
「それだけが取り柄だ」
やはりまだ数え一一歳では決定力不足のようだ。一撃必殺とはいかないらしい。
「どうする? 続きをするか?」
「止めておくよ。アンタが強いのは良く分かった。約束通り、アンタの家臣達にはやり過ぎたと詫びを入れる。ただ少し待ってくれ。この痛みはしばらく取れそうにない」
ここで往生際悪く自身の負けを認めないようなら、俺は追撃に蹴りを見舞っていた所だ。だがそうではなく、潔く負けを認める。単なる喧嘩馬鹿ではない。この性格に俺は心魅かれた。
「……なあ、正成。俺の家臣にならないか? 俺の夢の達成には、正成の強さが必要だ。陣借りにしておくのは勿体ない」
そうなるとつい勧誘の手を伸ばしてしまうのは、自然な流れだろう。今の俺には手札が足りない。しかもこの男は、「服部」の名を持つ。当人に忍びの色は感じなくとも、その人脈を辿れば忍びとお近づきになるのは確実である。
もしくは服部 正成に忍びの部隊を率いさせるのも一つの手だ。その時は部隊名を月光とする。「鉄砲は最後の武器だ」を合言葉に。
「四郎様! 何ゆえこのような男を家臣に誘うのですか?!」
「嬉しいねぇ……痛てて……けど悪いな。俺は松平様の下でてっぺんの武家になると決めていてね。誘いには応じられそうにない」
「貴様、四郎様がお誘いくださったのに、何だその態度は!」
「そこ、うるさいぞ! 正直! てっぺんになれるかどうかは分からないが、俺の所へ来れば今より強くしてやる。魅力的だと思わないか?」
「……本当か?」
「ああ、当家には武芸の達人級がいるからな。それに体作りは俺が教えてやる。今のままだと、いずれ大きな怪我をするぞ。その筋肉が仇となる。だからな、てっぺんを取るにはまず肉体改造から始めるべきだ」
「その小さな体で俺に勝った理由が体作りか。知りたいな。……ただ此度の戦が終わるまで、答えは待ってくれ。ゆっくりと考えたい」
「良い返事を期待しているぞ」
なるほど。強さには憧れはあっても、既にしがらみがある訳か。こういう時は無理強いせず、ゆっくり考えさせた方が良い。仕官してくれなかった時は、縁が無かったと諦めよう。
こうした騒動が俺の周りては起こっていても、戦そのものは順調そのものに進んでいた。無事斎藤 高政軍が、斎藤 道三殿の首を討ち取ったという。また返す刀で、大良の地に布陣していた織田弾正忠軍も撃退したそうだ。
この一連の戦いで当家は、何もしないままに終わる。
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補足
服部 正成 ─ 服部 半蔵として知られる。当人は鬼半蔵として槍の使い手であった。だというのに後年は、伊賀衆や甲賀衆を率いる立場になったという。徳川 家康の伊賀越えで有名。なお作中は、預けられた寺から逃げ出し武者修行をしていた折、その一環として長良川の戦いに参加したという設定。三河上ノ郷城夜襲の一年前。




