暴食の化身、グーラ
しばらく歩いていると森の木々は視界から失せていき、反して風に妙な匂いを感じるようになった。アレクスは潮風の香りだと言っていたが、生まれて一度も海を見たことのない俺にはよく分からなかった。それについてはクモラも同じことだろう。
やがて眼前には、果てしなく碧い水の広がりが現れた。
「す、すげえ……!これが海ってやつか!」
「おっきい水たまりー!」
俺とクモラは海原を前にしてはしゃいでいた。
二人して波打ち際に近づいてみる。岩場の海岸だった。そっと手を入れて海水を舐めてみる。
「うおっ!ホントに水がしおからいぞ!」
「しょっぱいー」
アレクスも近づきながら、
「海なんか見慣れとるワイからすると、あんさんらの反応の方が新鮮やな。まあじっくり感動してけや。気が済んだらもうちょい先に進むで」
俺とクモラがひとしきり渚で戯れた後、再び歩を進めた。歩きながらアレクスが話をする。
「この辺はテンペランティアの東の果てにあたる場所でな、もうちょい進んでいけばキャスティタス……すなわちハンナ領に辿り着く。見てみい、向こうの方に結界が見えるやろ?」
アレクスの指差す方を見れば、たしかに紫色に透き通った壁が遠くに見える。俺とクモラがハインリヒ領から脱出する際に見たものと同じものだ。
「そういや、俺とクモラは魔王の力があるから結界を通れるが、お前は大丈夫なのかよ?」
「たぶん問題ないはずや。ワイの中には七大罪の化身、グーラがおるからな」
アレクスの奴はさらっと言っていたが、俺は意味が分からず首をひねった。
「グーラ?どういうことだ?」
「後で説明したる。それよかもっと進んでいくでー」
やがて更に足を伸ばしていくと、結界を越える前に何か大きな物が海に浮かんでいるのを目にした。それは古びた帆船だった。帆は穴だらけで、船体は腐食していた。海中に接している面はフジツボのようなものが多数まとわりついている。
「こりゃ船ってやつか?てかオンボロだな」
「昔ワイが使うてた船や。結界で世界が分断されて航海の価値がなくなってから、ほったらかしやったんや。その存在を今になって思い出したワケやな」
腕を組みながら古びた船を眺めている。
「とにかくコイツを補修して先に進もうかと思っとる。キャスティタスは国土の大部分が海に面しとるからな、船があった方が便利やろ」
「補修!?でも、そりゃすげー時間がかかるんじゃ?」
「ワイらだけならな。おい、グーラ起きとるか?力仕事の出番やで!」
急にアレクスが首を下げつつ声を上げた。
誰に向かって話しているのかと思えば、どうやら自身の体に対して言っていたらしい。やがて黒い靄のようなものが出てきたかと思えば、バカでかい怪獣のような姿が現れた。
黒い体色で、背中は甲羅のように硬質化していて、立ち上がった亀かアルマジロのような外見だった。
「いいっ!?な、なんだよ、コイツは!?」
「さっきも言うたやろ。コイツが七大罪の化身にして暴食を体現した存在、グーラや。魔王モラクレスが生み出した分身の一つや」
俺は七大罪の化身についてどうやら誤解をしていたらしく、しばらく驚きで立ち尽くしていた。
「ま、まじかよ……七大罪の化身って姿かたちがあったのか!魔王の力の根源って説明されてたから、なんかエネルギー的な何かかと思ってた……」
「当たり前や、化身やぞ化身。神秘的な力が形を得た存在ゆうことや。まあでも、あんさんの解釈もそこまで間違っとらん。七大罪の化身ってのは、神が定めた七つの悪徳を体現した存在やからな。要は生物というより概念に近い存在なんや。だからこそワイの中に入り込むという芸当もできとったワケやし」
「……そういや、なんでアンタの中に入り込んでるんだよ?」
「コイツは長年アーティファクトに閉じ込められて、力を吸われていた状態やったからな。要するに弱体化してしまっとるんや。だからワイの中に入り込んで、魔力や生命力を貰いつつ力を回復しとる。ワイの中に入っとるのはワイが一番アーティファクトの近くに居続けたおかげで、一番魔力の親和性が高うなっとるからやな」
ここでワンポイントレッスン。
人間でも魔族でも動物でも魔物でも、この世界のすべての生物には魔力が流れている。そしてその魔力を利用して使うのが魔法なんだが、これは多少の知性がないとできないものらしい。つまりできない生物はできない。なら知性のある人間や魔族なら誰でもできるかと言えば、そういうわけでもなく、使いこなすには向き不向きというものがある。俺も魔王の力を得るまではてんでダメだったし、アレクスも似たようなものだろう。
魔力についての説明終わり!
