4話・二人の約束
夕暮れになった、そんな音がする。
アオイは昔から、夕暮れに変わる瞬間が分かるのだ。
夕日が傾く時、西の方角から不思議と寂しい音がする。
(……夢中になりすぎた)
ふと我に返って、アオイは額に浮かんだ汗を拭う。
(こんなに人に邪魔されずに仕事できたのは久々だ)
いつもなら、近辺に同業者がいないか。見つかっていないか。そんなピリピリしながらの「廃材漁り」となる。
しかしここは一旦は安心だ。そう思うとすっかり気が抜けて、小さな子供のように夢中になって校舎のあちこちを探ってしまった。
気がつけば窓の外の日差しが天に届き、西に傾いている。その日差しが一つの扉に注いでいた。
(ここにも扉があったのか)
恐る恐る引けば、扉はあっさりと開く。
鍵をかける習慣もないのか、かける価値もないのか。
開けるとそこは広い講義室で、すり鉢型に段々と机と椅子が並んでいる。机にはノート、読めない言語で書かれた本、乾いたペンに、電源もつかないタブレット。
(……ここで勉強したのか)
学び舎というものを、アオイは興味深く見つめる。
こんな時代に何かを学ぶ人間は酔狂だ。しかしその酔狂人は思ったより数多く存在し、今でも居住区では多くの学生がアオイの知らないことを学んでいる。
(勉強か)
アオイは何を書いてあるのか分からない本を、めくる。
勉強は大事だ。と、シスターは口癖のように言っていた。言葉、計算、歴史。いつも彼女を中心に小さな子供たちで輪を作り、そして学んだ。つまり幼い頃のアオイも酔狂の仲間だった。
光の注ぐ庭の一角。ステンドグラスから差し込む光の中央。
シスターはいつも、頬を上気させて一人一人の名を呼んで、一人一人をゆっくりと褒めた。
その思い出はいつも、アオイの奥深くにしまい込まれている。人生の中で最も美しく、鮮やかで、楽しかった日々の思い出。
(ここで学んだ人間も、そうなのか)
ならばここを手放すのは惜しかっただろう。そう思うと、初めて胸の奥が痛む。
(もう何もない)
音もなく、色もなく、気配もない。
……しかしその中に、一つの輝きが見えた。
(花?)
広い講義室の一番奥、壁が崩落しているその場所に、一輪の花があった。
それは巨大な黄色の花だ。太陽に似た、鮮やかな黄金色。
螺旋を描くような種子の周囲に、羽根のような花びらが無数に揺れる。アオイはその花の名前を知らない。
しかし、見たことはある。
呆然とその花を眺めていると、足下に暖かいものが触れた。
きゃん。とアオイの足元でポチが鳴く。ロボットというものは、人の目線を追うのだろう。
アオイが何を欲しているのか分かったように、その鼻先が部屋の隅にあるロッカーを指し示す。ロッカーを覗き込めば、脚立が一つ、転がっている。
「……犬」
散々迷いその言葉で呼びかけると、ポチは不満げに鼻を鳴らす。鼻の上に浮き上がる深いしわまで犬そっくりだった。
「花が、なんで、こんなところに」
アオイは壁に脚立を立てかけて、そっと足をかける。
花は割れた壁の内側で発芽したようだ。壁に這うように芽を伸ばし、葉を広げやがてそこに花を広げたのだろう。
この部屋には夕日の光が届く。その光だけで花が咲いた。
脚立を上がり、花に近づく。その花の色を目の前にすると、アオイはまるで喉が渇くように唇を震わせた。
この花がほしい。唐突に、渇望に似たそんな欲望が顔を出す。
腕を伸ばし、茎に触れると、まるでアオイを待っていたかのように太い茎が折れる。花が地面に落ちる……その直前に、ポチがそれをキャッチした。
「よかった」
と、安堵をしたのも一瞬のこと。
ポチの目が、大きく開き、耳が伏せられる。
「……銃声?」
どこかで、火花が散るようないやな轟音が響き渡った。
「モガリさん!」
アオイは耳がいい。
この仕事を始めてすぐ、鍛えたのは耳だ。どこにいても、音の発生源をたどることができる。
くわえて、アオイは勘がいい。
幼い頃からアオイの勘はよく当たる。
それも、いやな方向で。
「モガリ……」
「ここの大学教授は全員、宇宙に行った!」
叫ぶような声は、廊下の奥から聞こえた。
