7話・黄色の花の真実
仕舞い屋の仕事は、石がたてる小さな音と祈りの声。それだけでおしまいだ。
彼が祈った瞬間、奇跡のように風の音が止まる。
そうして静かにモガリが顔を上げた。
「さて、仕事はこれで終わりだけど」
と、モガリが立ち上がったその時。
地面をこするような音が聞こえ、アオイは慌ててモガリの前に立つ。
……が、それは襲撃の音ではない。もちろん聞き間違いでもない。
「ポチ?」
子どもたちの絵が描かれた壁の前。気がつけば、ポチが絵を眺めるように静かに横たわってた。
駆け寄って揺するが、もうその瞳は開かない。尾も動かない。
思わず胸元に耳を寄せかけるが、耳に触れたのは硬くて冷たい毛皮である。モーター音も、暖かさも失われた。
その感触は、かつて倒れたシスターに触れた日のことを思い出す。アオイはぞっと震え、自分の手のひらを撫でた。
……これは、死だ。
「ポチ、なんで」
「目的を果たしたポチはもうここでおしまいだ」
「おしまいって……」
「ポチは生命体じゃない。葬送犬だ」
モガリは少し寂しそうに眉を下げ、倒れたポチの体をぽんと撫でる。
「はるか大昔、人は犬を宇宙に送ったというが、今は宇宙から地球にロボット犬を送る。骨を犬の首輪にはめ込んで、目的地のマップもプログラムしてね。それが葬送犬。彼らは僕に依頼主の骨を運び、そして行くべき場所を教えてくれる……ポチは地球についた時、足をくじいたらしく、そのせいで広域マップを失ってしまったけど、よくここまで連れてきてくれた。いずれにせよ彼らは目的を果たすと、機能を停止する」
「……なんで、本物の……犬にそっくりにするんですか」
アオイは苦味を飲み込む。
「別に、四角い箱でも、なんでもいいはずなのに、なんで」
「どうも、この孤児院ではポチと呼ばれるコーギーを飼っていたようだ……ほら」
モガリは壁に描かれた絵を撫でた。
そこには、子どもたちと遊ぶ茶色の塊が書かれている。小さな耳に、短い手足。ポチ、と書かれた文字だけが、奇跡的に削れずに残っていた。
「本物のポチの骨はもうない。でもきっと、子どもたちはポチも一緒に戻りたいと願ったんだろうね」
モガリは動かなくなったポチを抱き上げて、花びらの前に置く。
「……花言葉は、追憶。私をわすれないで」
彼はクリスマスローズの紫の花びらを優しくなでた。
「花言葉?」
「花や植物のイメージを言葉にしたものだ。人はすべての物に意味を持ちたがる。花はただ咲くだけなのに、人はそこに意味を見つけようとする。しかし花が人の気持ちに応えることもある。不思議だが」
モガリは続いて、壁の一角を指差す。そこには、黄色の花が置かれている。穴から吹き込む風に花びらが揺れ、まるでそこだけ太陽が差し込んでいるように見えた。
「あの花の花言葉は情熱。あなただけを見つめている」
……まるで太陽みたいに情熱的な花だろう。
ある時、シスターがそう語った言葉をアオイは不意に思い出した。そんなことを語るシスター自身が、太陽のような人だった。
アオイの膝が震えた。まるで溺れる時のように、思わずモガリのスーツの裾を掴む。
「この……花は? この花の名前……」
「ヒマワリという、夏に咲く花だ、どうだ、花は応えてくれたかい」
モガリはアオイの手を握り、恐ろしいほどの力で体を引き寄せた。
「……ねえ、向日アオイ君」
「な」
唐突にフルネームを呼ばれ、アオイは固まった。睨みつけても彼は動じない。
ただ内ポケットから、一枚の四角い紙を取り出して、
「不用心だな。偽物の免許証を作るなら、偽名でないと」
と、囁いた。
「……それは……本名じゃない」
「でもこれは君にとっては大事な名前だ。いや、君に名前を与えた人にとっては、かな」
モガリが手にしていたのは、車の奥深くに隠しておいたはずの免許証だ。もちろん本物ではない。
ざらりとした紙の表面をアオイは撫でる。無愛想に写り込んだ写真の隣に書かれた文字は、向日アオイ。
別名にすべきだと、廃材漁りの爺さんは口を酸っぱく何度もそういった。
どうせその名前だって偽物だろう。と嘲笑われたが、それでもアオイは頑なにこの名前を捨てなかった。そして未だに捨てられない。
「賢いはずの君は愚かにも偽名を持たない。追われていても、偽名は使わない。名前を捨てない。今も昔も君の名前は向日アオイだ」
モガリがヒマワリに近づき、一枚の花びらを抜いた。まるでペンキでも塗ったような鮮やかな黄色が彼の手の中でコロコロと転がる。
「これは思い出の花だと言ったね。君の大切な人が大好きだった花だと。きっと君の名前もその人からもらったのだろうね」
「それに何の関係……」
「ヒマワリはね、向う日の葵と書くんだ」
チビスケは元気だなあ。
それが、確かシスターの第一声だったと記憶している。
