クモラ
魔王……その名を聞いて、俺は動揺した。
だってそうだろう?
誰もが知る力と恐怖の象徴!それを名乗っているんだからな!
同時に、討伐されたはずの魔王の声を何故聞くことができるのかと、そんな疑問が湧いてくる。そして俺が考えている内に、急に辺りの景色が一変し始めた。
森の木々はどこにも見えなくなり、代わりに何もないまっさらな空間に立たされていた。いや、眼前に一つだけ、途方もなく大きな存在があった。
端的に言えば、それは女性のような外見の巨人であった。人間の数十倍はあろうサイズで、胡坐をかいた状態で俺を見下ろしている。腕は四本あった。白い髪と白い肌、黒い瞳と黒い戦装束のコントラストが美しかった。
「ど、何処だよ……ここ?」
【ここは我が精神世界だ】
「ア、アンタはいったい?」
【魔王モラクレスだと名乗っているだろう?たわけが】
混乱のあまり同じ質問をして怒られた。
しかし異様な存在だった。眼前の魔王は口を動かさず、思念で以て話している。
「で、でもよ、おかしいだろ……?だって魔王は十年前に討伐されたはずじゃ……!?」
【お前の言う通りだ、確かに我は十年前に勇者アルバート・エリュシオンによって滅ぼされた。肉体だけはな……】
モラクレスは意味深に言葉を区切る。
【我は魂の状態でもある程度活動することができる。勇者に倒された後も、なんとか魂だけは脱出を果たしていたのだ。しかし魂というのはそれだけでは何もできないし、肉体という器がなければ存在を固定できずに消えてしまう……そのため我は、我が魂の器となる肉体を早急に探し出す必要に迫られた】
「それであの少女に憑りついたってことか……?」
【時間がなかったからな、人間や魔族のような知的生命体でありさえすればなんでもよかった。知性がある方が話すことも魔力を扱うこともずっと容易いからな】
な、なるほど……魂だけでも動き回れるなんて、やっぱ魔王ってのはすげえな。
俺は呆然とした顔で、話を聞き続ける。
【だが消える前になんとか見つけられた肉体は、生まれたばかりの捨て子だった。これでは憑りついたところで独りで生きてはゆかれまい。だから近くに居た動物に力を与え、我が器となった肉体を守り世話をするように命じたのだ】
それがわんわんおってコトか!
【しかしその犬も今、寿命を迎えようとしている。我が魂の器となりし少女はまだ幼い。よって、まだ少女を守り保護する者が必要だ】
「そ、それじゃ、また新しい犬を探し出すんで……?」
【何を言っている?お前だよ、お前】
へ……?俺?
ミー?アイアム?
「お、俺ですかっ……?」
【お前には我が力を、この少女を通して使えるようにしてやろう。これよりお前は”魔王の器”を守る存在……”魔王の守護者”と化すのだ】
「い、いやいや……!俺なんか喧嘩に一度も勝ったことがないような、とんだクソ雑魚野郎でやんすよ!?別の人を探して頂けたら……!」
【黙れ、お前に断る権利はない。言う通りにせねば死すら生温い地獄が待っているぞ】
うう、怖え……!
