◇第二章<異世界の怪異との邂逅> 1
衛兵に促され、廊下を進んでいくと、やがて重厚な木製の扉の前で足が止まった。無言のまま扉が開かれる。中に入ると、思っていたよりも広く、豪奢な調度に彩られた部屋だった。
天蓋付きのベッド、磨き上げられた家具、そして花の香る室内──まるで“上客”を迎えるような待遇だったが、そこに漂う空気はどこか冷たい。
(……ここが、私の部屋?)
案内の兵士は無言のまま一礼すると、扉の外へと消えていった。
(説明はナシ、か)
ここへ案内される途中、すれ違った人々は皆、装飾の施されたローブや、貴族風の礼装、銀の縁取りがまばゆい甲冑などを身に纏っていた。
そして彼らの視線は一様に、夕奈へと向けられていた。奇異と、警戒と……一部には、あからさまな侮蔑。
(あの視線……まるで、見世物を見るような……)
(浴衣が物珍しいのかな?なーんてね。はいはい、身の程は弁えてますよ)
自分が“異物”であることを、突きつけられたような気がした。
「はあ…先が思いやられるな」
ふと窓へ近づき、外を見下ろす。
どうやらここはお城の中らしく、見渡す限り灰色の石造りの建物が広がっていた。空に向かって伸びる尖塔が、城の外縁を縫うようにいくつもそびえている。
その中のひとつ、どこか他と違って黒ずんだ高い塔が、ひときわ目を引いた。あれは──なんだろう。他の塔とは違い、あの塔だけは手入れがされていないように思える。
落ち着かない気分のまま、窓辺へもたれかかり外を見ていると、重たく、何かを押し殺したような沈黙の中──そっと扉がノックされた。
「……失礼いたします」
入ってきたのは、落栗色の髪をバレッタまとめた、端整な顔立ちの女性だった。城勤めの侍女なのか、黒色のワンピースに白いエプロンを着用している。年は夕奈より少し上だろうか。
「身の回りのお世話を仰せつかっております、ミラと申します」
ミラと名乗ったその侍女は、控えめで落ち着いた声でそう言うと、穏やかに微笑んだ。その手には、温かいスープの盆が乗っている。
ミラが手早くスープをテーブルに並べ、カトラリーを揃えている間、夕奈は言葉を飲み込むようにしてしばらく黙っていた。
(……この人になら、少しぐらい、聞いてもいいのかな)
意を決したように、ほんの少しだけ体を前に傾け、声を潜めて問いかける。
「あの……私がこれからどうなるかって、教えてもらえたりって……」
本当は聞かなくても、自分でも分かってはいた。でも言葉にせずにはいられなかった。
声のトーンは変えず、平然を装う──けれど、心の中ではずっと叫んでいる。
(知らない世界で、知らない人に囲まれて、何の説明もなく……誰だって怖いに決まってるじゃん……!)
ミラは目を伏せ、少しだけためらったように微笑んだ。彼女の表情にはどこか、夕奈を『気の毒な人』と見るような陰が宿っていた。
「申し訳ありません。……“必要以上に話してはならない”と、命じられておりますので。何かご不便な事がありましたら、呼び鈴を鳴らしてお申しつけください」
そう最小限の言葉だけを交わし、ミラは盆を置いて立ち去る。
ああ、やっぱり。夕奈の胸に、冷たい水が流れ込むような感覚が広がった。
彼女は悪くない。ただ、言えないだけ。
それでも、この世界にも、少しでも寄り添おうとしてくれている人がいることが、ほんの少しだけ救いだった。
温かいスープを飲み終え(馴染みのない魚介ベースのピリ辛いスープだった)、そのまま椅子に座ってぼんやりと過ごす。
窓の外は徐々に空の色を深め、城の回廊に灯りがともり始める。
どこか現実感のない時間の中で、体も心も疲れ果てていた。
(……まあ、これまでだって怖い思いはたくさんしてきたし。幽霊囲まれて睨まれながらご飯食べた日もあるし)
(どんなに怖くても、黙ってるのが一番だった……下手に見えてるって悟られたら、あいつら、寄ってくるから)
(お母さん、お祖母ちゃん……今、どうしてるかな。危険なモノには近寄っちゃいけないって、あんなに口酸っぱく言ってくれていたのに……)
(撮影現場……大混乱だったよね。スタッフさんたち、私のこと探してくれてるだろうな……)
(友達も皆……連絡つかないって騒ぎになって……きっと大迷惑かけてる……)
(私を召喚したっていう宰相さん……出ていく時に一度もこちらを見てはくれなかった)
(あの人、顔はいいのに……ほんと、びっくりするくらい顔はいいのに……ホントに感じ悪い!)
