◇第三章<処遇の決定と相棒との出会い> 4
夜の帳が降りきったころ。
ルーヴェン家別邸の普段は使われていない客室に、煌々と灯りが灯っていた。
そこは、ルーヴェン家別邸に滞在する夕奈の為に、臨時的に与えられた部屋だった。
二面採光の大きな窓には、磨かれたガラス越しに月の光がぼんやりと浮かぶ。クラシカルな調度品のひとつひとつは手入れが行き届き、壁には淡い藤色の花を描いた絵画がかかっている。カーテンは厚手のベルベット製で、重厚感と共に部屋をしっかりと包んでいた。暖炉にはすでに火が入り、天蓋付きのベッドには柔らかな毛布と薄い布団が折り重ねられている。
けれど今、夕奈の関心はそのどれにも向いていなかった。
ベッド脇の椅子に腰を下ろした彼女が膝に乗せているのは、あの黒いシェラリスだった。タオルでぐるぐると巻かれた小さな体は、まだぐったりと力がない。
お湯で濡らした布を絞り、その布でそっとシェラリスの体を撫でるように拭っていく。
屋敷についてすぐに「お湯と清潔な布を」と頼んだら、ミラがすぐに手配してくれた。
……そういえば、ミラは王城付きの侍女ではなく、ルーヴェン家専属の侍女だったらしい。そのことにやっと気づいたのは、王城で私を見送ったはずの彼女が、この屋敷に着いた時にはすでに迎えの準備を整えて待っていたからだった。あのときの驚きは、今もはっきりと思い出せる。
(私、馬車でここまで来ているのに……ミラさんって忍者かなにか?)
シェラリスの毛並みはボサボサで、細い体の骨格がすぐ下に感じられるほどやせ細っていた。泥や土くれに混じって、咥えられていたせいかフロッカの涎までこびりついていて、白い布はすぐに汚れる。そのたびに布を濯ぎ、絞ってを繰り返し、丁寧に身体を拭き上げる。
その細い身体に、大きな傷は見当たらない。ただただ、ひどく衰弱しているだけのようだった。
「……こんなになるまで、どうしてたのよ……」
胸の奥に、きゅっと何かが詰まるような感覚がする。彼女はシェラリスをあらかた拭き終えると、柔らかいタオルに包み直し、温めるように腕にしっかりと抱き込んだ。
そのまま、先ほどミラから渡されたヤクの乳を少しだけ指先につけ、シェラリスの口元へと運ぶ。少しでも体力をつけなければ……と祈るような気持ちでいると、ちゅっ、と指の先に小さく吸い付く感触があって、思わず夕奈の目が見開かれた。
「あ、飲んだ……!」
ぎこちない動きだが、その小さな口元は確かに命の本能に従って動いている。夕奈は何度も小指に乳を取り、犬歯に触れないよう注意しながら口へ運んだ。
しばらくそうしていると、シェラリスはうっすらと目を開け、夕奈の顔を見上げる。その瞳はガーネットのような深い紅色をしていた。
しばし見つめあい──そして、瞼が再び閉じられる。
(安心してくれたのかな……)
そう感じたのは、きっと気のせいじゃない。
夕奈はそっと指の腹で小さな頭を撫でてやる。すると、シェラリスはその指に頬を摺り寄せてきた。
「かっ……」
(かわいい……っ……!)
ぽつりとこぼれたその声に応えるように、シェラリスがクゥと小さく鼻を鳴らした。
「にしても、シェラリスって呼びにくいなぁ……うーん……しーちゃん、とか?」
思いつきの命名だったけれど、抱いたままそう呼んでみると、不思議としっくりきた。
「しーちゃん」
「クゥゥー」
どこか満足そうに聞こえるその返事に少しだけ安心して、ほっと一息つく。
そうして、改めて部屋を見渡した夕奈の胸中に浮かぶのは、この広い屋敷のことだった。
──そういえば、自分の部屋に案内されて、直行したから気にしていなかったけど……。
(宰相さん、屋敷に入る時に「手狭かもしれんが」とか何とか言ってたけど……どこが!?)
