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9日目ー0 黄金の涙が落ちるとき

 時刻は月瀬達が寝静まった頃。

 月瀬の家から遠く離れたネオン輝く都会にて、湿った闇に溶けるように一つの人影が現れた。


 うつむき、目深にフードを被ったその者――ぶかぶかのパーカーとズボンという見た目からは、中身が男性とも女性とも断言できない――が目を向ける先は、華やかなネオンに照らされる夜の町ではない。


 その光が届かず、アスファルトにじっとりと溜まる闇の奥で、薄汚れた息とタバコの残り香を漂わせながら群れている人達。


 違法と合法の隙間を漂うように薬物を吸う者、市販薬を何十錠も飲んでも逝けない事に苦しむ者、金を求める為に手段を選ばない者などといった、現代社会の闇を象徴する人達である。


 フードの者はそんな濁った気配に近づき、低く囁く。


「……ねぇ、願い……叶えたくない? すごい薬あるよ……」


 その声は、日本人の――否、人間のものにしては酷く歪であった。

 プライバシー保護のノイズのようにざらつく声は、男性か女性かすらもわからない。そんな声が、マイクを通すことなく発せられている。


 あまりの異様さに怪しいと思われたのか、それとも仲間ではないと判断されたのか、声をかけられた者達は顔をしかめたり、露骨に無視を決めたりする。


 時には乱暴に手を振り払われ、肩を小突かれるが、その者はひらりと体をずらし、滑るように避けながら声をかけ続けた。


 湿ったアスファルトの上で靴底がきゅ、とこすれる。


 そんな中、やがて一人の青年がフードの者へ近寄り、声をかけた。

 青年はその薬に興味を持ったらしい。当ててやろうと様々な薬物の名を上げるも、その者は首を横に振るばかり。


「これは悲しみからできる涙……。辛いことを乗り越えるために、力を得る手段」

「そんな事言ってるけどさぁ、どーせドーピング系のものだろ? ……面白そうだ、一つ買おう。値段はこれでいいな?」


 青年はフードの者の手から小さな巾着を乱暴に奪い取り、いくらかのはした金を押し付ける。

 紙幣が湿気でしっとりとしており、青年の指先からタールと汗の臭いが移った。


 その金額は他の薬物の取引に比べて遥かに安い。

 だが、フードの者は小さく頷いただけで背を向け、町の闇へと溶けるようにして消えた。


 青年はその背を見送ることなく、手のひらサイズの巾着を開けた。

 中に入っていたのは、青みかかった水晶のように美しい、半透明の飴玉のような何かであった。合計十粒。大きさは小指の爪程。甘い香りも薬品臭も無い。


「……けッ、飴玉かよ。……ま、本物のクスリじゃねぇとは思ってたけどよ……」


 青年は失望したように舌打ちし、アスファルトにタンを吐きつけた。

 そして近くでその様子を見守っていた女性――濃いメイクを施し、地雷系の服装をしている。年齢は十代後半から二十代前半だろうか――の元へ行き、先程奪った巾着を顔の前に突き出した。


「おい、これ飲めよ」

「え、何言って……。そもそもそれ、何?」

「さぁ? いいから飲めって。……借金、少し減らしてやるからさ」


 低く、圧のある言い方であった。

 女性は小さく肩を震わせると「……わかった……」としぶしぶ巾着を受け取り、その中に入っていた一つの欠片を手に取り、慣れた様子で飲み込む。


「おい、一粒だけじゃ足りねぇって、全部だ全部!」

「えっ、でもこれ何かわかってないんでしょ」

「一粒も十粒も変わんねぇって! ほら、イッキ! イッキ!」


 青年の手を叩く音が、ネオン反射の路地に乾いた音を響かせる。

 女性の顔色から血の気が引き、巾着を握る手が小刻みに震えた。


 だが、やがて意を決したらしい彼女が、天を仰ぐ。そのまま一気飲みをするかのように残り全てを飲み干した。


 そのまま一分程経過。


「……で、どうよ? 何か変わった? 力を得るとか言ってたけど、強くなった?」


 青年の笑い混じりの声に、女性は何も答えない。

 ただ俯き、腕で己の体を抱きしめるようにぶるぶると震えるだけ。


「オイ、なんか言えよ」

「……なんで付き合ってくれないの」


 その声は先程の女性のものではなく、喉から漏れ出た怨念のように低かった。

 路地の空気が一瞬、冷えた気がした。


「は?」

「違うの……違う……っ! あたし、あんたと付き合う為に何千万も注ぎ込んだ! 借金までした……! なのに、なのにっ――」

「は? 俺は体調を聞いてるんだよ? 何急にヒスッて――」


 女性の体が痙攣し、背中が小刻みに上下する。

 そのたびに、衣服の布がぎしりと張り詰める音を立てた。

 青年は怪訝な顔を向けていたが、女性が顔を上げた瞬間、その表情が強張った。


 化粧で整えられた女性の顔に、金色が垂れていた。


 涙の軌跡をなぞるように、光を帯びた液体が頬を伝い、ぼたりと落ちる。

 地面に触れた瞬間、アスファルトが熱を持った油のようにじわりと黒く濡れた。


「……ぇ? う、嘘、だよ、な……? なぁ……?」


 青年は足をもつれさせながら後退りする。

 背中が壁にぶつかり、空き缶がカランと転がった。

 女性がゆらりと立ち上がる。


 まぶたが痙攣し、裂け目のような影が額に走る。

 さっきまで肩のラインだった部分が、ぐにゃりと歪む。まるで、内側から『何か』が押し出そうと蠢いているように。


 ぶちっ。


 一本、細い腕が肩の皮膚を破って外へ伸びた。

 白く痩せたその腕は、指先に金属片のような光を宿し、触れた空気さえ引きちぎるように震えている。


「……なんで……」


 女性自身も、声にならない呼吸を漏らすが、痛みの色は無い。

 ネオンに照らされた金色の奥にあるのは、絶望と悲しみ。


「なんで……なんで『愛してる』って言ってくれないの……。あたし……あたしは、こんなに、こんなに……あげたのに……」


 べき、ばき、と硬い物が内側から貫くような音と共に、肩や背中、胸部から無数の腕が生えた。

 どれもが求めるように空気を掴み、震え、何かを奪おうとしている。


 その指先からは金色の糸がとめどなく滴り、地面に落ちた瞬間、アスファルトが濡れた墨のように黒く染まった。


 顔もすでに彼女の輪郭を保っておらず、涙で溶けるように崩れ、口元だけが不気味に笑みを浮かべている。


「――嘘ッ! 嘘だっ! なんだよこれ! なんなんだよッ!」


 青年の叫びは、怪物と化した彼女には届かない。

 女性はただ、全身を震わせながら金色の涙を零す。


「……返して……。あたしの愛を……返してよ……」


 次の瞬間、地を這うように伸びた金の糸が、青年の足に触れた。




 悲しき化物とその加害者が生んだ悲鳴は、魔法少女達には届かない。


 月瀬が目覚めるまで、あと数時間。


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