7日目ー1 母の影は記憶の中に
月瀬は空を飛んでいた。
周囲を見渡す。下には自然豊かな大地が広がっており、日本と断言できるようなものはどこにも無い。
――あれ。どこだここ……。まぁいいか。楽しいし。
月瀬はそのまま体をくねらせて、風を切るように飛んだ。
ほうきに乗った魔法使いはこんな気持ちなのだろうか。空気が美味しい上、頬をくすぐる風が心地よく、いつまでも飛んでいけそうだ。
そのまま空中で遊ぶことしばらく。ふと目下の湖を見て驚愕する。
そこに写っていたのは、赤を主体とした怪物――ヘビに近いが、手や翼などがあり、首と腰あたりにリボンがある――だ。そのおどろおどろしさに驚いたものの。
――あ、これ私かぁ。
すとん、と腑に落ちる。そのまま何事も無かったかのように前を向くと、遠くに自分と似たような存在がもう一体居る事に気がついた。
――お母さんだ!
理由もわからぬままそう思う。
お母さんなら追いかけなくてはいけない。月瀬は全力で羽ばたき、その個体へ接近する事を試みる。
その最中。ふと、視線を感じた。地面の方から。
――あれ、おじいちゃんとおばあちゃんだ。
そこに居たのは、月瀬の母方の祖父母であった。母(?)とは違い、こちらは月瀬の記憶通りの人間だ。
二人は月瀬に向かって何か声をかけている様子。月瀬は一旦止まり、耳を傾けてみる。
――戻ってこい、って言ってる? ……でも、お母さんが……。
月瀬は母(?)が飛んでいった方へ首を曲げる。……なんと、今にも見えなくなってしまいそうな程遠くに行っているではないか。
――あ、追いかけなきゃ……!
祖父母の声を振り払い、月瀬は母(?)の元へ飛ぶ。少しでも距離を縮めるように。全力で。
そのまま飛んで、どんどん距離を縮めて、もう少しで並走できるところまで近づいて――。
「捕まえた……っ!」
目が覚めた。
「……え? ……ぁ。ゆ……夢……?」
まだぼんやりする目で周囲を見渡す月瀬。どう見ても空ではなく自室だ。変に鮮明な夢を見たせいでまだ頭が混乱している気がする。
カーテンの隙間から漏れる光がいつもより少ない。いつもの起床時間よりちょっと早い時間なのだろう。
やがて、自分が何かを強く抱きしめている事に気がつく。それは「う゛にゅ……」と眠りながらも呻くシグニーミアであった。
「あ。ごめん……」
***
それから十数分後。月瀬は和室に居た。
その視線の先にあるのは、タンスの上にあるミニ仏壇。
「なんだったんだあの夢……」
そこに飾ってある二枚の写真に目を通す。片方は月瀬と似た女性――学生服を着ており、一目で未成年とわかる――が写ったもの。もう片方は母方の祖父母のものだ。
ただし、前者が月瀬と同い年くらいの外見に対し、後者はずっと年を取っている。それこそ二枚の写真を同時に見せたら『おじいちゃんおばあちゃんとお孫さんの写真ですか?』と聞かれそうな程度には。
そんな月瀬の脳裏をよぎるのは、かつてのコウヨクの発言。
『この結界に入れた時点であんたは普通の人間じゃないの。何らかの改造をされてるわ! そうでなければ、異世界から来た人の血でも引いているか――』
「……いやいやいや。無いって……。あったらおじいちゃんかおばあちゃんが言ってるって……」
頭に湧いた発想を追い払うように、片手を振る。
ここは現代日本。月瀬の前に魔法少女がやってきたとは言え、自分が異世界人の子孫という事はないだろう。もしそうだとしたらどこかで祖父母がぽろっと言っているはずだ。
「改造だってされた事ないし……。提案はされたけど……」
目を閉じると、夢で見た景色がくっきりと思い出せた。ただの夢のはずなのに、頭から離れてくれない。
そのまま腕を組んでうーんと唸る事数分。部屋の外から二つの足音が聞こえてきた。
続いて聞こえてきたのは、「ツキセぇー、どこー?」というふにゃふにゃしたシグニーミアの声と、「ここに居るらしいのよ」というはっきりとしつつも優しげなイチェアの声。
