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8日目ー6 誘いの終わり、絆のはじまり

 月瀬は頭の中で言葉を反芻する。

 悪の組織(うち)に来ればいい。


 さっきまで涙で濡れていた頬は冷え、目の周りだけじんじんと熱い。柔らかなクッション付きの椅子に背を預けているはずなのに、背筋はこわばったままだ。

 喉はひりつき、胸の奥に残った言葉のカスがまだざらついている。


 言葉の意味はわかる。だが、頭が理解を拒む。

 マジカルでミラクルな出来事にはある程度慣れたと思っていたのに、これは別枠だと言わんばかりに思考が空回りする。


「どういう、意味でしょうか……」


 かろうじてひねり出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。


「そのまんまの意味だ。俺の配下になれ」


 至近距離から落とされる低い声。

 青い瞳に映るのは、強張った自分の顔。泣き腫らした目元も、すがるような視線も、全部見透かされている。


 けれどその瞳は、不思議と静かで冷静だ。からかいの色は無く、やけに落ち着き払っている。

 その落ち着きが、この誘いが冗談ではない事を告げていた。


「うちには色んな魔物や魔族が居る。あんたと相性のいい奴だって居るだろう。欲や感情の出し方はそれで慣れていけばいい」

「そうだな。きみに足りてないのは経験だと思う。うちはその辺り勝手に積めるからなぁ」


 隣で腕を組むセヴォースの声は、さっきまであやすように背を撫でていたものより少し冗談めいているが、響きは穏やかだ。


「自室は勿論、いつも開いてる美味い食堂だってあるし、ありとあらゆる世界の情報が詰まった図書館や、治療魔法完備のなんちゃってコロシアム、風俗だってある」


 カイネが指折り一つずつ数えるたび、月瀬の頭の中に勝手に情景が浮かぶ。

 暖かい匂いの漂う食堂。誰かの用意してくれた暖かいごはんを食べる事のできる場所。

 異世界の本が並ぶ図書館。好きなだけ本に埋もれていても咎められない空間。

 魔法少女のように本物の魔法を見れるなんちゃってコロシアム。治療魔法完備なのだから、アニメを見るように安心して見ることができる世界。


 それは、今まで諦めてきた『当たり前』が、一式揃って差し出される光景だった。


 セヴォースが頷く横で、カイネがいくつかの施設――月瀬の興味を強く引くものから、引きつった笑いしかでない怪しげなものまで――を軽く並べてみせる。そのたびに、月瀬は心のどこかを掴まれる感覚を覚えた。


 そして、立ち上がったカイネが改めて身をかがめ、月瀬の顔を上から覗き込む。


「少なくても、あの世界で働くよりはよっぽど楽しいだろうし、あんたの抱えてる問題も解決できると思うぜ? ……どうだ。|悪の組織に加わらないか《なかまにならないか》?」


