3話・廃校の廃材漁り
翌朝。雪はやんで季節は春の心地となった。
「多少慣れたとはいえ、やはり気候の変動は体に堪えるねえ」
モガリは欠伸を漏らし、眠そうに目をこする。
年のせいじゃないですか……と口にしかけて、アオイは慌てて口を閉じた。どうにも、この男を前にすると気が緩みそうになる。
軽口なんてもう長らく口にしていないというのに、モガリを見ると余計な一言を口走りそうになってしまう。
「うん、近づいてきた。気がする」
アオイの動揺など気づきもしない顔で、モガリは走る車の窓から顔を出した。
その腕にはポチが静かに丸まっていた。充電中、彼はスリープモードだ。おかげで、二人の間に聞こえるものは風の音、モガリの声。その程度。
「やはり昔の地図からは地形が変わってるな。クライアントからもらった地図は、掲載地域が狭すぎて、近づかないと使い物にならないし……朝ごはんをしっかり食べておいてよかった。これは時間がかかりそうだ」
食事を大事にする。彼が宣言した通り、起き抜けから登場したのは温かい朝食である。
今朝は、乾燥米の粥だった。
乾燥ミルクを溶かこんだ水で、乾燥米を煮込む。まるで形がなくなるくらいまで、とろとろに。
そしてそこに卵を落とす……ただそれだけなのに、アオイの冷え切った胃は温まり、手の先に温度が戻った。
すごい。と、思わず漏らしたアオイに、彼は心底嬉しそうに微笑んだ。
「でもモガリさん。卵をどこで手に入れたんです?」
「この地区のすぐそばの国道を配給車が行くんだ。明け方に抜けて、うまく言いくるめて、いくつか分けて貰った。いわゆる朝飯前ってやつだ」
「……そうですか」
車のハンドルを握りしめたまま、アオイは平然と応えて見せる。が、目の端ではモガリの一挙一動を監視する。
明け方に彼が抜け出したことに、アオイは気づきもしなかった。
眠る二人の間を隔てていたのは、半分割れた壁一枚きり。寝返りの音だって聞こえるはずだ。
くわえてアオイの睡眠は浅い。深く眠れたことなどここ数年、一度もない。
それでも、モガリが消えたことに気づけなかった。
モガリはアオイの視線に気づいているのか、いないのか。平然と窓の外に腕を出して斜め前を指さした。
「みてごらん。あそこにある巨大な木を。思うにあそこは神社だね。御神体がまだ残ってる。見事なイチョウだ」
「ゴシンタイ?」
「神様だよ。あの横にあるのが大学かな」
モガリは首をかしげながら、ボロボロの地図を覗き込む。
彼が広げた古い広域地図には、神社のマークが見えた。しかし本来の大学はここから数キロ先となっている。
「……うん。昔はもっと離れた場所にあったのに、神社の横に移動したんだね。これは困った。街全体が大きく変わってる」
彼は指で大学と神社をなぞって見せた。
アオイはアクセルを踏み込み、大きくカーブする。車がきしんで斜めになったが、モガリはやはりぴくりともしない。
「なぜ、大学がここに移動を?」
「最後はみんな神頼みに頼るんだ。主要な地区でも公的機関の建物はだいたい神社か寺の横に移動してる」
「神社、寺」
「あとは教会。この国のクリスチャンは他国に比べると少ないが、建物を見ているだけで敬虔な気持ちになるだろう。みんなここ何年かで主要な建物を建て直したり、神社など近くに残ってる建物に拠点を移してる。ここの大学も、そのはやりに則って移転したんだろうね」
モガリはため息をついて、地図を丸めて後部座席に投げ捨てる。
「結局わかったのは、この広域地図が役に立たないってことだ。ただ良いことも分かった」
「良いこと?」
「つまり、この大学は神頼みでここに来た。つまり地区が立入禁止になる直前、つい最近まで稼働していたってことだ。比較的新しい」
モガリが指示をするまま、アオイは神社の横を通り抜け鉄骨がむき出しの建物の前に車を停める。
確かにそこには、古ぼけた文字で大学の名前が刻まれていた。すっかり錆びてしまい、なんと書いてあるのかは分からないが。
立派な門に、建物だ。すっかりツタに包まれ、見える範囲すべての窓は割れ、電灯はケーブルから外れて宙に浮かぶ。
「入ってみよう。新しめの地図が見つかるかもしれない。ついでに、何かいいものも……」
