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2話・廃墟で茹で肉サンドイッチを

 壊れたアスファルトの上を、軽ワゴンが軽快に滑っていた。

 地面が悪いせいで、車はガタゴトと激しく揺れる。クッションだってとっくにすり減っているので、鉄板の硬い部分があちこちを殴打する。

 それでも誰も走っていない道を駆け抜けていく風の音は心地よく、アオイは目を細めた。

「すっかりこのあたりも、衰退しちゃったねえ」

 モガリは真っ暗な外を見つめ、ため息をつく。

 そのうち音を上げるだろうと、わざとスピードを出しているにもかかわらず、彼は憎らしいほど微動だにしない。

 今もまた、激しく揺れる座席に深く沈み、彼の目はぼんやりと宙を見つめている。

 ハンドルを握ったまま、アオイはモガリを横目で見た。彼は車が走り始めると同時にしばらく熟睡し、目覚めたばかりだ。まだ寝足りないのか、呑気にあくびなど漏らしている。

(……信じられない)

 アオイはモガリの横顔を見つめ真意を探ろうとするが、見えるのは寝乱れた髪と細い顎ばかり。本当にただのバカなのか、それともバカを演じているのか……彼の顔からは真意が見抜けない。

「風が気持ちいいけど、どうにも砂混じりなのが難点だ。昔はもう少しアスファルトが残ってたからここまで砂がひどくなかったんだけど、アスファルトがここまで剥がれてるなんてね」

「モガリさん、このあたりをご存知なんですか?」

 ポチを自分の顔の前に置いて防塵代わりにしているモガリに探りを入れると、彼は肩をすくめた。

「昔ね。仕事であちこち旅をしていたんだ。20年くらい前は結構人が住んでたんだけど」

「このあたり、数年前に岩盤崩れがあって一面立入禁止になったらしいですよ」

「なるほど。それで……居住区の特AとB地区は家もしっかり残ってるし、土砂崩れがあれば翌日には工事が入る。まあ今、人が住んでるのはそこしかないわけだけど……やっぱり定期的にメンテナンスをしないとだめなんだ、地面も家も」

 寂しそうに廃墟を眺め、モガリが目を薄くする。


 二人が出会ったJ地区より、何度も道を曲がって2時間と少し。

 潮の香りが遠く離れたあと、代わりに土の香りが広がりはじめた。

 そこはI地区と呼ばれる山に囲まれた地区の入り口だ。

 地面には折れた木が横たわり、岩石が落ちた跡もある。しかしそれ以外は何もなく、もう壊れた家さえ見えない。

 モガリは寂しがるが、アオイなら……廃材漁りを生業にする人間なら、この風景はお宝の山である。実際、山道を併走して駆けていく車を数台見かけた。

 廃材漁りに仲間意識というものはない。互いの仕事の邪魔はしない、それだけがルールだ。

 だからアオイは車を見かけるたびに速度を落として距離を取る。そうするせいで、夜はとっぷりと更けてしまった。


 モガリはアオイの気遣いにも気づかない顔で、空に広がる星の数を数えては、音程外れの歌を口ずさむ。

 はるか昔から受け継がれる化石のような歌……『奇跡の歌』を。

「困ったなあ。夜はどうせ移動なんてできないし、どこかで宿を借りようと思ったのに。ここまで荒廃してるなんて、思わなかった」

「岩盤崩れあたりは整理されて家も撤去されてると思いますけど。ただこの手の町は、中心に住宅街があるでしょう。そこには多分、まだ少し廃墟があるはずですよ。休むなら、そこで」