アレクスは姿を現したグーラの方を見ながら、
「つーわけでグーラ、キャスティタスに向かうにあたって船を修理したいんや。力持ちのあんさんが居ればきっと数日で終わる!力を貸してくれや!」
「フイイ……わ、分かっただよ」
グーラが声を発した。
なんだろう……声がイメージと違う。もっと恐ろしい声で話すもんかと思ったが、田舎者のような訛りのある声で、おどおどと話していた。
「なあ、なんか元気がなくないか?やっぱアーティファクトに閉じ込められて弱ってるからか?」
「まあそれもあるやろうがな、真因はそこやない」
「他に原因があるってのか?昔、勇者にやられた古傷が痛むとか?」
「あ、アカン!」
アレクスが言うや否や、グーラは「ゆ、勇者!?」と叫ぶと、その巨体で跳び上がって逃げ出した。岩場の陰でガクガクと震えている。
「ひいいいいい……!勇者怖い……!勇者怖いよぉ……!」
子供のように怯えていた。
「ど、どーしちまったんだよ?」
「あー、コイツは十年前に勇者アルバートにコテンパンにやられてもうてな……勇者のことがトラウマになってるんや。おまけに拒食症になってもうてなあ……」
きょ、拒食症!?暴食の化身がか!?
「今のコイツは一日三食、一般的な成人男性程度の量しか食わん」
「じゅ、充分じゃね?って思ったけど、暴食の化身としては全然少ない量か……」
「以前のコイツは図体はもっと大きかったし、食事量も半端やない。草や獣を森ごと食いかねん存在やったからな」
聞く限り、すげーヤバイ奴だな……
アレクスは次第に落ち着き出したグーラに近づくと、体を撫でつつ慰める。
「おら元気だしいや、グーラ。体動かしてれば気も紛れるかもしれんで?ほな仕事しよか」
「ああ、そうだな……」
今のやり取りを見ていて、俺はアレクスという男を少し見直し始めていた。
少なくともアレクスは魔族だからという理由で相手を毛嫌いしない。欲深い野郎だが、己の望みを果たす為なら清濁を併せ吞む度量の広さを持っているのだと思った。
やがてグーラは落ち着きを取り戻して、立ち上がる。
そして俺とクモラの方に視線を送ったのだが、ここでようやく気が付いたか、グーラは目を見開いた。
「……っ!こ、この気配は……!もしかして……!」
ドタドタと、地面を踏み鳴らしながらクモラの元に近づいてくる。
「や、やはり……!魔王モラクレス様!生きておられたのですね!お姿は変わってしまっているようですが……」
「ちがうよー、クモラだよー」
クモラはぶすっとした顔で言う。グーラは笑みを崩さなかった。
「そうかそうか、今はクモラ様っていうんだべか!オラも魔王様の配下として精一杯がんばるからよぅ、どうか宜しくお願いいたしますだ……!」
深々と地に頭を付けて平伏していた。外見は怖いがずいぶんと憎めない奴だった。
そこから三日がかりで帆船の修理に勤しんだ。
いや、たったの三日だ。こんな短期間で修理が完了したのは、ひとえにグーラのおかげだった。グーラは帆船を軽々と持ち上げたられたし、補修の素材となる木材の伐採もしてくれたんだ。
勿論俺とアレクスもただ見物していたわけじゃない。例えば帆の補修とか、そういう手先の器用さが要る仕事は苦手なようだったから、そっちは大部分俺たちでやり遂げた。クモラには魚を釣ってもらったりして、食糧調達をお願いしていた。
そうして修理を終えた帆船を海に浮かべると、いよいよ出航準備が整った。岸に係留しておき、出発は明朝とした。俺たちはこの海岸沿いで焚き火を囲んで、最後の食事を楽しんでいる。鍋には魚や貝が塩や香草とともに煮込まれ、俺たちはガツガツと今晩の糧を食らっていた。
グーラの奴は隅の方でもそもそと、魚を少しずつ食べている。
(しかし本当にたいした量を食わないなコイツ……暴食の化身だってのに。なんだか気の毒になってくるぜ)
不憫に思いながら、魔王の配下をここまで追いつめた勇者という存在に改めて興味が湧いてくる。グーラが食事を終えて寝息を立てた頃、俺は試しに聞いてみた。