入り口を完全に塞ぐように広がった植物を見つめて、モガリは肩をすくめる。
「……残っていれば、だけど」
人の気配のない建物から、風の抜ける音だけが響いている。
「すばらしい」
廃墟となった建物に、モガリの拍手が反響した。
「期待以上だ。これは良いものがありそうじゃないか」
大学の中は、まるで一晩にして人がいなくなった……そんな様相である。
机の上には黒いものが固まったカップ、蓋の空いたクッキー缶。ペンやノートも散乱し、ロッカーは開いている。
壁は剥がれ電灯は落下して割れている。割れた窓の隙間からは雑草が伸びて壁にはびこる始末。
さらに地面には赤錆た水がジクジクと未だに流れている。
「数年前に大規模な山崩れがあったとき、緊急避難になったと聞きました」
アオイはつい癖でロッカーの中を覗き込み、息を吐く。
ロッカーの中は半分が空っぽ。残りの半分は、ゴミか汚れた衣類などが詰まるばかりである。
「急な山崩れだったようで、大急ぎで逃げ出したんでしょう。それからすぐ立入禁止になったとか……ただ、将来的にはどちらにせよ立入禁止地区になる予定だったみたいですね」
アオイは壁を叩いてモガリを見上げる。壁のあちこちに、持ち出しリストや退去のスケジュールが張り出されているのだ。
「だから大切なものは先に持ち出してあって、残ってるのは不用品ばっかり……もちろん、逃げる時にも持って逃げてるはずなので、ここにはガラクタしかありません。さらにそのガラクタの中で価値のあるものは、すでに先客に盗られてるでしょうね」
それでも何かあるのではないかと探ってしまうのは廃材漁りの悲しい癖だ。
(……まあ、ないか)
ロッカーの周辺には埃が散らばっている。廃材漁りに徹底されて漁られたあとだ。ロッカーの下、床板まで丁寧に剥がされ、隅から隅まで調べ尽くされている。
廃材漁りが通った後の建物は悲惨だ。だいたい何もかもが漁られ尽くされ、ゴミしか残らない。
「人間だけがふっと消えてしまったようだね。こらこらポチ、ペンをくわえて遊ぶんじゃない……おや」
モガリといえば平然と机の上のものを手に取り、眺め、ペンのインクが出るかどうかを試している。
「地図だ。比較的新しいね。これはいただこう。それに引き出しにあるノートはよく乾いてるから燃料にいい」
「モガリさん、まるで廃材漁りのような、真似を」
「廃材漁りは商売だろう。これは商売じゃない。僕が使うんだから」
アオイがあきれて言えば、モガリは不満そうに口をとがらせる。
そして彼は平然とノート、インクの出ないペン、何の役に立つのかわからない書類。それらを大きな鞄に放り込み、肩をすくめた。
「それに、道具が僕に使ってくれとささやいてくるんだ」
モガリは何でもかんでも詰め込みすぎだ。独り立ちしたての廃材漁りのように、両手いっぱいにガラクタを詰め込みすぎる。
彼が歩くたびに転がり落ちていく鉛筆だのマグネットだのを見て、アオイはため息をついた。
「モガリさん、ちゃんと選別しないと、ガラクタを持っていっても役に立ちませんよ。それに、ほら、こぼしてます」
仕方なく手を貸そうと、アオイはモガリに腕を伸ばす。
……その指の先に、冷たい風が吹き抜けた。
「おい」
ぎ、と低い音が聞こえた。と思った瞬間、アオイは無意識のうちに壁に背を押し当てていた。
「この地区は立入禁止のはずだ」
急に開いたのは、アオイのすぐそばにある重い鉄製の扉……外の廊下に抜けるための非常口。その向こうに、男がいる。その姿を見て、アオイは舌打ちをした。
男の恰好といえば、黒のジャケット。青いベスト。
(……警察だ)
まるで岩石のようにいかつい顔の男が、そこに立っている。
背は高い。きっと強靭なブーツを履いているせいだ。
肩幅が広いのは、防刃スーツを下に着込んでいるのだろう。動くたびに乾いた音が響く理由は、腰に何かしらの護身用具を仕込んでいるためだ。
とっさに飛びかかろうとしたアオイを、モガリの細い体が遮る。彼の手はアオイの肩を軽く叩いたあと、踊るように警察官の前に滑り出す。
男が身構えるが、それより早くモガリは一枚の四角い紙を取り出して見せた。
「ああ。失礼、私はこういうものだ」
「地質学……森本……教授?」
