おたのしみ――withハンナ
――あれから三日が経過した。
時刻は夜。ステッドやクモラ、その他の面々はエルピスの街の宿屋で、深い寝息を立てている。
視点はアレクスである。
彼はまだ眠りに落ちていなかった。寝床の中でひとり物思いに耽っていた。
或る時ドアがノックされたので、意外に思い扉を開けたところ、予想外の人物が立っていた。
「こ、こんばんわー。ア、アレクス……」
そこにいたのはなんと、ネグリジェ姿のハンナであった。
夜更けに男の部屋を訪れるという、普段の彼女からして考えられないことであったので、アレクスは声に出さずとも大層驚いた。
「な、なんや急に?どうした?」
「ちょ、ちょっと話があって……」
「……まあ立ち話もナンやし入れや」
ハンナを迎え入れて、扉は静かに閉じた。
小さなランプが机上に灯るだけの薄暗い部屋の中、ひとつのベッドの上に二人は並んで腰かけている。
二人はしばらく押し黙っていた。
「で?なんや、話って……」
静寂に耐えかねて、アレクスが尋ねる。
しかしハンナはなおも黙っていた。暗いのでよく見えはしなかったが、彼女の顔が赤く上気しているように思えた。
なおも待っていると、ようやくハンナがやけに神妙な声色で言った。
「わ、笑わないで聞いてくれる……?」
「な、なんやそら。ええから、はよ言えや」
アレクスは察せる男だ。
この妙な雰囲気に、まさかとは思いつつも、彼女の口からどのような言葉が飛び出してくるのか、なんとはなしに読めていた。
ハンナは一層顔を赤らめながら、振り絞るような声で言う。
「お願いアレクス、私の処女もらって……!」
「……!」
それを聞いて、アレクスもハンナに負けないぐらいに顔を赤らめた。
部屋の暗さに安堵していた。しばらく時が停まっていたが、アレクスは不意にごまかすようにして立ち上がり、扉を開けると廊下を隅々まで見渡す。
「な、なにしてるのよ……?」
「いや、ステッドあたりが『ドッキリ大成功』の札でも持って、どっかで待機してるんやないかと思ってな」
「いや、してないから!」
ハンナの声には迫真の念がこもっており、アレクスはいよいよ冗談ではないことを知る。
「なっ!?ほ、本気で言っとるんか……?な、なんでそんなこと、急に……?」
「だ、だって、私も三十間近だし……いつまでも処女で、キアラの奴にバカにされ続けるのも癪だし」
「はぁー、そんなことか……別に気にしなけりゃええんとちゃうか?男嫌いのお前が無理する必要ないやろ」
そう言って、アレクスは彼女に帰るよう促す素振りを見せる。
まず否定から入る、難癖を付ける、それが彼の対ハンナの普段通りの振る舞いであった。だからほいほい承諾せず、思わずそのように振舞ってしまったのだが、ハンナは引き下がらない。
「嫌、もらってよ」
「だ、だいたいなんでワイなんや?ステッドにはクモラがおるからしゃあないにしても、別にシューザでもダニヤンでもハインリヒでもええやろ。まあ全員、どっか気難しい連中やけどなあ」
「そ、そうよ!だから、アンタなの!」
ハンナは体を寄せながら食い下がるように言う。
「別に、誰でもいいわけじゃないの……ただ、どうせ誰かに処女を奪われるなら、誰がいいかなって考えて……ア、アンタがいいなって、そう思ったのよ……」
「……」
その時、突然アレクスは自分の頬を思い切り引っぱたいた。
「ふぇ!?ど、どうしたの!?」
「ア、アカン、痛い……ゆ、夢やないんか?これ?う、嘘や!ハンナがこんなこと言うはずあらへん!」
アレクスは大真面目に、己の正気を疑っていた。
目の前のハンナは、普段の言動からは考えられないほどにたおやかで、しおらしかった。
「何かの間違いや……ハンナがこんなに可愛いはずがないんや……」
「……さすがに失礼じゃない?」
「槍でも降るんとちゃうか?せっかく旅を無事終えられたってのに、ワイはまだ死にたくないで!」
「いいかげんにしないと、ぶん殴るわよ?」
睨んで、握りこぶしをつくるハンナ。
この動作ですらも、普段の彼女よりずっと穏やかであった。
アレクスは、ずっと調子を狂わされていた。
「だ、だいたい、男嫌いはもうええんか?」
「まあ、それもいつかは直さなくちゃと思ってるし……そういうのも兼ねて、こんなことお願いしてるのよ」
「いやー、それでもワイをチョイスするのが正直謎やで。自分で言うのもナンやけど、ワイお前にさんざん色々言ってきたやんか」
「うーん、まー、だからじゃない?」
ハンナは言葉とは裏腹に、迷いのない口ぶりだった。