「なあ、アレクス。そういや勇者アルバート・エリュシオンってどんな奴なんだ?すげえ強いとか、すげえ格好いい見た目をしてるとか、俺はその程度のことしか知らなくてな」
「あー、アルバートのことな。まあ一言で言うと、超意識高い系やな」
「超意識高い系?」
「ホンマむかつくでアイツ!戦いが終わるたんびに、いちいち反省会しよる。さきほどのお前の攻撃はどうだっただの、あの場面はこの魔法を使うべきだっただの、何故このアイテムを使わなかっただの、もう少し早く動けたはずだの……うんざりするで!」
声を張り上げていた。もしかしたら今まで不満をぶちまける相手がいなかったのかもしれない。
「じゃ、じゃあアレクスは好きで勇者の旅に付いて行ったわけじゃなかったのか?」
「当ったり前や!名誉の為に決まっとるやろがい!誰が好き好んであんなストレスフルな旅するかいな!すべてワイの名を馳せる為やったんや!」
うーん、コイツがこんな発言をしてもとくに呆れなくなってきたな。むしろこれでこそアレクスだとすら思えるようになっている。
「以前、ワイが地図を読み違えて魔物に襲われとる町への救援が遅れてしもうて、住民に多少の被害が出たことがあってな……そん時ワイ半日ぐらい説教されたからな!?ホンマに信じられん!今思い出しても腸が煮えくり返りそうや!」
「そーとー、不平不満が溜まってたんだな……」
「せやから魔王を倒して旅が終わり、各メンバーに領地があてがわれることになった時ワイは歓喜した。ようやく今までの苦労が報われたんやなって……だから嵌め外して、やらかしてもうてもしゃあないやん?テンペランティアでのことはワイが悪かったと思うとるが、正直ちっとは同情してほしいんや」
いや、そこは反省しろ。
「じゃあ勇者パーティの他のメンバーも、みんな不満だったのか?」
「いや正直よう分からん。とくに本音で語ることはなかったからな。ただダニヤンとラヴィアンは不満やなかったと思う。ダニヤンは戦えればなんでもいいような戦闘狂やし、ラヴィアンは勇者にぞっこんラブな女やったからな。この二人は完全に好きで参加していたやろなあ」
「その二人以外だと違うってのか?」
「本音は分からんがな。ハインリヒはおそらく勇者と魔王の力を見極める為やったろう。シューザは義賊やったから純粋に人々の為やったんやないか?ハンナとキアラに関しては多分ワイと似たようなモンや、名を上げる為に勇者に付いて行ったかんじやろなあ。内心で勇者をどう思っとったかは知らんがな」
「な、なるほど……」
なんとなく俺は、勇者パーティというものが固い絆で結ばれたものだと思い込んでいたが、決してそうではなかったことが分かった。今の社会がぎくしゃくしているのも、このことが如実に影響している可能性すらあった。
アレクスは寝ころびながら、
「だからなー、正直ワイ、今の旅は早くも気に入ってるんや。あんさん相手なら思っていること気ままに言えるからな。こんな気楽な旅は始めてや!」
「へ?そ、そうか……」
思わず粗雑に返してしまった。
褒められ慣れていないから、こんなことを言われてもどう反応したらいいのかが分からないのだ。
「ステッド、もっと自信を持ってええで。これもあんさんの人徳のなせる業なんや。ワイはあんさんが魔王モラクレスに選ばれたのも、こうしてクモラに懐かれとるのも決して偶然やないと思っとる」
「お、おう……そう面と向かって言われると、なんか照れくさいな」
「ワハハハハ!少しは図に乗っとけ!あんさんが自信を付けてくれたら、この旅の目的も果たしやすくなるやろうしな……とにかく夜も更けたことだし、今日はもう寝よか」
言いながら、アレクスは寝返りを打つように俺に背を向けた。
傍らを見ればいつの間にかクモラも、グーラに寄りかかるようにして眠っていた。道理で静かだと思った。
敵対していた商人とは親睦が深まり、おまけに魔王の配下も加わって……
俺は不思議な気持ちで眠りにつくのだった。