その小さな紙に何が書かれているのかアオイには見えない。ただ、黄ばんだそれには、この大学と同じマークが書かれていた。
「名ばかりの役職だがね。衛生局の依頼を受けて、地区調査をしている。今日は過去の論文を取りに来たんだ。まったく、人手不足も甚だしいと思わないかい」
モガリはアオイに、器用にウインクをした……余計な口出しをしないようにと。
だからアオイは一歩下がり、口を閉じた。
(微塵も信用できないけど……口だけはやけに立つ)
モガリはアオイの考えを読んだように、口をとがらせ男を見る。
「……勉強になるかとゼミ生も連れてきたが、これがまた遊んでばかりで役に立たない」
「論文を? ここにはもう何のデータもないはずだが……」
「素晴らしい。その通りだ」
疑わしい目を向けてくる警察官に向かって、モガリは胡散臭い笑顔を浮かべた。
「ただね、データは永遠ではない。どんなものより強い素材は、紙だよ……ああ、あった」
モガリはガラクタを詰め込んでいた袋を漁ると、紙の束を取り出す。それを堂々と男の目の前に見せつけた。
「もう見つけたんだ。これだ」
そしてモガリは覗き込もうとする男の視界を、別の紙で塞いだ。
「残念ながら、内容は見せられない……ただ、許可は得ている」
どこで見つけてきたのか、その紙には許可証。と刻まれている。男が詳しく目を通す前に、モガリはそれを懐にしまい直した。
「納得してもらえると嬉しいのだが」
「失礼しました。しかし……」
「ところで、君は?」
モガリのペースに飲み込まれたように、男の目が白黒とする。
気がつけば、あっという間に形成が逆転していた。男はもうアオイの顔を見ることもなく、ただ戸惑っている。誰かに連絡を取るべきかどうか、手が無線に伸びかけては止まる。
しかしモガリは男に迷う暇さえ与えない。
「そもそもおかしいな。君は本当に警察官なのかな。誰もいないこんな場所に、なぜ警察官がうろついているのか。最近は制服さえ配給チケット一枚で手に入るらしいじゃないか。立ち入り禁止地区であっても、土地の権利は守られているはずだ。じゃあ君は不法侵入者ということになるが」
モガリが一歩出る。
男が下がる。
数歩繰り返すうちに、男の体は壁に押しつけられる。
「腰にあるのは銃のようだが、そもそも携帯許可は得ているのかな。いや失礼、学問は疑うことから始めるのが鉄則のせいか、私は少々疑い深くてね」
「お、俺は本物の……」
「本当かなあ」
モガリが顎に手を置き、ゆっくりと首を傾げる。
「……疑わしいなあ」
男がベルトの無線に手を伸ばすが、モガリの視線におびえるように動きが止まった。
まるで肉食獣に見つめられる、草食動物。
「もし君が本物なら、何かを探しにここへ来たんだろう。なにか手伝えないかな。私はこれでも人助けが趣味で、過去には子供を助けたこともあるんだ」
「……女の子を探しているんです」
やがて、うめくように男は言葉を漏らした。
「目付きの悪い……15歳だが、見た目はもう少し幼く見える。ツリ目で、痩せぎすです……そいつの持ち物と思われる車が、この付近に向かったと通報が……それで今朝から手分けして探しています」
アオイは苦みを飲み込むように、奥歯を噛みしめる。昨日の連中だ。
普段なら行く方向をごまかして走る。今朝はモガリに気をとられ、まきが甘かった。
モガリは表情一つ変えず、大げさな風に手を叩く。
「まるだ大犯罪者なみの追跡だね。興味深い、話を聞かせてくれないか」
「……そいつは」
男は言いにくそうに顔をそらす。が、モガリは目線を外さない。
「そいつは?」
「……吸血鬼と呼ばれてます」
「ロマンチックだね。警察の言う二つ名というやつか」
「いえ、本当に血をすするんですよ。首に噛みついて……まあ噛みつくほうで死人は出ていませんが……ただ本物の殺人も犯している」
アオイの脳裏に、赤色が浮かんだ。
あれは血の色だ。床に広がった、まるでワインをこぼしたような、赤。
人の体には赤い血が流れているのだ。アオイはあの時初めて知った。ぶるりと震えた体をアオイは押さえる。飛びかかりそうになるアオイの体を押さえたのは、モガリだ。
「へえ、殺人なんて最近じゃ話題にもならないと思ったが」
「野良猫みたいなもので、何にでも牙をむく。歯がひどく強い娘で……ほら、俺も噛まれたが、噛み跡がいまだに」
