◇第二章<“推理”と宰相の協力> 3
沈黙が落ちた部屋の中、ルシリオは何も言わず、窓際にある古びたクローゼットに視線を向けていた。
そしてゆっくりとその扉を開き、中からくしゃりと乾いた音を立てて何かを取り出す。
「……これは、ウェリア公爵令嬢が亡くなった時に被っていたヴェールらしい」
手にしていたのは、黄ばみ、ほつれたレースの布切れ──彼女が死の間際に身に纏っていたもの。
「遺族の申し出で、処分せずに残されていたようだ……まあ、処理を忘れられていただけかもしれんが」
その声音には、哀しみも、懐かしさも、怒りも、一切の感情が感じられなかった。
まるで自分とは何の関係もない物語の一頁をなぞるように、ただ事実を述べているだけだった。
けれど──それが、かえって不自然に思えるのは、邪推しすぎだろうか。
(……やっぱり、宰相さんもウェリアさんに思うところが……)
夕奈は無意識に、胸の前で手を合わせていた。
彼の言葉の端々に、なにか切り取られた感情の“痕跡”を探してしまう自分がいる。
と、ふいに──部屋の空気が、すうっと冷えこんだ気がした。
「!」
誰も動いていないはずなのに、風が吹いたような気配。
ヒリヒリと肌を刺すような緊張感が、空間の中に広がっていく。
(来る──!)
長年、霊と付き合ってきた経験に基づく直観だ。霊が現れる場、特有の冷えた空気感……ただ確信だけがあった。
夕奈は、固まりそうになる身体を叱咤し、ゆっくりと振り向く。
視線を向けた先、部屋の隅の窓際にそれは立っていた。
(『背伸びの貴婦人』……!)
彼女はまた、首をかしげるようにして、すうっとその背を……いや、首を伸ばしていく。
まるで人形のような関節、粘土細工のように引き伸ばされる肉体。ギギ……ギィ……と、軋むような音が首元から響き渡る。
そして頭だけでルシリオの前へ回り込み、彼の顔を、じっと見つめていた。
(……落ち着け、夕奈)
冷静に、いつもの“仮面”をかぶるのよ──そう自分に言い聞かせる。
心臓が早鐘を打っている。手のひらは冷たく、背筋には汗が伝っていた。
(大丈夫。宰相さんには、視えていないはず。視えなければ、騒ぎもしない……)
ルシリオの様子は変わらず、感情の読めない無表情で佇んでいる。
──けれど。
「……背伸びの貴婦人、か」
静かな声で、彼は呟いた。
(……え?まさか、タイミングよく口に出しただけよね……?)
夕奈は反射的に、彼の目線を追う。
ルシリオの表情は相変わらずだが、氷のような凍てつくその視線が、それの立つ位置とまったく同じ場所を、じっと見ているように思えて──。
「だが、アレはあくまで噂だろう。お前が実際に視たわけじゃなければな」
夕奈は、奇妙な違和感を覚えた。
宰相さんは私に向かって話しているのに、目線が合わない。何か私の間に何かがいて、ピントがそちらに合っているかのように──。
(……まさか……宰相さんにも、“視えて”いるの……!?)
背伸びの貴婦人は、首をかしげたまま、喉の奥から掠れるような声を絞り出す。
「……ルシリオ様……?ルシリオ様、ねえ、こたえて……ねえ……ルシリオ様……」
夕奈の背筋に氷の爪が這う──返事をしたら、連れていかれる。
脳裏には赤い警告灯が回転するような勢いで、“記憶”と“知識”と“恐怖”が駆け巡る。
そんな夕奈の焦りも知らず、ルシリオがこちらへ一歩踏み出し、口を開きかけた、その瞬間──。
「っ、ま、待ってください!」
夕奈は取り繕うことも忘れて、ルシリオの前に飛び出した。
そのままの勢いで、小声で矢継ぎ早にルシリオへ囁く。
「それ以上、喋らないで……!あれには……返事をしちゃ、だめなんです!」
夕奈の頭の中には、情報が雪崩のように押し寄せていた。
(……やっぱり、背伸びの貴婦人は……八尺様に似ている)
背が高い女、白い服、頭の被り物。若い男を狙い、妙な音を立てながら声を掛けてくる……城内での噂も、そうだった。被害にあったのは決まって若い衛兵たち──つまり、“対象”は男。
ならば、返事をしてはいけない。
八尺様の話では、どんな声色で話しかけられても返事をせず、結界を貼った部屋に閉じこもることが有効策とされていた。応えた者は、“境界の向こう側”へ連れて行かれるのだ。
(きっと女の私には関心がないはず……だから私が騒いだとて、多分問題はない)
宰相を呼んでいる声が強くなる。何度も、執拗に、名を。
(気づかれても、無反応が一番……気付いていないふりが、たぶん有効なはず)
(彼女が探しているのは、ルシリオ宰相ただ一人。私には、軽率にここへ彼を連れてきてしまった責任がある)
一秒にも満たないその思考の連鎖の果てに、夕奈は決意を固める。
(だったら私が、なんとかしなきゃ──!)