「そうだね。季節はもう12月だ。気温が色々変わるから季節感を感じにくいけど、明け方には冷え込むこともあるから屋根があるところが有り難いね」

 アオイの耳元を鋭い風が行き過ぎる。

 季節としては今は真冬のはずだ……12月。一年のおしまい。もう何千年も昔、神様の子供が生まれた日。その日が、まもなくやってくる。

 もちろんそれを祝う風習は町の一部に限られる。アオイも幼い頃にしか祝った記憶がない。

 ただその日は甘くて美味しいものを、腹いっぱい食べられた。

 シスターが子どもたちに配る、濃厚で真っ白いケーキ。その甘い記憶だけがどろりとした過去の中に輝いて残っている。

「……大昔。アオイ君も僕も生まれるよりずーっと昔。人類最初の宇宙移住が叶った頃。確か200年くらい昔……だったかな」

 押し黙ったアオイに気遣うこともなく、モガリがふと口を開いた。

 それは教科書で数百回も習った、近代史。

「知ってるかい。最初に偉大な宇宙飛行士がある物質を持ち帰ったこと」

「今の時代を生きる人間に、それを知らない人を探すほうが難しいですよ。クリタプロジェクトでしたっけ」

 はるか昔の話。一人の宇宙飛行士が宇宙でとある物質を発見した。それがどんなものなのか、アオイは知らない。

 ただ、それが人類史上、大きな転機となったという。

 つまり、人類の宇宙移住計画だ。

 人々は、まずは近くの惑星へ。成功すれば、隣の惑星へ。

 宇宙移住のプロジェクトはその物質が見つかるより先に始まっていたが、物質のお陰で世界は一気に常識を変えた。

「最初に金持ちが移住して、中流の人たちも貧乏人もどんどん移住して。ああ、確か50年くらい前には割りと大きな事故があったね。なにかのプロモーションで打ち上げた宇宙船が大爆破した事故だ」

 モガリは悲しそうに眉を寄せて、祈りのような言葉を口にする。

 それも歴史書に刻まれた遠い史実。

 このように、当時は事故が多かったと聞く。また宇宙アレルギーによって移住ができない人も存在した。 

 それをネタにした詐欺や事故や罵りや。あらゆるこの世の混沌が起きて、静まって、また起きた。

 歴史は繰り返されすぎて、もう教科書にも書ききれない。

「……多くの事故にもめげずに、人は宇宙に行ってしまった」

 モガリは割れた車の天井から、夜空を見上げる。

 ポツポツと広がる星のどこかに、人間が暮らしているのだ……今では常識だ。しかし、その遠い光の粒に人間が住んでいるなど、到底信じられなかった。

 アオイはハンドルを握ったまま、鼻を鳴らす。

「宇宙に行く人は、バカですよ」

「そういう考えが、争いを生むんだ。言葉は選ぼう、宇宙を目指すなんてとんだ冒険家ですね。とかね」 

 宇宙移住の問題は、今でも収まってはいない。差別と論争は深いところで続いている。

 宇宙へ行く人間。行った人間。

 地球に残る人間、残らざるを得なかった人間。

 地球に残る人間は様々な気持ちを飲み込んで、残り続ける。

 宇宙に行った人間はもう戻ってこない。

 地球と宇宙の別れの悲しみやお涙頂戴は散々語り尽くされ古典になって、今はもう語る人もいない。

 そうして地球に残った人間は、政府の一部機関と共に生きている。

 食事は配給制となった。配給チケットを使えば最低限の食料と水、衣料品は手に入る。

 公共事業は騙し騙しだ。それでも、電気は繋がり、特A地区ではスイッチひとつで湯も火も使える。

 地球はもっと荒廃すると誰もが思っただろう。しかし、人間は与えられた土壌でうまくやっていけるものらしい。

 ただ、人が減った地球からは四季がなくなり、季節が毎日変わるようになった。とんでもない大雨やとんでもない雪がふる。花は季節を選ばず咲くようになった。

 公共工事をする人間も減ったので、あちこちの地区で建物は崩れ廃墟になり、地面はこわれた。

 それでも、人間はまあまあなんとか、生きている。

 冒険家、という称号は、宇宙に行った人間より地球に残る人間のほうがふさわしい。

「モガリさんは、冒険家にはならなかったんですか?」

 嫌味っぽく問えば、モガリは平然と肩をすくめた。

「宇宙の食事が口に合わなくて、やめたんだ。地球の配給食のほうが、舌に馴染む……それと、地球の行く末が気になった」

「……行く末?」

 闇の中にぽつぽつと、小さな家の影が見え始める。人が手放した住宅街だ。生き物の気配はない。

「どこまで壊れるのか。興味があったんだ。でも案外、地球も人間もうまくやってる」

 モガリは言葉に反して寂しそうに目を細め、流れていく風景を見つめる。

「山に侵食されないように、大地に塩を染み込ませた地域があると聞いたけど、ここのことだね」

 塩が広がったせいで、大地はひび割れ廃墟は錆びた。

 しかし、その荒涼たる大地の中にも雑草は育つ。木々は根を張り、山からじわじわと緑が押し寄せてくる。その草や集まる虫を狙って獣も山から降りてくる。

 錆臭い香りに鼻を鳴らしてモガリはつぶやく。

「どうにも生きているものは、頑丈だ」

 I地区立入禁止。赤錆びた看板を横目に見て、アオイは右折した。

 昔は観光地だったのだろうか。錆びた温泉のマークや、大きな駐車場跡が目立つ。

 巨大な建物はホテルの崩れた跡だろう。山の崩れに飲み込まれ、地面を這うような川も砂と土で埋まってしまっている。

「ここを人が行き交っていたんだ。想像もできないけどね」

 モガリは闇を見つめつつポチを撫でる。太陽光をエネルギーとしているというポチは、ややぎこちなく尻尾を動かした。

「ここまで暗いと、木を避けて走るのも困難です。この車は太陽光でも動きますけど、メインはガソリンだ。それも貴重なので、あんまり無駄にしたくないですし……とりあえず、安全な場所の家を仮宿に……」