悲しいことに、アオイは記憶力がいい。
まだ5歳か、その程度。前後は忘れてしまったが、誰かの手に引かれて教会の門をくぐったことを覚えている。
修道服をまとった女がアオイを抱き上げた。名前を聞かれたが、答えられなかった。なぜなら、アオイには名前がなかったからだ。父の記憶も母の記憶もなく、したがって名前もない。
だから彼女がつけた。
今日からチビスケは、向日アオイだ。そう彼女は言って、太陽のように明るい顔で笑った。
「君の名前だ、アオイ君」
……お前の名前だよ。と言われた。その声を、その言葉をアオイは唐突に思い出す。
「意味などなくても、大事なことはあるんだよ」
モガリは柔らかく微笑んで、アオイの手のひらに向日葵の花を一枚乗せた。
「葬送犬に墓を作るなんて滅多にしないんだけどね、今回ばかりは旅をする期間が長かったから……」
庭先の柔らかい砂の箇所を掘り起こし、モガリは動かなくなったポチの体をそこに沈める。
「墓づくりは一つの区切りだが、こうなると寂しいものだね」
ゆっくりと砂をかけ、モガリが額に浮かんだ汗を拭った。
「寂しいといえば、君とここで離れるのも寂しいな」
「気持ち悪いことを言わないでください」
スコップ代わりの平らな石を地面に置いて、アオイは答える。
気がつけば、外はもう昼を回っている。
冷たい風は壁や壊れた屋根の隙間を通り抜け、時折ピュウピュウと口笛のような音を鳴らして響く。
こんなところで残されていくポチは寂しいだろう。と、アオイはロボット犬の柔らかな毛並みだとか、巻き付く尻尾の感触を思い出した。
心の奥底がゆっくりと冷めるような、そんな感情。心が動くような感情を抱くのは久しぶりのことだった。
「どうだろう。アオイ君。僕の仕事を手伝ってはくれないだろうか」
ぼんやりと空を見上げるアオイの顔を、モガリがのぞき込む。相変わらず胡散臭いその顔にアオイは渋い顔をしてみせる。
「だから手伝ったじゃないですか」
「違う違う。これからのことだよ!」
モガリは大きく腕を広げて、その場でくるりとステップを踏んだ。
「僕の仕事は依頼も津々浦々、この国の端から端まで行く。やがて君の行きたいその場所に行くチャンスもあるかもしれない。僕はどうにも方向音痴だし、それに妨害も多くてね。僕は喧嘩は苦手だ。でも君は腕っぷしがいい。追われているようだから勘もよさそうだ」
「妨害?」
「統計的に一番多いのは、家族だな。別に愛情じゃないよ。骨があると助成金なんかを受けられるから、手元に置いておきたいんだ。そのせいで一欠片でも外に出るのを嫌がったりする」
骨。モガリが骨と呼んだその花びらを、アオイは思い出した。
花の脈が浮くくらい薄くてリアルで美しい。真っ白な骨からあんなものが生み出せるなど、不思議な話だった。
「あとは、地区の警備員。気持ちは理解できるんだけどね。いくら花に姿を変えたとしても骨は骨。無許可の埋葬は好ましいものではない。さりとて、埋葬許可なんて、降りるはずもない」
「なぜ?」
「埋葬許可は役所の戸籍課に届けないといけないんだけど、そこが先日、警察と統合しちゃってね……僕はちょっと……警察と仲が良くないから、開業届は持ってるんだけど書類を出せない」
胸のあたりをぽんとたたき、彼はまるで悲劇のヒロインのような顔をする。
表情筋が切れているのではないかと思うほど、モガリの表情はコロコロとよく変わる。そんなモガリの顔を、アオイはぼんやりと見上げた。
「君は孤児院を探したい。僕はスムーズに仕事をしたい。素晴らしい目的の一致だ」
……モガリは胡散臭い男だが、処世術は身につけているようだ。猪突猛進、倒すことしか知らないアオイよりは少しばかり頭が回るし、息をするように嘘をつく。敵ならうっとうしいが、味方なら多少の役に立つ。
それにこの男についていけば彼の言うとおり、孤児院を見つけられるかもしれない。
「僕としては、生きた人間を故郷につれて行けるのは嬉しい。君が笑顔でただいまを言うのを見てみたい」
「勝手に妙な妄想をしないでください。あたしは別に懐かしがって孤児院を探してるわけじゃありません」
懐かしがるなんて、全く意味のないつまらない感情だ。
モガリの仕事と同じ、この終わろうとする時代には意味のない感情だ。
アオイは土で汚れた手を払い、モガリを見上げる。
「モガリさん。そんなリスクばかりで意味のない仕事をよくはじめましたね」
「誰だって故郷に帰りたいだろう」
モガリがきょとん、と目を丸めるものだからアオイは思わず言葉に詰まる。
「……考えさせてください」
かすれるような声で呟いたアオイの声に、甲高い警報音が響いた。同時に壊れた壁の隙間から、赤い光が差し込んで部屋を染め上げる。
モガリは眉を少しだけ動かして、小さなため息を漏らした。
