1日目ー4 諦めと覚悟
それからどれくらい経っただろうか。
「――がぼっぐべぁあ!? ……げほっ、ごほ……っ!」
口内に大量の水が流れてこんでいる事に気が付き、盛大に咳き込みながら月瀬の意識は浮上した。
慌てて上体を起こすも、気管に入ったらしい水はそう簡単には抜けてくれなくて、げほごほと力強い咳を繰り返す際、思わずついた手を水たまりに突っ込んでしまう。
「……ごほ……っ! げへ……っ! あ゛ー……酷い目に、げほっ、あ、った……。……ん?」
ひと通り咳が落ち着いてきた頃、状況把握の為に周りを見渡す。白い壁、やや傷のあるフローリング、年季の入ったダイニングテーブル……一人暮らしをするには随分と広い、よく知っているリビング。
間違いない。月瀬の家だ。
時計を確認してみると、午後に差し掛かったくらいである。気絶していた時間は長くて1時間ちょいといったところか。
「……あ、あれ。私達……けほっ……交番、居たよね?」
「ずっと居ていいって!」
「……えっと? ……もしかして、警官のお兄さんが、あんたは私のところに居ていいって言ってた……の?」
「ん!」
魔法少女が半分以上空になったスポドリを見せつけながら頷く。どうやら、初めて出会った時の月瀬のように、口にこれをぶち込んで起こしてきやがったらしい。
月瀬を覗き込むピンクと赤のオッドアイは輝いており、口にスポドリを突っ込んだ事への悪意は感じ取れない。
のっこらせと上体を起こし再度見渡す月瀬。着ている服は胸元を中心に酷く濡れており、周囲の地面には水たまりができていた。
――なんで倒れてたんだ私。……たしか、唐突に眠くなって……。熱中症、かな……?
もしかして熱中症で倒れていたのだろうか。そんな疑問を解決すべく、月瀬は口を開こうとして――そんな事とは比べ物にならないくらい大きな疑問に思考回路を貫かれた。
魔法少女の衣服が、乾いた血で彩られていたのだ!
「――って、ちょちょちょちょあんた! めちゃくちゃ血ついてるけどどうしたの!? 何かと戦ったの!?」
「血でた」
「へ?」
気が動転している月瀬とは対象的に、袖口で鼻をこする魔法少女。まだ動揺している月瀬が顔を上げると、確かに魔法少女の鼻の当たりも血で汚れている。
自分の知らぬ間に悪の組織的な存在と戦っていたとかそういう事じゃなくてほっとする反面、捨てられずにいた程度には気に入っていた服があっという間に汚されている事に対して酷い悲しみと心に穴が空いたかのような感覚を抱く。
――ああ、この服気に入ってたんだけどな……。でも鼻血じゃしょうがないよな……。
「……鼻血出ちゃったんだね……。今は止まってるの?」
「ん!」
「ならいいんだけど……。ああ……せっかくの可愛い服が……」
「……ごめんね」
「いやいいんだよ。鼻血は生理現象だから……。でもその服洗うから一旦脱いでね。別の服用意しなきゃ」
「ん!」
のっこらせと立ち上がると、魔法少女が服をその場で脱ぎ、月瀬に手渡してきた。慌ててレースカーテンがちゃんと閉まっている事を確認してから着替えを回収しに行ったのは言うまでもない。
という訳で、魔法少女に別の服を着せ、脱がせた服を洗面台に貯めた水――血専用の洗剤を混ぜたもの――につけた頃、ふと思い出す。
――あれ、鍵渡したっけ?
手を拭きながら、今朝起きてからの出来事を順に思い出していく。やはり、鍵を渡した覚えがない。家を出る時に鍵をかけた記憶もある。
では、なぜ今自分は家に居るのか、一番最初に思い浮かんだ可能性は『鍵をバッグに入れたのを見られていた』事だが、果たしてあの子はそんな大人しく物事を解決してくれるだろうか。そうであってほしいのだが。
リビングへ戻ると、魔法少女が鼻歌を歌いながら片足でくるくると回っていた。今着ているものは裾が長めのTシャツなのだが、上半身がちょいとぶかぶかなミニスカワンピに見えなくもない。……何がとは言わないが、見えそうである。
「……ねぇあんた。あのさ、この家……どうやって入ったの?」
恐る恐る尋ねると、回転を止めて月瀬を見上げた魔法少女が玄関を指さした。きょとんとした表情で。
「え? そこ、ばきゅって」
「ばきゅ? ……まってまさか!」
慌てて玄関まで突き抜ける。この嫌な予感が気の所為でありますようにと思いながら、ドアの側まで駆け寄った。
ドアノブに手をかけ、回してみる。
カチャン! と嫌に軽い音がして、ドアノブが外れた。
「やっばり鍵壊ざれでりゅぅうううぅうう!!!」
ああ、何ということだろう。カバン、スマホに続く第三の犠牲者がこんなに早く出てきてしまうとは。思わずその場に崩れ落ちてしまった。
直後、とても大事な事を思い出す。この家はホームセキュリティの契約がされてあり、不審者が来たらすぐ月瀬本人と保護者代表である父方の祖母に連絡が行くようになっている。そして、月瀬のスマホは今故障中である。という事は――。
「ねぇっ! 私が倒れてた間、電――あの白いのから音鳴ったりしてなかった!?」
「なってなかったよ」
「ならいいんだけど……」
そう返されてほっと一息つく。家電にもかかってきていないという事は、知らないうちに警備会社が出動している訳ではなさそう。
直後、その安心を疑問が突き刺した。