駆けつければ、見えたのは青いベストの男だ。アオイは大急ぎで廊下の角に身を隠す。
教室で見つけてきた鏡を廊下に向けると、ほこりの積もった地面には、黒いスーツ……モガリが倒れているのが見えた。地面に残る赤い血の跡を見て、アオイの腹奥が冷える。
モガリの前に立っているのは、先程の警察官だ。
激高し、顔が赤い。眉がつり上がり、まともな思考をしていない。
それを見てアオイは舌打ちを押さえた。
(……長くここにいすぎたんだ。すぐに逃げれば)
男は外に連絡を取り、モガリの秘密を暴いたのだろう。見た目通り短気な男だ。自分の怒鳴り声でさらに興奮する、そんな怒り方をする。
「おまえは何者だ、この大学はもうとうに潰れているじゃないか。おまえは……」
警察官が手にしているのは、鈍色に輝く小さな銃。男はそれを震える手で掴んだまま、床に伏すモガリに向けて構えている。
地面には抉れた跡が、一つ。
(……聞こえたのは一発だけ)
その地面の傷を見て、アオイはほっと息を吐いた。地面のあたりに血の色はない。モガリは起き上がろうともがいている。
脅しで打たれた一発を避けようとして転んだだけだろう。
だからアオイはすっと息を吸い込んで、矢のように駆け出す。
「モガリさん、動かないでください」
「おまえ……」
急に飛び出してきたアオイを見て、男の声が裏返る。
「どこから……」
男は短気だが、元々は暴力を振るうような人間ではないのだろう。銃を持つ腰が据わっていない。
駆けてくるアオイを狙うか、それとも廊下に転がるモガリを狙うか……腕が震え、目線が宙を泳ぐ。
(……本当は逃げたいと思っている)
しかし、一発撃ってしまった以上、引くに引けなくなっている。
そんな相手をねじ伏せるのは、簡単だ。
「おま……」
男との距離をアオイは一気に詰めた。蛇行など愚直な真似はしない。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ、男の懐に飛び込む。
驚いて体をそらした男の襟をつかみ、頭を押さえ、その勢いで男の背中にひたりと張り付く。
焦ってもがく男の目を片手で覆い、足先で銃を握る右手を蹴り上げた。小さな武器は、軽い音をたてて廊下の奥へと転がっていく。
銃を失ったことに気づいた男がアオイの足を殴りつけるが、その程度でアオイはびくりとも動かない。
むき出しになった男の右手に、5つばかりの傷跡が見えた。
それは鋭い歯に削られた、男にとっては不名誉の負傷。
「もしかして、お前……」
アオイの指の感触を覚えていたのだろうか。それとも、アオイの手の冷たさで思い出したのだろうか。
「……化け物!」
震える声で男が叫んだ。
罵られ、抵抗されるほどにアオイのどこかが冷えていく。アオイは男の襟を強く引っ張り、首元をあらわにした。茶色く焦げた、熱を持つ皮膚。
口を大きく開き、アオイは心の中でシスターに静かに祈る。
(シスター……あたしは、今から人を)
「アオイ君! やめなさい!」
「……傷つけます」
叫ぶモガリの声と、アオイの祈りの声、そして男の悲鳴が同時に響き渡った。
「アオイ君」
男の悲鳴が消えた頃、モガリがゆっくりと起き上がった。
「モガリ……」
モガリの額は割れて血がにじんでいる。しかし彼はそれに気づかない顔でアオイの頬をなでる。
見たことがないくらい静かな顔だ、静かな声だ。
「噛みつき癖は感心しない」
肩で息をしているアオイを見ることもなく、彼は地面に転がる男の顔を掴んだ。
男の首筋には、くっきりと歯型の傷が残っている。血が溢れ、むっと鉄の香りが広がる。
男は痛みにうめき、その指が地面を掻いていた。しかしモガリは遠慮なく男の頭に地面にたたきつけると、ネクタイを解いて素早く男の足と手をつなげて縛る。
男は、くぐもった悲鳴のあと静かになる。モガリは巨体の男を軽々抱えると、空き教室に放り込んだ。
どこで見つけてきたのか、南京錠で外から鍵をかけたあと、転がっていた無線を革靴のかかとで踏み潰す。そしてアオイを静かな目で見つめる。