「私たちって、お互いに色々言い合ってきたわよね。たぶん世界中探しても、アンタほど気を使わなくていい相手っていないのよ。アンタになら、思ったこと全部言えるし……」
「あー、それはまあ、そうかもしれん……ワイも今となっては、お前ほど遠慮なく物が言える相手はおらんしな」
「領主の座を失って、突然始まった旅の中で、私たちすっかり気の置けない間柄になってしまったわね」
そしてハンナは、アレクスの腕にすがって、懇願するように言う。
「……それで、もらってくれるの?」
「……」
いつになく煽情的な眼差しだった。
アレクスはごくりと生唾を飲み込んだ。
「ちょ、ちょっと待っとくれ……!」
アレクスは優しく彼女の手を振りほどくと、何故だか机の方に向かった。
ランプの明かりを頼りに、何やら急いで紙にペンを走らせている。ハンナは座り直してそれを見つめていた。
少しして、アレクスが紙とペンを持ってベッドにやって来る。
「よーし、ハンナ。もらってやるのはええが、その前にこいつにサインをしてくれや」
「……?なによこれ?」
ハンナに紙を手渡した。
文面は次の通りである。
==========
性交同意書
〇〇月××日 △△年
エルピス夢見亭(宿屋の名前)
私はこの日、商人アレクスと、寝屋を共にして性行為に至ることを宣言いたします。
当行為中にあった出来事については、以下条項に記載された事項を固く守ることを誓います。
a)後から同意ではなかった旨を主張しない
b)身体の不調を偽り金銭を請求しない
c)性交されたことについて社会的メリットを追求しない
d)性交したことについて社会的落ち度を追及しない
e)エトセトラ
f)エトセトラ
・・・・
・・
氏名欄
==========
一部の抜粋に留めたが、条項はうんざりするほどあった。
「…………」
「い、いやー、今までのお前の言動を考えると、やっぱ不安やん?商人は信用が第一やし……せやからその誓約書に同意してもらえると……」
「テ・メ・エ・はぁ!!私をなんだと思ってやがんだー!!」
ここでアレクスはようやく、いつものハンナの声を聞くことができた。急に怒号が来たものだからビクッとしたが、彼の顔は笑っていた。
「ワハハハハ……!ようやくいつもの調子に戻ってくれたなあ!さっきまでのお前は可愛かったけど、なんか調子狂うんやわ。やっぱこれでこそハンナやな!」
「ア、アンタ……もしかしてこの為に、こんな紙を……?」
「さーてどうかな?お前が信用ないんは事実やしなあ」
「ふんっ!ほら!これでいいんでしょ!」
ハンナは乱暴にペンを奪い、紙の氏名欄にサインをすると、粗雑に突き返した。
「おら!同意したぞ!話が決まったならちゃっちゃと済ませてくれる?」
「なっ……!マジにいいんか!?ちょっと待っとくれ、心の準備が……」
「いつまでうだうだしてやがんだ!早くこっちに来てくれる?」
グイッと、アレクスをベッドに引きずり込んだ。
彼女も引っ込みがつかなくなっていた。
「ほら、早く脱がせる!」
「うう……シ、シスター服ってどんな仕組みになっとるんや?正直よう分からん」
「何よー情けないわねー。アンタってやっぱ童貞?」
「な、なめんなや!童貞は童貞でも、素人童貞やで!てかお前だって処女やろがい!」
「そーですけどー?乙女の初物なんだから有難く頂戴なさい」
「ブフッ!なにエラソーにふかしとんねん。誰にも相手にされんかったから、売れ残っとるだけやろ……それに乙女って年齢でも……へぶっ!?」
ハンナは容赦のない拳が出ていた。
アレクスは頬をさすりながら抗議の目を向ける。
「いきなり何すんねん!このクソ女!」
「アンタ、ほんとにいいかげんにしてくれる!?この私がわざわざ下手に出て、抱かれてやると言っているのよ!フツー諸手を挙げて、滂沱の涙を流し、歓喜に打ち震えるところでしょうが!」
「何を寝ぼけたこと抜かしとんねん!お前ごときにそんな価値あるかいな!身の程知らずもたいがいにしろや!」
「なんですってー!」
お互い、口論しながら取っ組み合っていた。
さっきよりずっと険悪な雰囲気だった。けれどもなぜだか、どこか楽しげだった。
揉みくちゃになっている内に体が密着して、互いの顔が至近距離まで近づいた。
「…………」
「…………」
のぼせ上がった顔で見つめ合った後、不意に唇を重ねた。
そこから二人はすっかり人が変わったようにおとなしく、ひたすら情熱的になった。
やがて生まれたままの姿になって、ベッドを揺らした。怒声はなく、嬌声だけが聞こえていた。
この日、結局槍の雨がふることはなかった。
ふったのはアレクスの腰の槍であった。




