7日目ー7 りんごジャムの追憶
その後、イチェアと月瀬は紙束――レシピだったようだ――とタブレットを活用し、できる限りシグニーミアの好みに近いであろうクッキーのレシピを見つけた。
幸いなことに、彼女の好物は地球で言うりんごのジャムクッキーに近く、思っていたより簡単に再現できそうな事に二人揃ってほっとする。
そんなこんなでしばらくして、型がないせいでやや歪な形となったクッキーをオーブンに入れた後。
月瀬はそっと、隣でレシピの表示されたタブレットと廃教会から持ってきた紙を交互に睨んでいるイチェアを見た。知らない言語で書かれた紙には何度も手が入れられた跡があり、そこに込められた生活の気配が、遠い世界との距離をほんの少しだけ近づけてくれる気がした。
月瀬の静かな視線に気づいたのか、イチェアがふと顔を上げる。
「ねぇイチェアちゃん。その……ミアのお兄さんや親御さんは、今どうしてるの?」
月瀬の脳裏に浮かぶのは、写真の中で笑っていた彼女の兄と、緑によって侵食されたあの空間。
あの世界は滅ぼされたとイチェアは言っていた。その上、魔人を除いた生きている人は誰一人居なかったように見える。だが、果たして本当にそうなのか。
「家が廃墟みたいになっていたけど、 あの家周辺があんな事になっているだけでっ、別の場所に避難してたりとかっ、してる、よね……?」
してるって言って――言葉にこそしなかったものの、その願いは声を震わせる形で漏れ出ていた。
だが、イチェアは無言で首を振った。方向は言わなくてもいいだろう。
「そんな……」
「あの子には、帰るお家も……帰りを待つ家族も居ないのね。おちび達と一緒に生活してきたけど、家族の代わりにはなれてるかは……怪しいのね」
イチェアの首の動きと共に、言葉にできない重さが台所に満ちていく。外の空気は静まり返り、オーブンから漂う甘い香りだけが、現実の時間を刻んでいた。
「帰る場所も、家族も、居ないんだ……」
世界を滅ぼされ、帰る家も家族も無い魔法少女。本来は気遣ったり寄り添うべきなのだろう。
だが、月瀬の口から出てきたのは。
「私と一緒だ……」
幼い自分の出した、弱音であった。
その言葉にイチェアからの返事は無い。月瀬を見つめる灰紫の三白眼が、微かに震えている。
「……この家が帰る場所でしょ、とか言わないの?」
「言わないのよ。あなた、このお家とはあまり馴染んでいないでしょう?」
「ああ、やっぱりその辺も聞いてるんだね……。そうだよ。今年の春に越してきたばっかり」
月瀬は改めてこの家を見上げる。
築五十年以上経っているものの、リフォームのおかげでそんなに古くは見えない建物。
複数人が暮らすことを前提とした広さである上、余計な物の無いこの空間はどこか寂しさを覚える。
「今の家はここだよ。でも……本当に帰りたいのは、昔住んでいた、あの小さな団地。おじいちゃんとおばあちゃんと私だけが居たあそこが、私の本当の家」
目を閉じると、まぶたの裏に一つの光景が思い浮かぶ。この家よりもずっと狭い上に物で溢れかえっていたけど、笑顔と温かみのあった団地の一室。
常に節約しなくてはいけなかったものの、子供と大人の触れ合いが大切と教え込まれた場所は幼き月瀬を健やかに育てた。
あの幸せがずっと続くと思っていた。
「賃貸だったんだ。それで、二人が亡くなって……父方の親戚に引き取られて……その家からは退去する事になったんだ」
だが、祖父母が病に倒れ、住んでいた土地を離れ、なんやかんやでこの家にやってきた。
あの場所が今どうなっているか月瀬は知らない。知らない人の住居となっているか、古いからと取り壊されているかのどちらかだろう。
どの道にしろ、月瀬の帰りたい場所はどこにも無い。