 距離が近い。吐息がかすかに頬をかすめる。

 美しく微笑むその顔は、救いの手にも、底なし沼にも見えた。


 月瀬の瞳に、揺らぎが宿る。


 家庭環境のせいでひねくれた心は、元から『まともな社会人になる』という選択肢を放棄していた。

 その上先程の自白で、心の外側はひびだらけになっている。そこへ「ここに来れば良い」という甘い言葉が流しこまれ、じわじわと内側まで染み込んでいる。


 非常に魅力的な提案だった。

 このまま首を縦に振れば、楽になれてしまうのではないか――そう思った瞬間。


 ふと、一人の少女の顔が脳裏で鮮やかに浮き上がった。


「それは……ミア達と敵対する事になりませんか!?」


 言葉を発した自分の声が震えているのがはっきりわかる。

 カイネはさも当然というかのように頷いた。


「そりゃ勿論」

「じゃあ嫌です!」

「チッ」


 短い舌打ち。

 眉をひそめたその顔は、つまらなさを隠す気が欠片も無い。


 その音が、月瀬の頭にかかっていた霧を少しだけ振り払った。

 悪の組織の一員として暮らす未来は魅力的だ。日本で『まとも』を装って働くよりも、全てを拒絶して一人で暮らすよりもずっとマシに思えた。


 それでも――魔法少女と敵対するとなれば話は別だ。そこだけは譲ってはいけない、と胸の奥がはっきり告げる。

 凝り固まっていた肩から、わずかに力が抜ける。

 月瀬は二人にバレないように息を細く吐くと、再びカイネと視線を合わせた。


「……あの、そもそもなんでいきなり悪の組織に加われって言ってきたんですか? 結構魅力的な提案ではありましたが……あなた達にとってメリットとかあるんですか?」

「あるぞ? キレ散らかす魔法少女達を見ることが出来たかもしれない。特にシグニーミア」


 その言い方があまりにも悪役らしくて、思わず声が裏返る。


「カイネさんは本当に魔法少女を怒らせるのが好きですね!?」

「ははは。なぁに、気にすんな」

「すまないね。特殊な性質を持つ奴なんだ……」


 けたけたと笑うカイネとは対照的に、セヴォースは肩を落とし気味に声を鎮める。少し前まで月瀬の頭をさすっていた手が今度は自分の額を押さえ、今にもため息が出そうな雰囲気。


「しかし……こちらに加わるのも嫌となったらどうしようか。中々解決に時間のかかりそうな問題を抱えているな……」

「……気にしないでください。将来の人生設計はおおよそ出来ています。私は一人で生きていきます」

「さっきみたいにふとしたタイミングで爆発するかもしれないってのにか?」

「あれはっ! あれ、は――」


 言い訳を探すように声を荒げた、その途中で。


 胸の奥を、ひやりとした違和感が撫でた。

 さっきまでの自白。口から勝手に漏れ出たみたいな言葉の連なり。

 本当に、あれは自分の意思だけで紡いでいたものだっただろうか――?


「……あ、ぇ……?」


 喉の奥で妙な音がなる。

 月瀬は慌てて自分の椅子の周囲を見渡した。目の前に居るカイネ。己の横でしゃがむセヴォース。カイネと会った回数はまだ片手で数えられる程度。セヴォースに至っては今日がはじめましての関係性だ。


 あんな重たい話を、何の構えもなく親しくない相手に垂れ流すなんて。

 あらかじめ相談しようと決めていたならともかく、今回はそうではない。


 そこまで考えたところで、ふと気がつく。自分はこのような事をペラペラ話すような性格じゃない、と。

 思考を巻き戻していくうちに、血の気が静かに引いていく。


「……あ、あれ。わ、私、なんで……あんな事、を……?」


 指先がじわじわ冷え、膝の上で震えだす。

 声も震え、背筋に細い寒気が這い上がる。


 まるで催眠術にもかかったかのような感覚。

 現実感がゆらぎ、ここで思考を切ってしまいたいという逃げの誘惑が頭をよぎる。


 そんな中。


「あ、解けた」


 実験の経過を観察する研究者のような、気の抜けた声。

 カイネの一言が、月瀬の意識を無理やり外側に引き出した。


 目が合ったカイネがにっこりと笑ったと同時、月瀬は遅れて思い出す。彼が得意とする魔法の一つを。


「さて種明かしをしようか青蜂月瀬。実を言うと俺はさっきお前に洗脳魔法をかけた。目的は自白だったが」

「……! だからですか! 人になんて魔法使ってるんですか!? どうして!」

「おぅおぅ、いい表情してんな~。……まぁ、大したこっちゃあない。さっきも言ったが、このお人好しがどうしてもお前の闇を追い払いたがってたんだよ。それと……こいつらにも聞かせた方がいいかなって思って?」