おそらく、シグニーミアが月瀬を見てないかとイチェアに尋ねたのだろう。そしてイチェアが壁などに聞いたといったところか。
そんな事を推理していると、がらりと障子が開く。
「ほーら居た。月瀬さん、おはようなのね」
「ツキセー……ここいたのー? おはよ……」
そこに居たのは、案の定寝ぼけ眼のシグニーミアと、いつも通りぱっちりおめめのイチェアであった。
そんな二人に「おはよう」と返したところで、二人の視線がミニ仏壇に注がれている事に気がつく。そういえば魔法少女達にはこれの存在を教えていなかった。
「ああ、紹介するね。私のおじい……母方の祖父母と、母だよ」
***
それからまた数分して、イチェアによってコウヨクが連れてこられた。
この部屋に入ったばかりのコウヨクは「あによぅこんな朝っぱらからぁ……」とぼやいていたが、ミニ仏壇を見た瞬間、急に醒めたかのように目を大きく開く。
月瀬が写真の人物について再び説明すると、コウヨクは「……黙祷させて」と、祈るような姿勢になった。続いてイチェアが、そして二人の様子を見たシグニーミアが黙祷する。なお、シグニーミアは他二人の事を横目でチラチラ見ながらであったが。
月瀬はそんな魔法少女達を眺めながら心を固くした。きっとこれから質問責めが来るだろうから、耐えられるように、うっかり泣いてしまわないように。
――どこまで説明しよう。……話して態度が変わったりとかしたら、やだな……。
そして、黙祷を終えた魔法少女達の視線が一斉に月瀬へ注がれる。
一番最初に口を開いたのはコウヨクであった。「言いたくなかったら言わなくていいんだけど」という重々しい前置きつきで。
「……あの、お父さんはご健在……なのよね?」
「わかりません。あいつは蒸発しました」
コウヨクは無言で頭を抱えた。イチェアもどこか気まずそうな面持ちである。そして、シグニーミアはそんな仲間二人を見て縮こまっている。
案の定、空気が悪くなった。心の中でため息をつきながら、なんでもないよと言わんばかりに月瀬は笑顔を浮かべる。この流れも慣れたものだ。
「でも、気にしないで。私には両親がいないけど……昔は母方の祖父母が溺愛してくれたし、今は父方の祖母がお金出してくれているんです。生活に困らないようにって。だから、本当に――」
気にしないで。そう言葉を吐き出そうとした瞬間、シグニーミアの潤んだ二色の瞳と目があった。
「ツキセっ、ツキセは……おとーさんやおかーさんと、会いたい!?」
月瀬は考える。己には両親の記憶が無い。物心ついた時には母方の祖父母の元で暮らしていた。
確かに会いたいと思ったことはある。だが、それも大昔の事。
今は、そこまで興味が無い。気にしないようになってしまったという方が正しいか。それよりも母方の祖父母と会いたい。
「いる人が羨ましいって思った事は結構あるけど……会いたいとまでは思わない」
静かに言い切り、月瀬は視線をシグニーミアから母の写真へ移す。凛々しさと自信に溢れたその顔は、一言で言うなら美少女そのもの。
「お母さんは私を産んですぐに亡くなったらしいし、お父さんは……いい年こいて未成年に手ぇ出して死なせたクズってわかってるから……」
「その感性は正しいわ。未成年に手ぇ出すのはろくでもない奴よ」
そう低い声で断言したのはコウヨクであった。その後ろで、イチェアがそっと部屋から出ていく。
「さみしくないの……?」
シグニーミアに問われ、胸に浮かぶ答えはただ一言。
『寂しい』。
一方で、月瀬は知っていた。もし一週間以上前に同じ事を聞かれたら「別に」の一言で終わらせる自信があったという事を。
――久しぶりに誰かと一緒に生活したせいだ。……そのせいだ。また、寂しく……。
そう。月瀬は一週間前にこの少女を拾ってしまった。すぐにお別れするつもりだったのに、今もこうして月瀬の心に温もりを与えている。枯れた大地に水を注ぐように。
月瀬はきゅっと唇を噛み締めた。目を閉じることで目の奥に潜む熱さを誤魔化す。
「……もう、慣れたから」
喉の奥を締めながら答えをひねり出す。声に震えは出ていなかっただろうか。月瀬にはわからない。