 夜はもう深い。空はますます黒くなり、目の前の道も不明瞭。このままでは、他の廃材漁りと出会う危険もある。

 諦めて、アオイは車を停めた。車の後ろに放り込んでおいたランタンのネジをひねると、ぱっとあたりが明るくなる。

 仕組みはポチと同じ、太陽光の蓄電式。1日車に積んで走るだけで一晩くらいなら余裕で持つ。

「屋根と扉の残ってる家を探しましょう。車の後ろに防寒布を積んでるのでそれを布団にして」

「ああ、そうだ。僕にはやるべきことがあったんだ」

 ……さっさと寝てしまいましょう。と、言いかけたアオイの言葉をモガリが邪魔する。

「……何」

「まあ、待っていなさい」

 生真面目な顔で、彼は抱えていた荷物を漁る。中から出てきたのはいくつかの袋と固形燃料だ。それを手に、彼は真剣にアオイを見つめた。

「そしてアオイ君にお願いをしたいことがあるのだけど」

 その目は、これまで見たことがないほど、真面目だ。にこりとも笑わない。アオイは嫌な予感に眉を寄せる。

 流されるようにここまで来てしまったが、アオイはこの男のことを何も知らないのだ。

 細身で腕もひょろひょろだ。真っ当に立ち向かえばアオイが勝てる。そんな余裕もあった……しかし奇妙な武器を使われたら?

「僕のお願いを聞いてもらえるだろうか」

「……配給チケットは貰いすぎても使用期限切れるし、そんなに必要ないです」

「ああ。今から思うと、旧時代の金銭は非常に効率的だったんだね。お願いをするのに、あれほど都合の良いものはなかった。今はだめだ。配給チケットなんて、微妙に短い期限設定で価値が薄い」

 モガリは頭を抱えたが、やがて満面の笑みで腕を広げる。

「そうだ。お願いではなくお誘いをしよう」

「誘いって」

「見てのお楽しみだ」

 彼は軽やかに車から飛び出すとあたりを探った。

「ほら、アオイ君。光をこっち側……そうそう、そんな風に照らして」

 渋々ランタンを向ければ、彼は平らな地面を見つけ出して軽く掘る。ポチが心得たように、周囲を駆け回りあっという間に小さな木の棒をかき集めて地面に落とした。

「よしよし、賢いな。君がいると助かるよ。もちろんアオイ君も。すばらしいチームワークだね」

 モガリは掘った穴の周囲を囲むように石を積む。石の中央には固形燃料を一つ……そして、マッチを器用に地面にこすりつけた。

 古い、ボロボロのマッチだ。アオイが目を見張っている間に、それは綺麗に炎となる。

「マッチ……ですか。始めて見ました」

「捻って火を出す着火剤は、壊れることが多いから僕は信用してない」

 彼はまず乾いた紙に炎を移した。

 そしてポチの運んだ薄い木を選び、火を移す、息を吹きかける。

 揺れる炎を、彼は石積みの間に落とした。固形燃料が炎を吸い込み、一瞬でモガリの手元が明るく燃え上がる。

「雨が降っていなくてよかった。ポチ、よくやった。見事に乾いた木ばかりだ。いくつかは燃やさずに車に積んでいこう。燃料は大事にしたい」

 ……やがて乾いた木がぱちぱちと音を立てはじめた。

 そして彼は石積みの上、使い古した鉄の板を置く。

「一体、何を」

「何って……食事だよ」

 鉄の板は炎にあぶられて段々と熱を持つ。周囲に温かい空気が立ち込める。

「アオイ君は食事をしないのかね?」

 冷え切っていたアオイの鼻先が段々と暖かくなっていく。手の先も、足の先も、こんな小さな火だというのに、ゆっくりと熱が広がっていく。温かい。それだけで、疲れが一気に癒える気がした。