男が腕をめくり上げる。焦げたような皮膚の上に、くっきりと赤い跡が残っていた。それは5つか6つ並んだ、鋭い……歯の跡。それを見た瞬間、アオイの中に苦い味が蘇る。
その味は、思い出の中に沈み込んだ血の味と悔しさの味だ。男の顔はもう覚えてもいないが、殴られた痛みは未だに覚えている。
「痛そうだ」
「ここ数年、警察が探してますが、まだ捕まらない。猿みたいにすばしっこいやつです。警察だけじゃなく、あちこちに恨みを買ってるとみえ、よくない連中にも追われてます。だからもう殺されてるかもしれませんが……まあ、殺されるタマじゃない」
「追うものと追われるものは奇妙な連帯感を抱きやすいと言うが、その類いかな。尊敬に値する娘だと?」
「まさか!」
警察官は憎々しそうに、自分の腕の傷を見た。
「殺されるものか。あれは化け物です。普通のやり方じゃ殺せない」
「人間に向ける言葉としては、不適切だね」
モガリが不意に静かな声を漏らした。そして微笑み、彼の傷跡を指でなぞる。
「これは健康な歯だ。素晴らしい。この歯は貴重だ。大事にしてもらわないとね」
「……歯が?」
「失礼。私の専門はもともと地質科学ではなく、歯科学でね。どうにも今の時代は兼任兼任で嫌になる。ねえ、君も苦労してるようだ」
「え」
「ジャケットに福祉課のマークの跡が」
モガリの指が、とん。と彼のジャケットを叩く。それだけで男は動揺するように目を白黒とさせた。
ジャケットの胸あたり。警察のロゴの下にうっすらと別のマークが見える。
「先日、警察の数を増やすために無茶な統合計画があったと聞く。君も苦労をしてるね。福祉課から警察に移動したてじゃルールを知らないのも当然だ」
「ルール……?」
「大学の敷地は管轄が違うんだよ。先ほども言ったとおり、立入禁止地区でも大学だけは別でね。警察が中に入る場合は書類を提出の上、腕章が必要だ。前にそれを知らずに入ってきた若者は始末書を書かされると、私に泣きついてきた」
モガリの声が、低くなる。まるで男にだけに秘密を明かすように、静かに。外を過ぎる風より小さな声で、彼は男の耳に囁いた。
「私は上にちょっと顔が聞くから……でもまあ……そうだね。ニ度三度続くと、さすがに私の顔も擦り切れてしまう……」
「ああ、あの、その……先生」
男の声が裏返る。まるでおびえるように周囲を見渡す。かたん、と響く風の音に、大げさに目を見開くと、耐えられないようにモガリに何かを差し出した。
「先生、これで一つ、ご勘弁ください」
彼は自身の内ポケットを漁り、長方形の板のようなものを取り出した。
それを無理矢理モガリに手渡すと、
「勝手に入ったことはいわんでくださいよ」
……顔を真っ赤にして背を向ける。
現れたときと同じくらい唐突に、彼は恐ろしいスピードで通用門へと吸い込まれて消えた。
「モガリさん」
「嘘も方便という、都合のいい言葉が昔からこの国にはある」
「……モガリさん」
「紙は丈夫だ。こんな廃墟でも山のように名刺が残ってる。不便だと文句を言われながら、結局残るのは紙だ。人間は、紙と縁を切ることができなかったね」
モガリはアオイの声に気づかない顔をして、先ほど男に見せた名刺を机においた。
聞いたこともない男のフルネームが書かれている。名前の横に載る顔写真は、モガリと似ても似つかない。真四角顔の初老男だ。
モガリが放り出した「論文」は、ただのコピー紙のエラー用紙。「許可証」は休日出勤の許可を願う学生の許可証だ。いずれも黄色く汚れて、新品からはほど遠い。
「紙切れひとつで、何者にだってなれる。いいね権威というものは」
「モガリさん、あたしの話を聞いてください」
アオイの中に男の言葉がリフレインする。
化け物。
吸血鬼。
狂人。
殺人鬼。
アオイに投げかけられた言葉は多い。大体においてろくでもない。そんな噂を聞いて、数少ない知り合いはアオイの元を立ち去った。
その時アオイは思ったのだ。
(立ち去られるくらいなら、こっちから切り捨てるほうが、ずいぶん楽だ)
ポチがアオイを案ずるように、足元で尻尾を振る。
ロボット犬はアオイの噂を聞いても態度は変えない。
……しかし、人間はどうだ。
