◇第一章<怪談師、本領発揮> 4
あの塔へ行ってから、いくつかの夜が過ぎた。
けれど、あの白い影の気配──背伸びの貴婦人──は、夕奈の記憶から消えることはなかった。
何者だったのか。なぜあの塔に現れるのか。
それを知るために、夕奈はこの城の中で、静かに情報を集めはじめていた。
この城での日々は、奇妙な静けさに満ちている。
ミラを含め、身の回りの世話をしてくれる侍女たちは穏やかで、与えられる食事や衣服に不自由はない。けれど、与えられるのは“管理された平穏”であり、自由ではなかった。
用意されたのは居心地の良い“客人用の部屋”だが──出入りは制限され、見張りの兵が控えている──まるで、優雅な檻の中にいるようだった。でも、そんな檻の中でも出来ることはある。
会話だ。
最初こそ、侍女や衛兵たちの警戒は強かった。だが日々の挨拶や些細な雑談を交わすうち、彼らの態度は徐々に柔らかくなっていった。
給仕や掃除の合間、ぽつりと漏れる言葉──そのひとつひとつを、夕奈は見逃さなかった。
(噂は、その場で生まれるものじゃない。人と人との間に、ふとした瞬間に生まれるもの)
彼女はそれを心得ていた。だからこそ、急がない。焦らない。
(……詮索しすぎないこと。話したくなるまで、待つこと──)
ただ、そのキッカケは作ってやる。
『背伸びの貴婦人』を知らない者には積極的にその噂を流し、そしてその噂が周り回って夕奈の元へ訪れる頃には、新たな情報が付与されている。
やがて誰からともなく、些細な世間話に紛れて、城の噂がひとつ、またひとつと彼女のもとへ集まりはじめた。
まずは、“点”──断片的な目撃談。
「あの塔の窓辺に立つ、白い女を見たって……」
「顔は見えないけど、なんか……高いんです。背が」
「何かが“軋む音”がしたっていう人もいたな……」
次に、“線”──場所と人が繋がる。
「噂が広まり始めたのは、確か……五年前だったと思います」
「あの塔、昔はウラミーナ王女様が使ってたんですよ」
「でもウラミーナ王女が降嫁されたあと、あの塔は使われなくなったんです」
そして、“面”──事件の痕跡。
「そういえば、宰相様の婚約者だったお嬢様……あの方、ウラミーナ王女の侍女だったんですよね」
(……あの宰相さんに、婚約者?)
(いや、いても不思議じゃないけど、あの人の普段の態度からは、全く想像できないな……)
凍てついたような視線、感情を感じさせない声音を思い出す。あの人にも、誰かを想う温度があったのか、としみじみ不思議に思った。
(まあ、私には関係のない事だけど)
こうして、夕奈の中で、無数に浮かんでいた点が、線となって絡まり、面として広がりはじめていた。
そして、ある日──すべての“噂”が、ひとつの“物語”へと結びつくきっかけが、静かに舞い降りた。
午前中の柔らかな陽光が、窓辺に設えられた木製のテーブルを金色に染めていた。風に揺れる薄絹のカーテンが、陽射しの輪郭を淡く揺らし、光と影が織りなす模様となって床に映っている。小さな銀のティーポットから立ちのぼる湯気は、まだ朝の涼しさが残る空気に溶け込み、ほのかな甘い香りを部屋に漂わせていた。
夕奈はカップを傾けながら、視線だけでそっと花瓶の白百合に目をやる。傍らで、花瓶の水を替えていたのは、若い侍女のひとりだった。侍女の仕草は丁寧で、読書をしている夕奈の邪魔をしないように、静けさを壊さぬよう心を配っているのが伝わってくる。
最近になって、ようやく部屋に入ってくる侍女の顔ぶれにも変化が見え始めた。ミラ以外の者が用務に就くことも増え、どうやら“厳重な監視”の扱いは、徐々にではあるが緩やかになりつつあるらしい。
今、水を替えているこの侍女も、そのひとり。あどけなさの残る年若い娘で、いつも緊張した面持ちを崩さず、口数は少ないが──彼女がお喋りな誰かの隣で話を聞いてきたタイプだということは、なんとなく分かっていた。話しかけた際の相槌の雰囲気、傾聴の姿勢がそれを物語っていたからだ。
夕奈は、開いていた本を静かに閉じ、その空気に溶けこむように声を発した。日々の感謝を軽く伝える、そんなトーンで。
「……いつも気を配ってくださって、ありがとうございます。とても丁寧なお仕事ぶりで、落ち着いた時間を過ごせています」
夕奈の声掛けに、侍女はぴくりと肩を揺らし、慌てて動きを止めた。一瞬戸惑ったように目を丸くした後、手にした水差しをそっと棚に置き、両手でスカートの裾をつまんで深くお辞儀をする。
顔を上げた彼女は、どこか恐縮したように頬を赤らめながら、言葉を選ぶようにゆっくりと返した。
「いえ……私なんてまだまだです……! 夕奈様がお優しいだけで、他の方にはいつも叱られてばかりで……」
「他の方って、王族の方々とか?宰相さんも?」
「……ええ、そうですね。とくに、宰相様は……」
かかった。
「そうなんですか……宰相さんって、やっぱり特別な方なんですか?」
「ええ。アレスト王からの信頼も厚くて……家柄もありますし、魔力も高く、優秀な方です。厳しい所が目立つ方ではありますが……」
夕奈は、今しかない、とあの話題を切り出す。
あくまで自然な会話の流れを装って。
「でも、あんなに近寄りがたい雰囲気なのに……かつて特別な方がいらしたって、どこかで耳にしたことがあって」
侍女ははたと手を止め、目を瞬かせた。そして、躊躇いながら、言いにくそうに言葉を続ける。
「……ああ……実はその方、ウァルド家のご令嬢で……当時はウラミーナ王女の侍女をなさっていたんです」
「ウラミーナ王女の侍女、ですか?」
「はい。ウラミーナ王女は、今はご降嫁なさっているのでお城にはおられませんが、もとはあの塔──例の“空き塔”をお使いだったそうで……」
「では、その令嬢も……あの塔でお過ごしに?」
問いかけると、侍女は少し逡巡してから頷いた。気まずさを隠すように口元に手を添え、目を伏せたまま、僅かに肩が揺れる。
そして、まるでその話題に触れること自体がはばかられるかのように、侍女は声を落とした。
「……はい。ですが、数年前に──塔の窓から落ちて、お亡くなりになったそうです。事故、だったと……」
(……塔の窓から……落ちて亡くなった?)
──それは、いくつもの断片をつなぐ決定的な言葉だった。夕奈の内側に静かに波紋が広まっていく。
(まさか……背伸びの貴婦人って……)
白いドレスに白いヴェール、誰かを探すような口ぶり、異様に長い首で窓の外を見る姿。
あの塔に住んでおり、塔の窓から落ちて亡くなった、ルシリオ宰相の婚約者。
それらすべてが──繋がった。
それまで曖昧だった“白い女”の像が、急激に輪郭を持ち始めるのを、夕奈は確かに感じていた。点と点が繋がり、線が生まれ、そして輪郭の浮かんだ“物語”が、静かに彼女の前に立ち現れる。
(……私は、“語り部”。なら、その物語を紡いであげなくちゃ)
「言いにくいことを聞いてしまってごめんなさい……お話、ありがとうございました」
侍女に心からの礼を言うと、夕奈はそっとソーサーへカップを置いた。




