第57章:神山文房具店(3)
ぼくがここで、
美絵子ちゃんと会ったり、会話したり、交流していた事実は・・・
1980年から1981年、1982年春にかけての2年間・・・残念ながら、いっさい無い。
『美絵子メモ・パート1』で触れた、神山文房具店での事柄・・・それは、まったくのぼくの「妄想」であった。
何度も見ていた夢と、ぼくの大切な彼女の記憶とがいつのまにか融合して作成された・・・
まぼろしであった。
その件については、
このエッセイの中で訂正し、すでに皆様も周知のことと思う。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
・・・すこし話題をそらすようで申し訳ないのだが、
「昭和時代の駄菓子屋」
おなじく、「文房具店」「雑貨屋」などには、独特のノスタルジーがあった。
日本語的に表現するならば、
『郷愁』といったところか。
ぼくたち、のんびりとした世相の昭和時代の人間にとっては、非常に気軽に入りやすい.店舗ばかりだったのであるが・・・
いまのせわしなく、世相や価値観の変化が激しい令和時代に生きている皆さんには、
かえって敷居が高く、及び腰で気後れのようなものまで感じられることだろう。
なんとなく、入店に際して、ちょっとした「勇気」が要るかもしれぬ。
・・・というのも、
大きなデパートやスーパー、ダイソー、あるいは、
1981年当時、矢板市内には1店舗も存在しなかった「コンビニ」では、
来客数が、個人の文房具店や雑貨店とは比較にならないほど多いこともあって・・・
店内における、店主やオーナー、店員などとの直接の「接触」が、極めて希薄で軽く、
それこそ、「その場限りの付き合い」にも満たない、
そこらへんの道ばたですれ違った者どうしに近いレベル・感覚である。
・・・が、
狭い店内ともなれば、ハナシはちがう。
個人差はあれど、
駄菓子屋や個人の文房具店のおばちゃんと、いきおい、「交流」することとなるのだ♪
矢板東小学校の学区内にあった、
通称『たまご屋』という駄菓子屋もそうだったし、
ぼくの母校、矢板東高等学校前にあった、
『渡辺商店』も、同様。
まぁ、それぞれが、それぞれの「持ち味」「個性」といったものがあり・・・
いまの画一的な構造と造りで、
まるで判を押したような接客態度の「マニュアル」で塗り固めたようなコンビニなどよりも、
もっとあたたかみや「人情」みたいなものまで、そこにはあったのである。
それらのノスタルジックな要素というものは、
すでに「過去のもの」となり、令和の新しい現代では、
「ウザイ」「めんどくさい」ものとして片付けられ、逆に敬遠されてしまうのであろうな・・・。
追伸:
無理もない。
ちょっと上から目線のように、エラそうに書き垂れてはみたものの・・・
実は、このぼくだってそうなんですから。
「無機質で個性を殺した店員」を無理やりつかまえて、
必要以上に親しみを持って「話し相手」にしてしまっている、田舎のじいさまやばあさま連を見るにつけ、
つい、心の中で、
「うぜー」
「邪魔だよ。余計な世間話なんぞ、聞きたくもねー。さっさと帰れや。」
となりますからねぇ・・・。