その目は、やはりこれまで見たことがないくらい冷たく鋭いものだった。
「殺してはないです。ただ噛んだだけで……」
思わず、アオイは言い訳を口にした。
関係ないじゃないですか。と、いつもならそう切り捨てられたはずだ。
不思議なことに……モガリの向こうに、シスターが見えたのだ。シスターも深い目で、アオイを見る瞬間があった。
「僕は、あの男の怪我を心配してるわけじゃない」
「昔も今も、殺してな……」
「そうだ。君は誰も殺しちゃいない」
そして彼はアオイの口に手を伸ばす。
震えたアオイに構わず、彼はアオイの唇を押し開き、ランタンでその口内を照らした。
「……アオイ君。舌を出して……」
抵抗できなかったのは、なぜか。アオイは素直に口を開け、舌を出す。
モガリはハンカチで、アオイの口と舌と歯を丁寧に拭った。ざらりとした感触が口内に広がる。
「……歯は硬くて、効率がいいんです」
大人しくモガリに従ってしまった。その恥を隠すように、アオイは口を拭う。口を拭ったハンカチの感触が、いつまでたっても離れない。
「あくまでも、武器として、使っているだけで……」
「血は、毒だ」
「飲んでません」
「噛めば口に入る」
あれほどうるさい男のくせに、今は言葉が少ない。薄闇に、彼の目だけが光っている。グレーがかった不思議な目の色だった。
半眼が、アオイを捉える。
「僕の前ではその癖を止めてほしい……約束を」
「……」
「約束すると、言いなさい」
「……約束します」
アオイは思わず、呻くように呟く。視線で動きを封じられたのは初めてだった。
「よし」
彼は静かに、自分の額から流れる血を拭った。まるで、痛みなど一つも感じない顔で。
「まずはご飯にしよう、アオイ君」
と、そういった。
気がつけば、空は闇に包まれている。
大学の屋上は奇跡的に生き残っていた。そもそもこういった公的機関は屋上にヘリポートを持つことが多い。よそより頑丈に作られたその場所は、床にひびが入る程度で屋内よりも安全だ。
アオイはそんな屋上で、膝を抱えて座っている。
「食事をしなかったね」
ふと、背中に声が響いた。膝に頭を押しつけて、アオイはふてくされるように返す。
「……別に空腹じゃなかっただけです」
屋上には料理の香りが漂っていた。今日の夕食は学内で見つけたトマト缶のスープ。
それにレバーペーストをのせたパン。炙った香りがそこら中に残っていて、匂いを嗅ぐだけで腹が鳴る。
どれだけ腹を立てても、どれだけ理不尽なことがあっても、アオイは食事だけは欠かさなかった。
食べられるものがあれば、迷わず必ず口にする。それが生き残るために必要だ。アオイを廃材漁りとして育てた酔っ払いの爺さんは、最初にそれを教えた。
それが今、アオイは初めて食事をボイコットするという愚を犯した。
「せめてこれを、食べなさい」
「モガリ……」
「人に噛みつくよりは美味しいと思うよ」
ふと、鼻先に甘い香りが広がる。顔を上げれば、古びたカップに注がれた黒い液体。甘い湯気が冷えた空気に混じる。匂いに包まれると、否定する声より先に腹が盛大に鳴った。
「食事は腹を満たすが、甘いものは命を満たす。どれが欠けても人生は暗黒だ」
「モガリさん」
「ホットチョコレートだよ。人工甘味料だが悪くはない」
受け取り、口に含むと歯が溶けるほど甘い。とろりと筋を書いて体の奥に吸い込まれるような……これはチョコレートの味わい。
甘すぎるのに、食べるのをやめられない。まるで中毒になったように、アオイはカップを握りしめる。
「チョコレート……」
アオイは思わずつぶやいていた。チョコレートを溶かしたホットチョコレート、幼い頃に一度だけ飲んだことがあった。
何日も眠れなくなった時、星空の見える枯れたバラ園のこと。
皆には秘密だとそう言って、シスターが一口だけのホットチョコレートを作ってくれた。
もう味は忘れたが、枯れた茨の隙間から見える星空の美しさだけは覚えている。
「……あたしのこと、何も聞かないんですか」
「聞かれたいなら聞いてあげるが」
防寒布をアオイの肩にかけながら、モガリは微笑む。
