♯31 コンプライアンスと名前 前編
自分でもズルくて、無責任な発言だと思っている。
今すぐ付き合えないと言ったくせに、そんなことを言って彼女を繋ぎ止めようとした。
「ダメ……かな?」
「ふふっ」
あ、あれ……?
かなり勇気を振り絞って言ったのに、笑われてしまっている。
「チーフは私の名前をご存知なんですか?」
「そりゃあ……」
「じゃあ、教えてください。私の名前は何ていうんでしょうか?」
白河さんの口元がニヤニヤしている。
さっきまでとは一転、ものすごく楽しそうな顔をしている。
「……今、言わないとダメ?」
「チーフから呼びたいって言ったんですよ? 今、作業場には私とチーフしかいません」
白河さんが俺の目の前まで近づいてきた。
めちゃくちゃ顔が近い……。
背伸びをして、上目遣いで俺のことを見つめている。
「……白河汐織さん」
「よく聞こえません」
「白河汐織さん」
「はい、何でしょうか大和さん」
名前を呼ぶと、白河さんが俺の名前を呼び返してきた。
そのままニコっと微笑んで、背伸びでプルプルしているしている足を、ゆっくりと元に戻した。
「めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど」
「私も恥ずかしいです」
「じゃあやめとく?」
「嫌です」
きっぱりと白河さんにそう言われてしまった。
「大和さんは真面目なんですから」
「今はコンプラがどうのこうのででうるさいんだよ……」
「社員の人がアルバイトの子と付き合うのは珍しくはないと聞きましたが……」
「誰から聞いたのそれ?」
「山上さんです」
い、いつの間にか、山上さんが余計なことを白河さんに吹き込んでいた。
「……チーフ、これ。仲直りしようと思って買ってきたんですが」
「これ?」
白河さんが、エプロンのポケットから《《いつもの》》缶コーヒーを取り出した。
「ありがとう、気を遣わせちゃったね。後で飲むね」
「いえ、今飲んでください」
「今?」
「はい、今飲んでください」
「何故に!?」
白河さんからそのまま缶コーヒーを受け取ってしまった。
売り場のお客さんからは見えないように、その場でしゃがみ込む。
白河さんも、俺と一緒にしゃがみ込んだ。
ぷしゅっと缶コーヒーをのプルタブを開ける。
「なんで今?」
「早く仲直りがしたいので」
「ふーん、そもそも喧嘩してたんだっけ……?」
缶コーヒーに口をつける。
うん、いつもの味で美味しい。頭がしゃきっとする。
「チーフ」
「ん?」
白河さんが、両手の手のひらを上に向けている。
「どうしたの?」
「私にも缶コーヒー下さい」
「どういうこと?」
よく分からないまま、飲みかけの缶コーヒーを白河さんの手のひらの上に置いてしまった。
白河さんは、その缶コーヒーを少し見つめて、深呼吸をした後に、恐る恐るその缶コーヒーに口をつけた。
「……何してんの?」
「間接キスしちゃいました」
「なんで?」
「こ、これでコンプライアンスは気にしなくて良いかなと。私からなので」
白河さんの顔が、今度は金目鯛みたいに真っ赤になっていた。