この客室一つ取っても、十分すぎるほど広くて立派なのに。外から見た際の屋敷の大きさを思い出し、貴族のスケール感に震える。
その時、控えめなノックの音が部屋の中に響く。続いて、扉の外から声がかかった。
「ユウナ様、ミラです。ご気分が落ち着かれたようでしたら、屋敷をご案内いたします」
夕奈はすぐに立ち上がり、しーちゃんを抱いたまま扉を開ける。
「……ありがとうございます。ただ、その……この子のことが少し気がかりで……」
「大丈夫です。抱いたまま、ご一緒にどうぞ」
ミラの穏やかな笑顔に、夕奈はほっと息をついて頷いた。
◇
ミラに導かれ、夕奈は屋敷の中を案内される。
応接間、食堂、書斎、書庫、ルシリオの私室、ゲスト用の客室に寝室、浴室、厨房、使用人室やメイド室──。
(……これ、13…14LDKくらいない……?)
頭の中で間取り図がぐるぐるする。
しかも、敷地内には裏庭もあって、そこにフィルガルたちと馬の小屋、そして管理人の小屋まであるという。これが一人で住むための屋敷だとは……日本では考えられない豪華さにクラクラしてくる。
やがて、ミラが玄関ホールで足を止める。
来たときは足早に駆け抜けてしまったが、改めて見ると高級感溢れる空間だ。高く吹き抜けた天井と、白黒マーブルの大理石のような石畳。壁際には控えめな装飾の花台がひとつあるきりで、あとは余計なものは何もない。それがかえって、この屋敷に流れる空気の重みを強調していた。
ホールの中央では、落ち着いた佇まいの初老の燕尾服の男性と、ふくよかで人懐っこい笑みを浮かべるメイド服の女性が揃っており、ミラと夕奈の姿を認めると、深々とお辞儀をした。
「執事のレズネルトと申します。こちらは妻のクラリーチェでございます」
「メイドをしております、クラリーチェでございますぅ」
二人の人柄の良さそうな優しい雰囲気にホッとし、よろしくお願いします……と頭を下げる夕奈に、ミラは続ける。
「この屋敷の事は、二人に殆ど任せております。今はサイラスと……他に、庭師と動物の世話を兼任している管理人もおりますが、今日はもう遅い時間ですから、そのうち改めてご挨拶させますね」
そういえば、と時計を見やると、針が夜を深く差し込む頃になっている。それを見て、クラリーチェが「夕食はお部屋へお届けいたしますねぇ」と優しく言った。
言われてみればお腹はペコペコで、夕食という言葉を聞いただけで腹の虫がなりそうだった。
と、そこで、夕奈はあることを思い出す。
「あの、そういえば宰相さ……ルシリオ様はどちらへ?」
考えてみれば、屋敷に着いてからここまで、しーちゃんの世話に夢中で、他のことはまるで見えていなかった。思い返すと、宰相さんとは屋敷の入り口で話をして以降、見かけていない。
「あら、ご存じありませんでしたかぁ?王城へ戻られましたよぉ」
「は……?」
(……えっ、まさか私を送り届けるためだけに、屋敷へ帰ってきたってこと……?)
そう考えて少しドキっとする。
そんなに忙しいなら、わざわざ自分で送り届けなくてもよかったのに。サイラスもミラもいたのだから、任せることもできたはずだ──と思ってから、直ぐに「いや、逆か」と思い直す。
あの人のことだから、何か目的があって私を見届けに来たのだろう。
馬車の中で交わした、あの話。釘を刺すような、命令のようなあの言葉……きっとそれが本題だったのだ。私が心配だったとか、そんなことは決してないだろう。きっと。
それはそれで、何か少し悲しいけど……。
「……お忙しいんですね」
「そうですね……我が主は、多忙極める方ですから」
夕奈が複雑な感情を抑え込んで呟くと、ミラは意味ありげに笑った。
その横で、クラリーチェが溜息をつく。
「……ほんとうは、相談したいことがあったんですけどねぇ。まあ、それはまた今度にしましょうかぁ」「相談……というと?」
世間話のような口調だったが、その言葉に夕奈は少し引っかかるものを感じ、軽く尋ねる。
と、クラリーチェはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに身を乗り出して、口を開いた。
「最近ね、城下町で流行ってる『導きのティセノ板』っていう、不思議な道具の話なんですけどねぇ」
『導きのティセノ板』。
その言葉の響きに、夕奈はゾクゾクと背中を駆け上るものを感じる。
まるでまた、奇妙な扉が音もなく開いたような、そんな予感。
見えない何かが、そっと手招きしている気配。
「そのお話、詳しく伺ってもよろしいでしょうか?」
新しい怪談が、彼女を呼んでいる声がした。
第一話【背伸びの貴婦人】 -終-
第二話は6月中旬より毎日更新予定。