夕奈はキッと振り返ると、ただ毅然と、まっすぐに背伸びの貴婦人を睨み据える。
その夕奈の必死な様子に、言われた通り口を噤んだルシリオは、夕奈の横顔を見つめて、ほんのわずかに目を細めた。
「おまえ……ルシリオ様、じゃないの?」
背伸びの貴婦人はやはり夕奈など眼中にない様子で、ルシリオの顔を覗き込んでいたが、やがて諦めたのかスッと離れて行き、部屋の中心を彷徨いだす。
「……ルシリオ様、じゃない?ルシリオ様なら、返事……してくれる、はず…なの…………おまえ……ルシリオ様を……しらない……?どこ?ねえ、どこ?どこにいるの?」
くぐもった声、低く濁った声。けれど先日よりは、どこか理性の片鱗を残した声色。
「わたし、まってたの……ずっと、ずっと、ずっと、ずっと……どこ?どこにいるの?」
感情がぐしゃぐしゃに混ざった言葉。ひどく濁っているのに、どこか哀しげで、切実で──。
(貴女の為に、私ができることはなに?)
夕焼けが、塔の小さな窓から斜めに射し込んでいた。茜色に染まる光が、埃の舞う空気を優しく照らし、異様な影の輪郭さえ金色に縁取る。
夕奈は胸の前で合掌し、背伸びの貴婦人──ウェリア=ウァルドの為に、口を開く。
あたかもこの空間そのものが、彼女の祈りに耳を澄ませているかのように──。
「ウェリアさん、貴女は──ルシリオさんの隣へ立ちたかった……彼に会いに来てほしかったんですね。ただ、それだけを夢見て、願って……そして貴女は絶望してしまった、自ら死を選ぶほどに」
夕奈はひとつひとつの言葉を慎重に選び、ウェリアへと語りかけた。
その静けさの中で、夕奈の言葉はそっと空間に沁み渡り、ゆっくりと部屋の隅々にまで届いていくようだった。
「貴女がどうしてそこまで思い詰めてしまったのか、私には想像することもできません。でもね、これだけは伝えさせて。貴女が愛した人は、決して貴女を忘れてなどいません。貴女の“声”は、確かにここにあって、ちゃんと……彼にも届いている」
背伸びの貴婦人──ウェリアが夕奈の方へ顔を傾ける。ゆらり、ゆらりと揺れていた長い首の影が、ひとときの静止を迎える。
夕奈は更に一歩前に出て、彼女へ静かに語り続ける。
「だからもう──逝っても良いのです。貴女が、自ら彼と“さよなら”を選んだのなら、そして彼の事を今でも愛しているのなら猶更。彼を心配させないためにも、向かうべき場所へ行かなくてはなりません」
語る夕奈の声は柔らかく優しく……死者の魂を導く為の“祈り”だった。
「貴女が、死後も安らかにありますように……貴女を愛した人、全てがそう願っているはずなのですから」
すると──部屋の空気が、ふわりと静かに震えた。まるで水面に落ちた一滴が、静かに波紋を広げるように。
背伸びの貴婦人の輪郭に、ほのかな光が宿る。月光をすくったかのような白いヴェールがゆっくりと舞い上がり、風もないはずの空間に、まるで目に見えぬ手が触れたような優雅な動きを描いた。肩先から裾へ、繊細な布地が金砂のような粒子に変わり、空中で儚く煌めきながらほどけていく。
そして、背伸びの貴婦人は、首の長い異形の姿から、華奢な女性のものへと、頭から足先まで順に、自分を取り戻していく。
自分の祈りが届いた結果なのか──夕奈にはわからなかった。ただ、想いを込めて語っただけだ。それだけのことで、ひとつの魂を癒せたのなら──それでいい。
(──きっとこの世界の“あの世”……ノアルへ還っていくんだ)
光の粒が窓から飛び出し、空へと昇り、やがて──全ては空気に溶けるように、静かに、優しく、消えていく。
ウェリアの輪郭が光の粒となり薄れていく中で、ほんの一瞬、美しい微笑みが見えたような気がした──。
それが、夕奈がこの世界で初めて見た、霊が“生者の空”から、死者の楽園“ノアル”へと還る瞬間だった。
やがて、部屋は静寂を取り戻す。
窓の外に目をやれば、あれほど鮮やかだった茜の色には淡い群青が溶け始めていた。石窓の縁をそっと撫でるように、薄っすらと月光が差し込み、室内を仄かに照らしている。
ルシリオは、何も言わなかった。ただ一連の出来事を、沈黙のまま、確かに最後まで見届けていた。その横顔に落ちる月明かりは、静かな陰影を形作っている。
だが、そこに浮かぶ感情は──やはり、夕奈には読み取れなかった。
ふと、夕奈の視線が、床に落ちていた『何か』を捉えた。
しゃがみ込み、そっと手に取る──それは、角がくたびれ、色褪せた古びた封筒だった。かすかに湿気を吸ったような手触りに、指先がわずかに引っかかる。封はされておらず、中には一枚の便箋が折りたたまれて入っていた。
「……手紙?」
静かに開いてみると──紙面のほとんどが滲んでいる。
インクが流れ、言葉が崩れ、意味を成さない文字の群れがそこにあった。もしかすると、年月の経過か、それとも涙のようなものに濡れたのか。
ただ──その中で、たった一行だけが奇跡のように残されていた。
『私は、彼の隣に立つ未来を、夢見ていました。』
「ウェリアさん……結婚できなかった、っていう未練があったのね」
夕奈はそっと呟きながら、手紙を胸元に抱えた。
でも──婚約者ならば、いずれは結ばれる予定だったはず。なぜ、自分を死に追いやるほど絶望したのだろう……結婚できなくなった理由でもあった?
一瞬だけ浮かんだ違和感。
……だが、それ以上は考えるのはやめた。もう過ぎたことだ。
それに──きっと、他人が軽々しく踏み込むべき領域ではない。これは宰相さんとウェリアさん、二人の問題だからだ。
『背伸びの貴婦人』の姿はもう、どこにもなかった。
そうして、塔に漂っていた重たい気配も、今や嘘のように消え去っていた。