「例え私があの家を買ったとしても……私とおじいちゃんとおばあちゃんだけだったあの空間には、二度と帰れない」
月瀬はそっと目を開けた。楽しかった思い出に浸る時間はもう終わり。
現実と向き合わなくてはいけない。
「それだけじゃない。……私ね、両親が結婚して産まれた子じゃないの。だから、父方の親戚からの風当たりが強くって……価値観も全然違ってて、慣れなくて」
胸の痛みを隠すように手を添える。諦めたような声に震えは無い。
父方の親戚は誰も彼もが忙しかった。なので、触れ合いよりも金を与える事が愛情と認識している人だらけ。
そんな場所に触れ合いを求める子供――おまけに両親が結婚してできた子ではない――が一人放り投げられて、ろくに相手にされなかったのは言うまでもない。
「それで……ずっと、寂しくって、前のように戻りたいって思っても、全然うまくできなくって……じゃあもう一人で生きようって決意した後に、あなた達と出会ったの」
月瀬はイチェアを見下ろした。
イチェアは何も言わない。きゅっと口を結んで、震える瞳で月瀬を見上げるだけ。
「あのねイチェアちゃん、今朝、あなたが水晶持ってくるちょっと前くらいに……ミアがね、言ってたんだ。『家族にはなれないけど、ずっと一緒にいる』って」
なぜ、彼女がああ言ったのか月瀬にはわからない。
何か思う所があったと考えるのが自然だが、わからない事だらけの彼女の事だ。他に何かあってもおかしくない。
憧れていた魔法少女がずっと一緒に居てくれるという非常に魅惑的な宣言。だが、素直に受け止める事はできなかった。
「……あの子なりに思う所があったのかもなのね」
「そうだね。……それでね、思っちゃったんだ。……今だけは、甘えたい……って」
でも、と月瀬は続けるように言った。
「絶対今だけで終わらない。私の傍にずっといたら……ミアの記憶が戻らないでほしいって思っちゃう。だからね……」
一緒に居てくれると知って、少しだけ安心できた。
帰る家も「おかえり」を言ってくれる家族も居ないと知って、親近感が湧いた。
しかし、魔法少女達はいつか月瀬の元から離れていく。期限付きの安心や親近感など、最初から知らない方がずっとマシだ。
記憶を思い出させる事を急かす事によって、シグニーミアのトラウマをほじくる事になるかもしれない。
だが、それよりも、幼心を完全に思い出してしまう方が――寂しさに敏感な体に戻ってしまう方が怖かった。
「イチェアちゃん、お願い。私も手伝うから、ミアの記憶を戻して。そして私から離れて。……私があの子に依存する前に」
「ええ。……わかったのよ。……シーニーを早く元に戻さないと、なのね」
言葉が途切れた瞬間、二人の間に重たい沈黙が堕ちた。
換気扇の音と、オーブンの中で膨らむ生地の微かなパチパチ音だけが空気を満たしている。
温かなはずの匂いが、なぜか少し切なく胸に染みた。
やがて、「そうだ」という言葉と共にイチェアが見上げる。
「ねぇ月瀬さん、あなた、あの子に楽しい事教えたいって話してたけど……それはどうするのね? 続ける? それとも止める?」
「それ、は……」
言い淀む。まるでここ数日の思い出が言葉の出口を塞いだかのように。
ここ数日、本当に色んな事があった。思い出の一つ一つが走馬灯のように駆け巡る。その中でひときわ輝いたのは、昨日の出来事。
小さな喫茶店で魔法をかけてもらった事や、駅ビルでの買物、そしてヒーローショーでのあれやこれ。そして、シグニーミアの浮かべた花のような笑顔。
それらの思い出が、自分の為にシグニーミアとは離れるべきという意見を抑え込んでいく。
――昨日のミア、楽しそうだったな……。
私も楽しかった。と、心の奥で声がしたような気がした。
月瀬はイチェアを見下ろす。その瞳に、先程までの空虚は無い。