「もちろん、ゆっくりとどうぞ。どうせ明日の朝くらいまではここから出られそうもない」
外を覗き見れば、赤色灯をともした車が数台、けたたましい警報音を鳴らして去って行く。
モガリとアオイを追っている人間か、あるいは立ち入り禁止地区の見回りをしているのか。それは分からない。
ただ、見つかるのは楽しくなさそうだ。それだけは分かる。
「雇用を解除するにしても続けるにしても、どっちにしてもI地区の外までは君に送ってもらわないとね」
もう一日だけはお付き合いよろしく。と、彼はアオイにそういった。
その日の夕ご飯は、豆のトマトスープ煮込みだった。
モガリは大学構内で見つけてきた豆の缶詰とトマト缶を遠慮なく鍋に落とし、豆の形が崩れるまで煮込んだ。そこに入れたのは、形成肉のソーセージを刻んだものと乾燥ハーブをいくつか。そして塩に形成肉のソーセージ。
ハーブの匂いが強いので形成肉の臭みは気にならないはずだ、というモガリの長いウンチクの通り、その真っ赤な豆のスープは冷えた体を底から温めた。
別の部屋でモガリが眠ってしまえばアオイは一人になる。固い地面に寝転がり、壊れた天井を見る。壁を見る。
ここが孤児院だった数十年前、幾人の子どもがこうして天井を見上げたに違いない。
それは一人二人と減っていき、最後には10名になったのだろう。
彼らは広い宇宙のあちこちに居住地を移した。年をとった。それでもなお、この小さな場所を忘れなかった。
(……それであんな胡散臭いモガリさんなんかに骨を託して……)
妙に目が冴えてしまい、アオイはぼんやりと立ち上がる。
庭先を見ると、土の塊が一つ浮かび上がっている。
中には命などもたないはずのポチが眠っている。このまま錆びて土と一緒になり、やがて建物が崩壊すれば完全に埋没するのだろう。
ポチが沈む土塊は、不思議と寒々しい光景だった。
すでに建物は崩壊した。町だって変わっている。記憶にある風景とは異なっているはずだ。それなのに、骨になっても戻りたいと願った人が居る。それがアオイの神経をささくれのように刺激する。
(あたしはシスターを殺した犯人を見つけたいだけ。ここの連中とは違う。そんななよなよした理由で、あたしは孤児院を探したりなんてしない)
不思議で理解できず、アオイは苛立つように壁を蹴り飛ばす。
この名前のわからない感情を、アオイは持て余す。
眠れないのは感情が大きく動いたせいだろう。爺さんに拾われて以降、アオイは感情を潰す術を身につけたはずだった。
(……向日葵の花)
感情を持て余すように歩き回るうちに、床に置いたままになっている向日葵の花が目に入る。
モガリが語ったとおり、たった半日たらずで花は見事に乾いた。
乾ききった花びらを手に取り、瓶の中にハラハラと落とす。まるで黄色の雪のようだ。
一枚、二枚、三枚。無心に花を集めるうちに、瓶には黄色の花がたっぷり詰まった。
(これだって、ただ思い出しただけで……別に特別な感情なんて、なにも)
割れた天井から降り注ぐのは、こぼれるような星の光と月の光。
その光は白い壁をくっきりと輝かせていた。
子供たちの描いた幼い絵が、光の中で柔らかく浮かび上がっている。
笑顔で手を振る男の子。飛び上がる女の子。どの絵の子供も楽しそうだ。はしゃぐ声が聞こえてきそうなほどに。
壁に指を置き、アオイはその絵をなぞる。カラフルなインクで書かれた文字をなぞる。
ありがとう。の言葉の横に小さく「またね」と書かれているのにアオイは気がついた。
(……また、か)
その文字は、アオイの幼い頃の記憶を刺激する。
またいつか必ず。もう一度ここに戻ろう。アオイもあの孤児院で、引っ越しの荷物の中で、小さな子どもたちと手を取り誓い合った。
シスターが共にあるなら、どこへ越すのも怖くはない。
……ただ恐怖感はないが、寂しさはあった。あの温かい光に包まれた礼拝堂、甘い香りの懺悔室。無機質な孤児院の部屋に、庭いっぱいに揺れる黄色い向日葵の花。
いつか大人になればここに戻ろう。戻りたい。アオイたちは、そう誓った、願った。
それは、この孤児院でも同じこと。
(また、帰ってくる……戻りたい)
また帰って来る。子供たちはそう考えてここを出たのだ。
ここはかつての子供たちの確かなふるさとだ。
『誰だって故郷に帰りたいだろう』
モガリの言葉が蘇る。
「……そうか」
教壇の上にのせられた紫の花びらは、月の光を受けて美しく輝いていた。
まるで喜ぶように輝く花びらを見て、アオイはぽつりと呟く。
アオイは自分の心を刺激する、いやな痛みの原因に今気がついた。
「……うらやましいのか」
それは嫉妬だ。無事に故郷に戻れた10人に対する。
「あたしも……帰りたいのか」
アオイの心の底に眠る感情は、小難しいものではない。
それはただの郷愁だった。