だが、魔法少女達はそれぞれ思うところのありそうな――特に、シグニーミアは非常に動揺している様子だ――顔。
月瀬は察する。気丈に振る舞う演技が失敗したと。
胸の奥で心の声ことぷち月瀬達が騒ぎ始める。弱みを出したくない自分と、本音を吐露したい自分と、演技が失敗した事に慌てる派閥で揉めあっているのだ。
「――そっ、それに、皆がこうして私の前に居てくれるでしょう? だから、だからっ、気にしな――」
混乱の中、月瀬は取り繕うという選択肢を取った。だが、しどろもどろな言動は逆効果でしかない。
そんな中、ぼすんという音と共に月瀬の胸に軽い衝撃が加わった。
とっさに見下ろしてみれば、見慣れたピンクグレーの髪がある。それが抱きついてきたシグニーミアだと気がついた。
「……ワタシがいるよ。家族にはなれないけど、ずっと一緒にいる」
シグニーミアの顔は見えない。……だが、重々しい声を聞いていると、少しだけ安心できた。
この嘘をいつまで続けてくれるのだろう。月瀬は返事の代わりに彼女の頭を撫でた。さらさらの柔らかい髪からふわりと漂う鼻の匂いが、今はただ苦しい。
部屋の空気が薄くなる。秒針が一度だけ大きく跳ねる音。
刹那。
「――しんみりした空気をぶち壊しに来たのよ!!」
ふすまを横に蹴飛ばすようにしてイチェアが現れる。スパァン! というよい音が鳴り響き、宣言通り空気と鼓膜がぶち壊されたかのような感覚を得た。
三人の視線が一斉にイチェアへ注がれると、彼女は持っていた巨大水晶クラスターを机に置き、褒めろと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「ふふんっ。こういうしんみりムードってぇ、ずっと続いても困っちゃうでしょう? ましてやプライベートに関わるお話だし? だーかーらー、おちびが体張ってぶち壊しに来たってわけなのよ!」
「イチェア……あんたね……いや言いたいことはわかるんだけど……」
コウヨクが再び頭を抱える一方で、水晶の元へ近寄るシグニーミア。
なお、イチェアは月瀬とわざわざ目を合わせてから、ドヤ顔を浮かべた。
――びっくりした……けど、助かった……。
月瀬はほっと胸を下ろし、イチェアと目を合わす。
確かに心臓が飛び跳ねたし、なんなら今も強く拍動しているが、暗い感情は間違いなく吹き飛んでいった。心なしか部屋の空気もよくなった気がする。
「……ありがと」
「お礼はこの間のお茶菓子でいいのね」
「あれ結構高いんだけど……。でも、いいよ。今度買ってきてあげる」
「やったぁ!」
どうやらよっぽど羊羹を気に入ったらしく、その場でガッツポーズを決めるイチェア。
直後、水晶をつついていたシグニーミアが振り向いた。二色の瞳が少し不愉快そうに歪んでいる。
「これ……まえにあいつが置いてったもの?」
「なのよ。……カイネの魔力が嫌なのはわかるけど、今は我慢してほしいのよ」
「う゛ー……」
シグニーミアの顔に明らかな嫌悪が浮かび、ばっちいものを触ってしまったかのように手を引っ込めた。
この魔力入り水晶は、二日前にカイネが詫びとして置いていったもの。非常用電源くらいにはなると言われていたが……それ以上の説明はされていない。
「……ねぇイチェアちゃん。どうしてこれ持ってきたの?」
「月瀬さん、おちびと月瀬さんが初めて会った日の事、覚えてる? あの時剣の小物あげたでしょう」
「あー、あの綺麗なやつ。……まさか」
「ええ。持ってきてほしいのね」
イチェアが水晶を指差す。クラスターの先端が太陽光できらりと輝いた。
月瀬は思い出す。たしかあの時、魔力が少なすぎるという事で剣の小物を本物の剣にする事ができなかった事を。
そして、目の前にあるのは魔力タンク。
月瀬の頭の中で一つの方程式が描かれる。ファンタジー溢れる、とても素敵な解を持つそれを。
「……本物の魔剣、使ってみたいでしょう?」
魅力的すぎる解に、拒絶などできるわけがなかった。




