アレクス領の現状
少し歩くとなだらかな丘の上にぽつんと立つ、レンガ造りの家屋へと辿り着く。そこそこの広さで二階まである。独り暮らしなのだとしたら持て余しそうだと思った。
「ここがアンタの家か?」
「家……というよりは騎士の詰所のようなものだな。まあ私は此処で既に何年も暮らしているから自宅も同然になってしまっているが」
辺りを見渡せば、眼下に農村のような町並みが見えた。それを一望するような位置取りだ。騎士というものの立ち位置がなんとはなしに感じられる。
俺とクモラは促されるままに、中へと立ち入る。
台所とテーブル、数脚の椅子が待つリビングにまず出逢った。
「夕食の支度をしよう。好きなところに座って待っていてくれ」
そう言って、その女騎士は細剣を外してから、台所の方に向かって火を起こし始めた。クモラが横で「ごはん♪ごはん♪」と楽し気に言っているのを聞きながら、俺はぼけっと辺りを見回していた。
どうやら使用人はいないようだった。だから手の込んだ料理は作るに作れず、騎士の職務の片手間にできるような簡素な料理を日頃から食べているのだろうと思った。
そんな風に考えていたから、最初は出された食事にあまり違和感を感じていなかった。
「待たせたな、さあ召し上がってくれ」
提供された料理はおそらく作り置きを温め直した野菜のスープ、豆のサラダ、少し硬くなった白パンにジャムを添えたもの。朝食かな?と思ったが、俺は前述したように騎士の食事というのはこんなものかもしれないと思っていた。なにより空前絶後の空腹状態にある俺は、提供された食事に文句を言う気持ちなど欠片も沸かなかった。
「いっただきまーす!」
俺は両手を合わせると、バクバクと、目の前に広がる食べ物をひたすら貪り続けた。ただひたすら胃に物を送り込むだけのマシーンと化していた。
金持ちが食っていそうな上等な料理でこそなかったが、俺は「うめえ!うめえ!」と叫びながら食事をしていた。やはり過度の空腹ともなれば、たいがいの食べ物は天の食物の如くに感じられるものだ。生きている、という実感が全身を駆け巡っているような気さえした。
俺はこのように、食事には充分満足していた。
しかしクモラの方は、腹は減っていただろうからやはり完食こそしていたのだが、終わり際にぽつりと不満そうに「お肉はー?」と言った。
それを聞いてピクリと、女騎士の眉が動いた。
(言われてみると肉も魚もまったく使われていないラインナップだな。いや、それどころじゃねえ、卵やミルクも一切使用されていないような……?)
なにか食事にこだわりのある騎士様なのかな?と、俺は軽く考えていた。
だが思い出してみると、俺とクモラはさきほど魚を捕まえようとしていたところを叱責された。あくまで彼女一個人のこだわりでしかないのなら、あのような取り締まりをするだろうか?
「肉か……なるほどな。さきほど魚を捕らえようとしていたことといい、どうやら本当にこのアレクス領のルールを知らないようだな」
そう言えば、さっきもそんな感じのことを言ってたな。
アレクス領……やはりここはハインリヒ領の外で間違いないようだ。アレクスというのはたしか勇者パーティの商人だったよな?
「それに私はこの辺りに赴任してもう何年も経つが、お前たち二人の顔は見たことが無い」
俺たちの顔をじろじろと見つめながら、何やら思慮深げな顔をする。
「……まさかとは思うが、お前たち、ひょっとして他領から来たのか?」
「……」
そのまさかでござんすよ、騎士様。
これについては隠しようがないだろう。
「ああ、ちょいと事情があってな……昼間まではハインリヒ領にいたんだが」
「ハインリヒ領だと!?ディリゲンティア台地の上だぞ?まさかここまで落ちてきたのか?」
「いや、まあ、ははは」
「よく生きていたな……」
それは俺自身も不思議に感じていたことだ。魔王の奇跡とでも呼ぶべきだろうか?
「しかしお前も知っていることだろうが、勇者の仲間たちの領地はそれぞれ分断状態にある。どうやって結界を越えてきたのだ?」
「そ、それは……」
俺は口ごもった。軽はずみに話してよいものかと迷った。
そもそも言ったところで信じてもらえるのだろうか?このクモラという少女には魔王の魂が宿っていて、俺は彼女を守る使命を背負っているなどと。
「……」
「いや、話したくないのなら無理に話さなくてもいい。そなたらにはそなたらの事情があるのだろう」
騎士様は、自分から話を切り上げてくれた。
正直、俺はこの人にならすべて話してもいいんじゃないかと思っていた。ファーストコンタクトこそ叱責と連行だったので、その凛々しい雰囲気も手伝って少々話しづらい人のように思っていたが、そんなことはなかった。食事を恵んでくれたことといい、かなり思いやりのある人だろう。
「私はマルグリットという者だ。よければ、そなたらの名を聞かせてもらえるか?」
「俺はステッドってモンだ。こっちの嬢ちゃんが……」
「クモラだよー!」
「そうか、ステッドとクモラというのか」
ここからは俺たちの素性について、根掘り葉掘り聞かれることはなく、話の力点はアレクス領のルールへと移っていった。
「とにかく、このアレクス領に居るからには此処のルールを守る必要がある。なにせ違反者をしょっぴくのも騎士の仕事の一つなのだからな」
「ルールってのは、もしかして肉や魚を食っちゃいけないとかか……?」
「その通りだ。このアレクス領ではな、肉や魚、卵やミルクなど一切の動物性の食品を摂ることが禁じられている」
や、やっぱりそういうことだったか。
だからさっき魚を獲ろうとしたら怒られたし、今出された食事にもまったく肉や魚が使われていなかったんだな。ずいぶんと自然豊かな土地だっていうのに勿体ない。
しかしアレクス領のルールとやらは、どうやら俺が思っている以上に厳格なようだった。
「食品だけではない。例えば動物の皮を使ったカバンや靴など、そういった製品の製作も使用も厳禁だ。おまけに家屋に出没するネズミや虫もみだりに殺すことはできない」
「いいっ!?なんでまた……」
「商人アレクスが発足した組織――”生類愛護会”の教えによるものだ。”すべての命を慈しむ”……それがこのアレクス領の基本理念なんだ」
動物を食ったり道具にしたりしちゃいけないどころか、ネズミや虫まで始末できないと?
いくらなんでも極端すぎないか?
「無茶苦茶な……てか、植物はいいんだな」
「そこは感受性の問題だろう。植物は動物のように苦しまないからな」
うーん、そういうモンなのかな。
「けどよ、植物だけを食っていくなんて、それで人間は生きていけるのか?」
「……いけないからこそ問題が起きているのだろう」
マルグリットさんはどこか不服げに言った。
「このような統治が始まってもう何年も経つが、栄養失調で倒れる者の数は日増しに増加している。特に育ち盛りの子供の影響が深刻だ。それに獣や虫を退治できないのだから、農作物を荒らされる被害も絶えない」
「な、なんとかなんねえのかよ、それ」
「生類愛護会はかなり大きな組織だ、個人の力では太刀打ちできない。それに私は一応、生類愛護会所属の騎士という立場で、要は規律違反を取り締まる立場にあるのだが、それでも領民の事情を見かねてアレクス様に陳情しルールの緩和をお願いしたことがある。まあ、聞く耳を持たれなかったがな……」
口惜しそうに、窓の外に視線をやっていた。
マルグリットさんは立ち場としてはルールを強いる側にあるのだろう。それでもその憂いを帯びた瞳からは、決して現状を歓迎していない彼女の本音が窺えた。