 パチン、と指パッチンの乾いた音が室内に弾ける。


 直後、扉の向こうから静かに響いていたざわめきが、不自然なほど鮮明になる。

 視線を向けると、壁と扉がバターのように音もなく溶け落ちていく。冷えた空気が一気になだれ込み、外の光と匂い――人の群れの気配――がなだれ込んできた。


 その向こうに、いくつもの影。


 七名程の姿が現れる。獣人の少年少女達に囲まれたシグニーミアとイチェア。そして、己に抱きついているスライム娘を必死に剥がそうとしているコウヨク。


「……え? き、きか、れ……?」

「ごめんなさい月瀬さん! 聞くつもりは無かったの!」


 呆然と呟いた月瀬の耳に、真っ先に飛び込んできたのはコウヨクの声だった。

 彼女は体にまとわりつくスライム娘を乱暴に引き剥がし、その悲鳴めいた声――あまり緊張感のないものであった――すら振り切って駆けてくる。

 床を打つ足音が近づき、セヴォースが無言で身を引くと、その空いた場所にしゃがみ込んだ。


 目を大きく見開き、小さく震える赤い瞳に映るのは、ぐったりと椅子に沈む月瀬。


「……聞かれてた……イチェアちゃんにもあそこまで言わなかったのに……はは……」

「月瀬さん」

「なんですか……。同情ですか?」


 かすれた自嘲に、コウヨクは首を横に振る。


「いいえ。しないわ。平気なフリをするのは辛いから。……その代わり、提案があるの」


 静かな否定。

 その声色に、余計な哀れみが一切無い事を月瀬は肌で感じる。紅い瞳が、炎のような熱を帯びた気がした。


「私達とお友達にならない?」


 シンプルな提案に、心臓がひゅっと跳ねる。


「……魔法少女の存在が当たり前になってはいけないと言っていませんでしたか?」

「それはそうだけど……。そもそも、魔法少女(わたしたち)は困っている子の助けになるのが本来の役目よ! 目の前に困っている子がいるというのに、見てみぬふりするなんて事はしちゃいけないわ!」