「……続ける。ミアに何があったのかはわかんないけど、あの子の助けになりたいのは本当だから」
「あなたも中々複雑な子、なのね。……その気持ち、確かに受け取ったのよ」
イチェアが深く頷く。
続いて「ああでも」という言葉と共にびしっ! と立てた人差し指が向けられる。その奥にあるのは、イチェアのキリッとした灰紫の瞳であった。
「月瀬さん、本当に嫌になったら言ってほしいのよ。なんとかするアテはあるから」
「? わかった……」
***
それから少しして、インターホンが鳴る。パトロールに出かけたコウヨクとシグニーミアが帰ってきたのだ。
月瀬が玄関扉を開けに行くと、魔法少女達は揃って部屋の奥へ視線を飛ばした。
「……あら、いい匂いするわね。何か作ったの?」
「はい。イチェアちゃんと一緒にクッキー作ってました。ちょうど焼き立てが出来上がったので――」
「食べう!」
「待ちなさいシーニー! 靴揃えなさい!」
靴を投げ捨てるように脱いだシグニーミアが一目散にリビングへ向かいかけたところで、首根っこを掴んだコウヨクによって阻止され、大人しく靴を並べる。そんなやり取りが姉妹喧嘩のようで、月瀬の頬が自然と緩んだ。
三人揃ってリビングへ向かう。
テーブルの中央には、大皿に山盛りのクッキーと紅茶のポット。クッキーの甘い香りと紅茶の芳香が混ざり合い、部屋いっぱいに広がっている。
そんな中、イチェアが空いている椅子をぺちぺち叩きながら座れと示していた。
シグニーミアが目を輝かせながら椅子に飛び乗るように腰掛け、コウヨクも半ば呆れた顔でその前に座る。
「ねぇイチェア、これって……もしかして……」
「なのね。お兄さんのものっぽくしてみたのよ。……完全な再現は無理だったけど、食べてみてほしいのね! ほら、座って!」
そのまま座って、それぞれがいただきますと告げながらクッキーを手に取る。
サク、といういい音と共にバターと砂糖の甘い匂いに包まれる中、一番最初に感想を述べたのはシグニーミアであった。
「おいし!」
食べかけのクッキー片手に、弾けるような笑顔。
ちらりとそんな顔を見ながら、月瀬もクッキーをかじる。口の中に小麦の香ばしさとリンゴジャムの甘さが広がって自然と頬が上がった。
コウヨクとイチェアも談笑しており、リビングを包み込む空気が心地よい。
――うん、この子にとって楽しい事を教えるのは続けよう。私だって別にこの子の絶望する顔が見たいってわけじゃないし。
シグニーミアがクッキーに手を伸ばす横で、月瀬も再び口を開け、残ったクッキーを放り込む。りんごとバターの香りが手を繋いで喉から鼻に駆けてゆく。
――でも、早く記憶思い出してほしいな。情を抱きすぎる前に……。
この笑顔をもっと見たい。だが、自分が彼女に依存してしまう前に早く旅立ってほしい。そんな相反する感情を抱きながら、月瀬はシグニーミアをじっと見つめる。
そのままシグニーミアが三枚、四枚程クッキーを食べた頃だろうか。視線に気づいた彼女が月瀬へ顔を向けた。口元に食べかすがついている。
「……ミア、この味好き?」
「ん、すき! なんかなつかしい感じがする!」
その瞬間、魔法少女達がざわめいた。無論月瀬も例外ではない。
「ほ、ほんと!? よかった! ……あ、あのねミア。これね、あなたが好むかもって思って作ったんだ!」
「ほんと!? ツキセ、すき!」
それと同時に、シグニーミアが勢い良く月瀬の胸に飛び込んできた。
細い腕が月瀬の背中に回され、ぎゅっと抱きしめられる。
想定外の動きに体が一瞬強張り、続いて心臓が大きく跳ねた。
「……はは、は……」
月瀬の胸の奥で、何かがじわりと広がっていく。それは単なる照れでも、驚きでもなく、言葉にならない温度を持った感情。
――まずい、思ってたよりも、絆されてる……。