「アオイ君。食は生き物の基本だ。美食を好むのは人間の傲慢だが、人間だけの楽しみだ……おっとポチの食事じゃない。君は明日、背中のパネルに太陽を注いであげるからね」

 まるで炎につられる虫のように、アオイは火の前に腰を下ろしていた。

「さあアオイ君には、僕が美味しいものをご馳走してあげよう」

 そしてモガリは、もったいぶるような顔でカバンから大きなパンと乾燥肉を取り出したのである。



「こうして食べると、味気ないパンも旨味がでるだろう。肉もただの乾燥肉なんだけど」

 モガリが自慢そうに胸を張る。目の前にあるのは、鉄板の上でパリパリに焼かれた白いパン。その間に挟まれたのは、分厚い肉だ。

 これは麦芽が含まれた栄養パンである。ただ、配給で配られるこのパンは、栄養はあるものの味は二の次。

 普通に食べればぱさぱさとして舌に引っかかる……が、モガリが出したこのパンは、まるでその味から程遠い。

 炎の上に置いた鉄板にたっぷりの油脂を垂らし、両面をしっかり焼いたのだ。

 たったそれだけで、ぱさつきが消えた。くわえて、彼は小さな鍋で配給の乾燥肉を茹でてみせる。

「乾燥肉も茹でればこのとおりだ。僕としては硬いまま食べるなんて信じられないね。茹でるだけでこんなに美味しくなるのに」

 湯通しされたそれは、柔らかく厚い肉に変貌した。筋はあるがとろりとした舌触り。

 それをパンに挟んで、彼はアオイに差し出したのだ。間には香草だという、乾いた葉も一枚間に挟まっている。

 不審がって戸惑うアオイを、モガリは真剣な顔で叱りつけた。

「できたてを! 食べる! ほら、早く!」

 何で味をつけたものか、不思議と鼻に抜ける味がする。一口目は恐る恐る噛みつく……と、あまりの美味しさに喉が鳴った。

 二口目は大きな一口。あっという間に口の中に味わいが広がった。

 香ばしい脂がじわりと染み込んだ、カリカリのパンだとか、肉のとろける口当たりだとか、そんなものがアオイの体に溶けていく。 

 唇から漏れた脂さえ逃さないように、アオイは唇を舐める。

 思えば、もう数週間も温かいものを食べていない。

「美味しい?」

「……もう一つください」

 悔しいが、アオイが言えるのはそれだけだ。それを聞いてモガリがにっと笑う。

「乾燥肉を茹でるのにはもう一つ利点がある。臭み消しだよ。お湯には少しだけ香草を入れてね。それはスープにもなるから二品できるだろう? スープには胡椒もたっぷりだよ。そもそも胡椒というものははるか昔は金の価値があった。それで戦争も起きたことがあるんだ。でもその理由がよく分かるね。この味は」

「説明がなければもっと美味しいですね」

 だらだらと語り始めたモガリを見て、アオイはげっそりとした顔で言う。

 どうもこの男、食べ物が絡むと面倒である。

「食事の時間の楽しいお話じゃないか」

「楽しいのはあなただけですよ」

 そうこうする間に、あっという間にもう一つもアオイの胃に消えていく。物欲しそうな目に気づかれたか、モガリが手早くパンを取り出した。

「さあ。もう一個だ。次は茹でた肉をカリカリに炙って、それを挟むのもいいね。香ばしさが増すんだ」

 モガリが肉を焼き始めると、甘い香りが一面に漂う。思わずアオイが身を乗り出した……その瞬間。

「……」

 アオイの背にぴりりと電撃が走り、動きが止まる。

 アオイには自慢できる特技がある。

 鼻を鳴らし、身を起こす。首筋がひりりと痛くなるのは、なにかの予兆だ。危険を知らせるシグナルだ。

 ……アオイは、非常に勘がいい。

(車……)

 顔を上げれば、闇の向こうに車の明かりが見えた。目を凝らせば、立派な黒塗りの車がカーブの道をゆっくりと曲がるところだ。

 それを見て、アオイの中に警戒音が鳴り響く。

(……廃材漁りじゃ……ないな)

 体で炎を隠すがもう遅いだろう。ヘッドライトはまっすぐアオイを照らしている。

 激しい音はブレーキ音だ。動きを止めた車から影がばらばらと飛び出してくる。

 顔は見えないが皆、こちらを見つめている。その手には、長い棒状のもの。地面をこする金属音に、アオイの体が先に反応した。

「え、僕も手伝う?」

「モガリさんは動かないで……すぐ終わらせます」

 立ち上がろうとしたモガリを押し戻し、アオイは石をつかむ。久しぶりに温かいものを食べたせいだろうか。体の芯から力が湧くようだ。ぐっと背が伸びる。足の動きも軽い。

(夜で良かった)