たしかアレは玄関先等についている監視カメラが異常な動きをしている存在を感知したら知らせてくるものだ。
それらの情報から推理できる事はただ一つ。
この魔法少女は、ほぼ自然な動作で鍵を壊しやがったというわけだ。
「業者呼ばなきゃ……。あと相葉さんに連絡もして……言い訳も考えておかないと……。うぅ、この家にあるもの全部壊される日も近いかも……」
玄関扉の鍵なんてそう簡単に壊れるものではない。業者と祖母にどう言い訳しようか。……そもそも、これから先何度もこのような事を考えなくてはいけなくなるのか? 気がつくと月瀬は目からハイライトを消しており、そのまま静かに項垂れていたら魔法少女が慌てて駆け寄ってきた。
二色の目は大きく開かれ、間にシワを寄せた両眉は困ったように垂れ下がり、半ば空いたままの口からは「ぁ……えと……」と蚊の鳴くような声が漏れるばかり。
「……それ、大事な、もの?」
「大事なものというか、これが壊されると最悪私が死ぬ。泥棒に入られて物盗まれてレ◯プされて殺される」
「どろぼ……? よ、よくわからないけど、オマエ、ワタシ、守る! これでいい!?」
「それはまぁ、頼もしいこったぁ……。ああ、貯金崩さなきゃ……」
魔法少女が自分を守ってくれるという幼少期に何度も夢見た展開が目の前で繰り広げられているのだが、月瀬の瞳は虚空を映しており、脳内は鳥の如く飛んでいく金の事でいっぱいであった。元々貯金好きなタイプであるせいか、手元の金が無くなるという事はゲームで言う弱点を狙い撃ちしてくるタイプの攻撃に等しい。
幸いにも貯金はあるから、借金等の問題は抱えなくて住むが……。
「……あんた、お金持ってないよね」
「オカネ?」
「何か、欲しいものを比較的穏便に手に入れられる為の手段だよ。……金貨とかの方が伝わるかな」
「きんか……ない」
小さく首を横にふる魔法少女。月瀬は一つため息をついてそっと目を閉じた。これからこの大問題児を抱えてどうやって生きればいいのか。
一応、毎月祖母が生活費を振り込んでくれるが、なるべく貯めておきたい。
――親御さん、早めに見つかるといいな……。見つかりますように……。いやほんとに……。
心の中で神社にある鈴緒を往復ビンタの如く何度も鈴にぶつけながらぼやく。この子を受け入れることになったのはまぁしょうがないとして、これ以上ものを壊されたら月瀬の精神まで壊されてしまう。
そのまま数十秒。現実を受け入れる準備が出来たので目をそっと開く。青い顔した魔法少女が隣でおろおろしていた。
月瀬の胸の奥に潜む怒りが牙を向く。だが、噛みつくわけには行かない。相手は反省している……と思われるからだ。
唇をきゅっと噛み、滲んだ怒りを消化してゆく。数十秒ほど経って、多少すっきりした頃に再度口を開いた。
「……ねぇあんた、ちょっとでも悪いって思ってるなら家事の手伝いしてよ」
「かじ? かじって何?」
「この家で生きていく為に必要な作業全般。掃除したりとかご飯作ったりとか。やり方は私が教える。いいね?」
「う、うん! がんばる!」
本当なら適当なバイトでもさせるべきなのだが、このトラブルメーカーにそれは無理だ。バイト先でトラブルを起こして数日足らずで追い出されるのが目に見える。そもそもバイトをするのに必要な書類等を用意する時点でつまずくだろう。なんせ戸籍があるかすら怪しいのだ。
――私が色々教えていくしかない。どうかこの子に悪意がありませんように。
決意が力となり、ぎゅ、と拳を握りしめた。そのまま立ち上がる。一瞬遅れて、魔法少女も慌てて立ち上がった。
そのまま彼女の方を見やる。緊張したような強張った表情を浮かべたままこちらを見上げる彼女を見つめた。
「そうだ。一緒に住むんだからさ、おまえじゃなくて、名前で呼んで。私は青蜂月瀬。月瀬でいいよ。あんたは……ああ、わからないのだっけ」
「しぐにーみあ」
「え?」
完全に予想外かつ聞き慣れない単語が聞こえ、月瀬は目を見開いた。
「思い出したの。なまえ、シグニーミア。魔法少女だよ!」
シグニーミア。と口の中で反芻する。どう聞いても日本人の名前ではないし、月瀬の知っている単語ですらない。ミアという名前の日本人なら居そうではあるが。
なぜ急に名前を思い出したのか不明な上に、困惑してしまうくらい急すぎる展開だが、月瀬は少し安心していた。ようやく彼女の素性に関する手がかりを得る事ができたのだから。
「……シグニーミア、かぁ……じゃあ、ミアって読んでもいい?」
「うん。好きによんで。ツキセ!」
初めて魔法少女、改め、シグニーミアが笑顔を浮かべた。
先ほどまでの落ち込みなどどこにもない――それこそ褒められた子供が浮かべるような――曇り一つ無い、愛らしいものを。
だが、月瀬の胸の奥に、ほんの微かな違和感が灯った。
――あれ、私って、こんな気軽にあだ名で呼ぶこと、あった……?
別にミアと呼ぶのが嫌というわけではない。ただ、自分の口から自然にそんな言葉が出てきた事にどこか引っかかる。普段なら、下の名前を呼ぶのだってためらう方なのに。
――まぁ、今は深く考えてもしょうがないか。
自分でそう言い聞かせて、微かに籠もったもやを押し込める。
シグニーミアの笑顔を見て、これ以上何かを疑うことなんてできなかった。