「僕は辛い顔をしてる子を問い詰めるほど非常な人間じゃない」
きゃん。と響く声が聞こえ、アオイは足下を見た。気がつけばポチが頭をアオイの足に押しつけて、小さな尻尾を必死に振っている。
「僕よりポチを褒めてほしい。この手のロボットは人の感情に左右されやすい。君が落ち込んでるせいで、ずっと元気がない」
「……持ってきてくれたんだ」
ポチの口には、黄色の花がくわえられていた。少ししぼみ、花はしおしおになっているが、その黄色の鮮やかさは夜の中でも輝くようだ。
「ありがとう……犬」
「ポチ」
「……ポチ」
モガリに背をたたかれ、アオイは渋々言い直す。ささやくようなその言葉を聞いて、ポチがちぎれんばかりに尻尾を振った。
「これをみつけて……取ろうとしたとき、銃声が」
しおれた茎をつかみ、アオイはそっと匂いを嗅ぐ。その花を見て、モガリが不機嫌そうにうなる。
「全く気候がおかしくて嫌になる。これは本来、夏の花だというのに」
「知ってるんですか?」
「ヒマワリっていう名前。夏の太陽のような花だ」
だから冬の空気には似合わない。とモガリはぷりぷりと怒る。その言葉に、アオイは熱い日差しを思い出した。
「昔、あたしを育ててくれた人にこの花を教えてもらったんです」
アオイは花を空に掲げてみる。真っ黒な空の闇に、いくつもの星が輝いていた。
あの小さな星の中に人が住んでいるのだと、アオイは幼い夏の夜、シスターに学んだ。
そうだ。あの孤児院は、夏になると一日中暑く、夜でも眠れないほどだったのだ。
眠れずに起き出す子供たちを連れて、シスターは夜通し散歩をさせてくれた。
その時、空を見上げて言ったのだ。あそこに人が住んでいると。
太陽にも人はいるのかと問われたシスターは、じゃあいつか皆で太陽に移住しよう。と微笑んだ。
「孤児院で、育ったんです。あたし」
言うつもりなどなかったのに、アオイはつい口にしていた。モガリは何も言わず、ただ、同じように空を見上げている。
「多分無認可の……。シスターはいい人でしたから、趣味だったのかもしれません。そこに、親のいない子供が何人もいて……」
今から思えば、孤児院と看板を出していたくせに、まるで大きな工場のような建物だった。古ぼけて壊れた教会が、建物の横にあった。シスターはいつも教会の懺悔室で暮らしていて、ほかの大人を見ることはない。
それでもそこは、アオイたち孤独な子供たちにとっての天国である。
「その人が、この花のことを、好きだと」
ここは孤児院らしくない。と、あるときシスターは文句を言って、この花を庭先に大量に植えた。彼女が一番大好きな花だという黄色い花だ。
夢中で見上げる子供たちを見て、シスターは笑って言った。太陽みたいな花だろう。
いつか太陽に皆で移住するまで、この花が太陽代わりにしよう。と、彼女は言った。
今なら分かる。太陽に移住はできない。それでもその言葉は小さな子どもたちを元気づけ、生きる目的となった。
「……もしかすると今から向かう孤児院が、そうかもしれない。もし、そうだったら、この花を……」
供えたい。そんなことを思って、アオイは思わずこの花に手を伸ばしていた。しかしそれはくだらない、思い出に縛られた……つまらない考えだ。
「……いや、こんな、柄でもない」
「持っていこう」
花を捨てようとする、その手をモガリがつかんだ。乾いた熱い手だ。彼はそれを大きな袋に入れて、アオイに渡す。
「ガラクタでも役には立つ。花ならなおさらだ」
そしてモガリは立ち上がる。闇を背に立てば、黒のスーツが夜に吸い込まれるようだった。
その宇宙には無数の星が浮かぶ。移住した人々からも地球は見えているだろうか。見えているといい。とアオイは似合わない感傷を抱く。
「今日はここを宿にしよう。少し眠ったらどうかな。ポチのヒートスイッチを入れておこう。電力の無駄使いだけど、今日は特別にね」
アオイに張り付いて離れないポチの首筋に、モガリが手を置く。無機質な音とともに、ポチの体温が少し上がったようだ。
「おやすみ、いい夢を」
表情は闇に飲まれて見えないが、彼はひどく落ち着いた声でそういった。