 闇に紛れて走るのは得意だ。アオイは身を伏せて地面を這うように駆け、車の影に隠れる。

 車から出てきたのは3人。いずれも黒い服。声もなく、ただの通りすがりの暴漢ではない。

 しかし彼らの止めた車から漏れるヘッドライトのおかげで、姿はくっきり見えた。

(……素人め)

 すう、とアオイは息を吸い込んだ。

(今から、あたしは人に怪我をさせる)

 悪いことをする前には必ず、祈りの言葉を。それはアオイが最初に習った言葉だった。シスターは子どもたちを集めて言ったのだ。

 人間、生きていれば悪い事の一つや二つ、やって当たり前。

 その時は、必ず神に祈りを。申告を……今から、悪いことをするのだと。

 しかしアオイは神を知らない。

 神など見たこともない。

 だから祈る対象はいつだって一人だけ。

(……シスター。お許しを)

 そして、アオイは大地を蹴った。



 一人目。まっすぐに突っ込んできた男に石をぶつけると、その巨体は面白いほど簡単に沈んだ。

 問題は二人目からだ。だいたい、人数が増えるごとに、戦いとは難しさを増していく。そして今回はそれだけではない。

「わお。君と旅をしているとまるで飽きないね」

 モガリの妙な合いの手があるせいで、余計にやりにくいのだ。

「アオイ君。動きが早くていいが、重心を低くしないと転ぶよ」

 背後から迫ってくる二人目の腕を振り払い、大地を蹴る。その瞬間にモガリの呑気な声援が入るせいで、アオイは小さく舌打ちをした。

 黙っていろと怒鳴りたいが、気も抜けない。仕方なくアオイは息を吸い込む。

(……集中)

 目に神経を集中させれば、パンの焼ける匂いも炎の立てる音も全てが消える。視界だけがまるで切り込むように開けていく。

 眼の前は闇と、廃墟と、車と……二人の男。

「……っ」

 つい重心を低くしてしまったのはモガリの声援のせいだ。深く腰を落とし、そのまま高く足を蹴り上げる。冷たい風を切って走る足のきっさきが、目の前の男の顎を捕らえた。

 低いうめきを上げて男が崩れる。風を撒き散らして転がっていく。

 二人目が沈んだと気が緩んだ途端、腕を後ろから掴まれる。思い切り大地を踏みしめて拘束を振りほどき、右膝を背後の男の腹に沈めるが……浅い。

「……」 

 手応えのなさに舌打ちし、アオイは地面に転がった。伸ばされた腕と、罵倒の言葉は冷たい空気に冷やされる。

 気がつけば雪が降っている。今の時代、季節は一時間毎にかわっていくのだ。

 外で暮らす人間は、気温の変化には慣れている……が、いつも温かい部屋で暮らす人間は、この変化についていけない。

 突然降りつけた雪に、最後の一人が戸惑うように足を止めた。

「……雪がそんなに珍しい? このあたりじゃ、夏の翌日に冬が来る」

 そのすきに、アオイは男の後ろに滑り込む。男の腕をつかむ。腰を思い切り蹴り上げると、男の体が揺れる。

 前のめりになったせいで、男の首元があらわになる。何もない、脂ぎったその場所が、アオイの目の前に広がる。

「マフラーでも用意しておけば助かったのに」

 ……そして、アオイは口を大きく開き……。

「おっと、失礼」

 しかし、アオイの歯は肉ではなく宙を噛んだ。その前に男の体が地面に崩れたのだ。顔を上げれば、モガリが石を握りしめ立っている。

「……来ないでいいって言いましたよね」

「一対三はフェアじゃない」

 モガリは表情も変えず男たちを地面に転がした。縛るのは、どこで見つけたのか麻のロープだ。

 今になってポチがぎゃんぎゃんと声を上げ、その声が廃墟の中に響き渡る。

 モガリは平然と男たちの車をあさり、水のボトルを見つけ出した。

 それでしっかりと手を洗い、呆然と立ち尽くすアオイの手も冷たい水で浸した。

「僕は食事の時間を邪魔されるのが一番嫌だ。さ、早く食べよう。食事は熱々のうちに食べないと」

 モガリは鉄板の上で焼けるパンの具合を確かめて、にこりと笑う。

「食事の時間は大切だ」

 立ち尽くすアオイに向かって、彼は何でもない顔でそういった。

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