(異世界召喚モノって、もっとこう──「待ってました!」とか、「伝説の存在がついに!」みたいな……そういうノリじゃないの?)
(こんな知らない世界で、誰にも必要とされなくて、これからどうなっちゃうんだろう……)
ぽつり、ぽつりと浮かぶ現実の断片が、胸を締めつける。
まるで自分だけが、世界から抜け落ちたみたいに感じる──誰にも気づかれず、いなくなっても困られない存在。
(……もし私が、このままここで消えたとしても……誰も、気づかないのかも)
そんな柄にもないネガティブな考えばかりが、頭の中をぐるぐると回っていく。それを振り払おうとすればするほど、心の底に沈んだ不安が浮かび上がってくる。必要とされないと分かり切った状態で放置され、世界に自分だけが取り残されたような孤独が、深く、静かに広がっていく。
物思いにふけるうち、気付けば夜が訪れていた。
(今日は色々あって疲れた……)
(もしかして、これは夢で……寝て起きたらあの撮影現場に戻ってたり、とか)
「ふふ、そうだったらいいな……」
夕奈は緩慢な動作で結っていた髪だけ何とか解くと、着物のまま冷えたベッドに入り、糊のきいた掛け布団を引き寄せる。
寝室は静かで、カーテンを引いているはずなのに、隙間から差し込む月がやけに明るかった。
なのに、目を閉じてもまぶたの裏は黒く沈んだまま。頭の中がざわついて、心が落ち着かない。
(ここはどこ?なんで呼ばれたの?……いつか帰れるの?)
そんな思いが渦を巻く中、知らぬ間にまどろみに落ちていく──と思った矢先。
「……っ!」
異様な気配を感じ、夕奈は身体を強張らせ、目をカッと見開いた。
胸の奥にひやりとしたものが落ちる。
……身に親しんだ、"霊の気配"だ。
(一体どこに?)
そろり、と夕奈は布団を抜け出した。
窓の方ではない。感じる気配は、もっと近くて、もっと濃い。
足音を殺し、静かに部屋の扉のほうへと近づいていく。
寝室は微かに月光に照らされ、ドアの下の隙間から廊下の灯りがぼんやりと漏れている。
息を詰め、扉の木目にそっと指先を添え、薄く開いた隙間から廊下を覗いた──
そこに、それはいた。
廊下の中ほど。壁に等間隔に取り付けられた燭台の明かりが届かぬ暗がりの中に、ひとつの影が立っていた。
人間の形……に見えなくもない、だが異様にねじれた身体の輪郭。首から上が歪んで膨張し、その膨らんだ顔の部分からは3本の突起が上へ突き出しており、月明りで落ちる影はまるで大きな黒い王冠をつけているように見える。その足元からは、地に溶け込むような黒い霧がマントのように薄く広がっている。
そして何かを恨み、憎み、呪い続けている“声なき叫び”が、空気をじわりと歪ませている。
──夕奈は息を呑んだ。
それは、明らかにこの世のものではなかった。 存在そのものが空間にそぐわない。そこに立っているだけで、場の温度が下がるような気配。
夕奈はその姿から、言葉では形容できない怨念を感じ取っていた。
アレは所謂、『怨霊』の類──直感が警鐘を鳴らす。
(気付かれたらマズい……!)
震える手を押さえ込んだ瞬間──
「そこの者、何をしている!」
「~~ッ!?」
背後から放たれた鋭い声に、夕奈はびくりと肩を震わせた。
振り返ると、廊下の角から巡回中の兵士がこちらに近づいてくる。
「あっ、ご、ごめんなさい……ちょっと、寝つけなくて……!」
慌ててドアを閉じながら、夕奈は目の端に焼きついたそれの影が、ゆっくりと廊下の奥へと滲むように消えていくのを見た。
(……今の、あの兵士さんには、見えてないみたいだった……)
(じゃあやっぱり──霊……!)
常人ならば何かの見間違いかと思うかもしれない。
しかし──あの気配は、夕奈にとって、慣れ親しんだ“霊”のものだった。
(この世界にも霊がいるんだ……!)
怖い。けれど、それ以上に──胸が高鳴っていた。
あれほど強くて、澱んだ、禍々しい気配を感じたのは初めてだった。あの異様な頭と、溶けるような影、そして呪いのような気配……まだ、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
(すごい……本当に、霊がいる。こんな異世界にまで……!)