思ったより話しやすい印象だが、やっぱり魔王は魔王だな……
【一つ言っておく。今の我が力は、力の根源を封印されているせいで全盛期の半分にも及ばない。だが魔王の力の根源――”七大罪の化身”をすべて解放すれば、我が力は完全なるものとなろう】
「力の根源……?でも、魔王様は今のままでも充分お強いのでは……?」
【別にお前に力の根源を解放することまで強制するつもりはない。だが我が力が完全復活すれば勇者アルバートにも匹敵しうるぞ?】
「いやいや……!そんなこと、俺には恐れ多い……」
【我はこの少女に憑りついて以降、外界の事情を見聞することは叶わなかったから、世界がどのようになっているのかまでは把握していない。しかしあの勇者が頂点に君臨し政をしているのなら、おそらくロクな世界にはなっていまい?】
モラクレスは分かっているような口ぶりで言う。
実を言うと俺も、このハインリヒ領から出たことがないから、他所がどうなっているのかはよく知らない。そもそも勇者やその仲間たちの領地はそれぞれ分断されているらしいから知りようがない。
「お、俺もよく知りませんが……それでもあまりいい噂は聞きませんね」
【そうだろうな。我はあの決戦の日に勇者と一度戦っただけだが、それでも戦いを通せば相手がどのような存在かはある程度分かってくるというものだ。アイツは純粋すぎる。悪の無い、汚れの無い社会が実現できると本気で信じている】
「魔王様から言わせれば、それは無理だと……?」
【天と地が交わり世界と成るように、昼と夜が交わり時と成るように、男と女が交わり命と成るように、万物は片側だけでは存在し得ないのだ。よって悪だけの世界も、正義だけの世界も創ることは不可能だ。しかしあの勇者は正義だけの世界を創ってしまおうとするだろう。それは存在しない目的地を目指す果ての無い旅のようなものだ、多くの者に無用な苦しみをもたらし社会に不協和音を生むことだろう】
魔王の言葉は為政者ならではというか、すべてを見通しているような発言だった。魔族の頂点なだけあって、上に立つ者の凄みを感じた。
そして意外でもあった。魔王と言えば恐怖と暴力の象徴であり、俺も粗雑で乱暴なイメージばかりを抱いていた。しかし実際には想像していたよりもずっと理知的で、それどころか世界の為を想っているかのような発言さえしてみせた。
【ところで、お前の名は?】
「へ、へい、ステッドという者ですが……」
【そうか、ステッドよ。お前がもしアルバートの治世を正し、世直しをしたいと思うなら我が力の根源を解放しろ。おそらく勇者の仲間たちがそれぞれ封印・管理していることだろう】
「いや、俺にゃそんなスケールの大きなことは……!」
【そんなことはない。こんな話をしているのも、我はお前に少し可能性を感じているからだ。単純に魔王の力を復活させて勇者に挑んだだけでは、あの日の決戦を繰り返すだけだ。同じ結末が待っていよう。しかしお前には魔族と人間、両方の血が流れている。滅ぼし合わずに共存するという、そんな我々が本来あるべきだった姿を体現しているとは思わないか?】
な、何言ってやがんでい!この魔王様は……
でも……
「ウィリアムさん以来だな……純粋な人間でも魔族でもない俺を、そんな風に肯定してくれたのは」
【……そうか】
少し沈黙が通り過ぎた。
やがて周囲の空間が歪みだしたことに気付く。
【ふむ、そろそろ時間だな】
「な、何が起こって――!?」
【我が魂はこの少女の魂と融合を果たしている。そして主人格は少女の方にあるので、そう長い時間お前とは話せないのだ】
言っている内に、どんどん辺りの空間が崩れていく。
【ステッドよ、別に力の根源の解放や勇者との戦いまで強制するつもりはない。最低限この少女を保護してさえくれればそれでよい。だが先ほども言った通り、お前には可能性がある。お前ならばともすれば魔王や勇者をも超えた力を得ることができるかもな……】
そんなモラクレスの言葉を聞きながら、俺の意識はいよいよ現実に引き戻された。
◇
「はっ……!」
目を覚ますと、俺はわんわんおに触れた状態のままで固まっていたことに気付く。横を見れば名も知れぬ少女が、心配げな顔つきで俺を見つめていた。
「だいじょーぶ?」
「あ、ああ、なんとかな……」
まだ思考が混乱している。まさか魔王と話す日が来るなんてな……
俺は心が落ち着くのを待ってから、これからどうしようかと考える。
とにかくまあ、この少女を守らなくちゃならんのだろう。ほっぽり出したら後が怖いし。というかコイツはそもそも自分の中に魔王の魂があることを知っているんだろうか?