 言い切る声が、胸の奥に真っ直ぐ刺さる。


「……!」

「……でも、あなた達はいずれ居なくなるのでしょう! 居なくなるなら、別に、友人になんて――」


 青蜂月瀬にとって、人間関係の距離はゼロ寄りか百寄りしかない。途切れるのが怖いなら最初から近づかない。そうやって生き延びてきた。


 そんなヤケになりかけた月瀬の言葉に「待って!」と幼い声が歯止めをかける。コウヨクの側にやってきたイチェアであった。


「月瀬さん、お友達って別に遠く離れたらそれで縁が切れるものじゃあないのよ。お手紙のやり取りとか、聞いたことない?」

「……ある、けど。……私には、もうそんな友達は……」

「おちび達がいるじゃないの! 別の世界に行っちゃったら普通のお手紙は届かないけど……。魔法を使えば、いつでも連絡を取れるのね」

「そうなの……?」

「なのよ! それで時々連絡取ってる子だっているのね!」


 ふと、月瀬の小学生時代の記憶が蘇る。

 授業中に回して怒られかけた交換日記のページ、放課後の他愛ない走り書き。

 忘れかけていた色とりどりのペンの跡が、急に鮮やかに蘇る。胸の奥で、きゅっと懐かしい痛みと温かさを混ぜながら。


 ふ、と頬の力が抜ける。僅かに口元がゆるんだ自覚があった。


 それを見届けるように、コウヨクが続ける。


「それに、寂しいって気持ち、少しはわかるの。……私もあなたくらいの年齢の時、一人だったから」

「そうなんですか……?」

「ええ。それでね月瀬さん。私思ったことがあるの。……あなた、私が本読んでた時言っていたでしょう。『まずは自分の抱えているわからないをはっきりさせる』って」

「え? あ……そうですね。はい」


 月瀬は目を白黒させた。確かにそうは言ったが、あれは勉強の話である。

 ぽかんとしている月瀬の目を、コウヨクがしっかりと見つめ込んだ。


「こんな風に自分を分析できる力があるのだから、人間関係にだって活かせると思うの!」

「なのね。月瀬さんは結構大胆なところもあるし、なんとかなると思うのね! ね、シーニー!」


 イチェアがウィンクして場を和らげ、そのまま視線をシグニーミアへパスする。

 シグニーミアもまた魔法少女達と視線を交わし、息を小さく吸うと、コウヨクの隣で立膝になった。

 座ってる月瀬と同じ高さまで目線を落とし、反対側にいるカイネをちらりと睨む。


「……ツキセ、さっきの……あいつに言わされたの?」

「自白するように誘導はしたな」

「なら、ツキセ、駄目だよ。抱えている事は吐き出してほしい……」


 幼さの残る、だけど迷いのない声色。

 シグニーミアがそっと月瀬の手を取る。その手は小さいのに、驚くほど暖かかった。


「ツキセはワタシを助けてくれたもん! ワタシは魔法少女だよ。助けてくれた人の困りごとくらい、解決させてほしい!」

「ミア……」


 シグニーミアのオッドアイと、月瀬の視線が交差する。

 月瀬は、不意に息を呑んだ。


 幼い頃から置き去りにしてきた『助けてほしい自分』に、ようやく誰かが手を伸ばしてくれたような感覚。

 それを肯定するように、コウヨクの声が重なった。


「月瀬さん。見つけましょう。自分と心や他者との向き合い方を。……大丈夫、私達がついているし……あなたは賢いのだから、きっとできるわ」

「……! はい……!」


 胸の奥の強張りが、ほんの少しだけほどける。


 そんな月瀬のすぐ側で、小さく笑う声一つ。

 カイネである。


「いやぁ一件落着だなー。力を使ったかいがあったぜ」

「ちょっと元凶は黙ってくれない?」

「こわ。身分証明書渡さんぞ」

「こ、こいつ……っ!」


 カイネが素早く魔法少女達のパスポートと在留カードを取り出し、扇状に広げて見せびらかす。

 コウヨクが明らかに眉間に皺を寄せる姿がおかしいのか、その口元は必要以上に緩んでいる。なお、それらは彼の後ろに現れたセヴォースによって「こらこら」と全部奪われてしまったが。

 セヴォースが身分証明書一式をコウヨクに手渡しながら口を開く。


「ところできみ達、ご飯は食べたのかい?」

「食べれてないわ。こいつが昼頃に誘拐したおかげでね……!」

「月瀬を一人にする方が悪――あだっ!」


 軽い音を立て、セヴォースのチョップがカイネの頭に入る。


「ああやっぱりか……。じゃあ、迷惑料も兼ねて何か作るぞ! 食堂に行こう! ここは狭い!」

「やったー! セヴォの料理美味しいから好きなのよ! ね、コヨ!」

「そうね。そいつの迷惑料の分、美味しいもの待ってるわよ」


 スキップするようにセヴォースの側を跳び回るイチェア、そして、やれやれと言わんばかりにコウヨクも立ち上がる。

 セヴォースは楽しそうに笑うと、その太い腕をカイネの首元へ伸ばした。


「ほら親友、行くぞ。君と月瀬のお嬢さんの分も軽く作ってあげるからさ」

「あー! 襟首引っ張るのやめろー!」


 魔法少女とその敵達が、半分口喧嘩のように、半分馴染んだ友人同士のように談笑しながら部屋を出ていく。

 月瀬は、その奇妙な背中をぼんやりと目で追った。


 ふと、視界を緑色の光が包む。

 それは目元に温もりを与え――溜まった熱と疲労感を、光の中へ溶かしていった。

 シグニーミアの回復魔法だ。そう気づいた時、目の前に彼女の手があった。


「ツキセ、行こ!」

「うん……!」


 月瀬はそっとその手を取って立ち上がる。

 指先に伝わる温もりが、冷え切っていた心の表面を、少しずつ溶かしていくのを感じた。


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