「モガリさん、あたしを疑うなら、ここで解雇でも」
意を決するようにつぶやいたアオイの言葉に、モガリはふっと微笑む。
そして彼はそれには答えず、男が押しつけてきた長方形の板を見つめた。薄い銀紙にくるまれた、細長いもの。
モガリはそれを恭しく掲げ、銀紙の端を小さく破いた。
隙間から見えたのは、黒の塊。
「みてごらん。チョコレートだよ。嬉しいね、これは貴重だ。だいたい、サトウキビがもう少ない。南の島にちょっと残っているようだから味わいにいきたいんだけどね」
チョコレートの匂いを嗅いで、彼は肩をすくめた。
「む。これは人工甘味料かな。まあ、仕方がないか」
「モガリさ……」
「先に言っておくが、君との雇用契約は続行中だ。さあ、アオイ君、働いてもらおうか」
偽チョコレートを机に置くと、彼はアオイに向かって手をたたく。
「ほら、持って行けるもの、いいものを探してくれ」
モガリは引き出しを一つ一つこじ開ける。中のものを放り出す。ポチがくわえて走って行くのを、息を切らせて追いかけて取り返す。
ポチが奪ったのがちびた鉛筆だったものだから、彼は深いため息とともにそれを投げ捨てる。
「ほらっ。君の得意分野だろう。僕はこういうのは苦手なんだから」
そんなモガリを見て、アオイは思わず苦笑していた。
「……いいものなんてないですよ。せいぜいガラクタです」
「人生とは不思議なものだよ。人が見向きもしないガラクタこそ、持って行くと役に立つ」
「持っていくものなんて……」
なにもないですよ。と言いかけたアオイだが、ポチの甲高い鳴き声にふと廊下の奥を見る。
ポチが廊下の隅にある薄汚れた鏡をやけに気にしていた。
横も縦も巨大なもので、今は薄汚れ床に面した箇所は錆び、挙げ句斜めにヒビまで入っている始末。
覗きこめば、そこにはやせっぽっちの自分の姿が映っていた。
(……こんな、人相悪かったのか)
久しぶりに自分の顔を見た、とアオイは思う。
体は痩せていく一方で、柔らかさは消え失せている。むき出しの左腕には、消えないナイフの傷跡が生々しく残り、ミミズ腫れのような凸凹が肘から甲の上まで続いていた。
長い前髪の奥に見える、ぎらぎらとした鋭い目つきだけが、薄闇の中で輝いている。
「いや、この鏡……」
顔を背けようとしたアオイだがふと、気になって足を止める。
ひりりと背筋に走った電流は、廃材漁りの直感のようなもの。
(……なんで西の窓に面して置かれている?)
鏡の前、廊下を挟んで向かいは西の窓だ。目の前には神社のゴシンタイの木が見えるだけで、建物はない。夕日が窓から差し込めば、鏡は用を成さない。
そっと鏡を引っ張れば、それはゆっくりと動いた。
(……こんなところに隠し扉があるのか)
鏡の裏には、一枚の引き戸……この鏡は、引き戸を隠すために意図的にここに置かれていたのである。
「モガリさん、缶詰、鍋と、方位計が。あとは防寒布の新品のものが、いくつか」
「よくやった!」
埃の積もった部屋の中から見つけた戦利品を廊下に並べると、モガリが大仰に手をたたく。
小部屋は意図的に隠されていた。後で取りに来るつもりだったのか、まだ期限内の缶詰、コーヒーに、鉄製の鍋に真新しい方位計。
今ではなかなか手に入らない防寒布と防風ポンチョまで、きちんと箱に詰められ整理されていたのである。
「さすが僕が見込んだだけのことはある。偉い!」
モガリの大きな手がアオイの頭を撫でた。まるで小さな子供にするように。
不意にアオイの胸の奥に熱が灯る。それは懐かしい熱さだ。驚いてその手を振り払い、アオイは数歩退いた。
「いや、これはポ……」
ポチ、と呼びかけてアオイは戸惑う。目の前にいるこの生き物は、ただしく言うと生命ではない。
中を切り裂いても血も肉もない。出てくるのは回路とそれを包む疑似皮膚だけだ。名前を呼ぶのを躊躇っても、ポチは一向に気にすることなく、アオイの足に頭を押し付ける。手柄はどうだ、と喜ぶように、アオイの足に頭を押し付けた。
「この……ロボット犬が」
「ポチもお手柄だ。二人のお手柄だよ。さあ、この調子でどんどんと探していこう」
まるで好奇心の塊になったように、モガリが大きく腕を振り上げて廊下を駆けていく。
その姿を見て、アオイは久しぶりに笑みをこぼしていた。