「なあ、嬢ちゃん。魔王って知ってるか?」
「魔王?知ってるよ!なんかすごい強かった人でしょー!」
あ、こりゃ知らねえな。うん。
そもそもモラクレスは、自分の魂とこの少女の魂を融合させたと言っていたから、少女とは会話ができないのかもしれない。自分と対話はできないもんな。
「それじゃ、嬢ちゃん。ちょいと聞いてくれねえか?今まさに俺の身に起こった、摩訶不思議な出来事をよ」
俺はさきほど体験したことをすべて話した。
少女の体には魔王の魂が宿っており、その魔王と逢ってきたこと。
わんわんおが死んだので、代わりに俺が少女を守る使命を引き継いだこと。
封印された魔王の力の根源を解放すれば、魔王の力は完全なものになるということ。
別に言ってよかったよな?
伝えるなとは一言も言われていないし、事情は共有しといた方がこの先都合がいいだろうし……
「……」
少女はぽかんと固まっていた。ひょっとして言わない方がよかったか?
さすがに魔王なんてやべー奴の魂がお前の中にあるんだぞと、そんなこと言われたら並々ならぬショックが……
「なにそれ!すごーーい!」
あ、全然大丈夫だったわ。
目キラキラさせてるもん。
「すごいすごい!わたしの中に、魔王の力があるってことだよね!?」
「まあ、そうなるな」
「わーい!すごいぞー!すごいぞー!」
少女は、喜びはしゃいでいる。
正直予想外の反応なんですけど……まあ、落ち込まれるよりかはマシかな!
「それで今度はあなたがわんわんおの代わりに、わたしと一緒に居てくれるんだよね?」
「ああ、悪いな……こんなどうしようもない野郎でよ」
「わーい、やったぁ!もうひとりじゃないぞー!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを表現する少女。
俺の気遣いや心配も知らずに……俺は小さく微笑みながら溜息を吐いた。
そして立ち上がりながら、わんわんおの亡骸の方を向いて、
「わんわんおのお墓、作ってやろうぜ」と言った。
「うん!」と少女は快活に答えた。
わんわんおの亡骸を埋めた場所に、簡素に木の枝で作った十字架を刺し、草花を編んで輪っかにしたものを掛ける。少女が持ってきた食いかけのハムはお供え物にした。
俺たちは墓の前で、目を閉じ手を合わせて祈りを捧げている。
「わんわんお、天国で幸せに暮らせるといいね」
「……そうだな」
しんみりと呟く少女にぽつりと応え、それからはしばらく黙っていた。
祈りが終わると、俺たちは再び顔を見合わせる。
「そういや、俺たちまだ自己紹介していなかったよな?俺はステッドっていうんだ。嬢ちゃんは何て名前なんだ?」
「……?わたし名前なんてないよ?」
ええ……まあ、そりゃそうか。捨て子で、ずっと犬に世話されながら過ごしてきただろうしな。けど名前がないのも不便だよな。
「じゃ、じゃあさ、俺が代わりに嬢ちゃんの名前を考えてやろうか?」
「え!いいの!?」
少女の目は、またしても星のように輝く。
「なんて名前?なんて名前?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……考えるからよ」
うーん、どうしよう?
ペットの名前すら考えたことのない俺に、ナイスな名付けなどできるのだろうか?
この少女は魔王モラクレスの魂が宿っているのだから、いっそ魔王にちなんだ名前にするべきだろうか。魔王由来の名前なんて嫌かな?でもコイツ魔王の力があること喜んでたしな……
(魔王モラクレス……モラクレス……モラク……モラ……)
そこでふと、少女の名前に合いそうな響きと出逢った気がした。
「……クモラ、なんていうのはどうかな?」
「クモラ?それがわたしの名前?」
「ああ、嫌なら別のを考えるけどよ……」
「やったー!名前ができたー!」
少女はまたしてもぴょんぴょん跳ねて、全力で喜びを表現する。
「えへへ!わたし、クモラっていうの!いい名前でしょ!よろしくねー!」
「お、おう……」
いや、俺が名付けたんだけどな……
けどこれだけ喜んでくれるのなら、考えた甲斐があったな。
――こうして俺はクモラの、魔王の守護者となった。
ここから俺たちのめくるめく大冒険が幕を開けることになるなんて、この時はまだ予想だにしていなかったんだ。