1・出会い
人体の中で一番硬いのは、歯だ。
アオイは10年前、わずか5歳でシスターからそれを学んだ。
「……なんだ、このガキ!」
崩れたコンクリートの壁に、茶色のツタが絡みつく。割れたアスファルトを突き破り、頑丈な雑草が顔を出しているのが見えた。
荒廃の香りが強いこの場所に、男の怒声が響き渡る。
その声に、アオイの漏らす獣のような唸り声が混じった。
「このガキ、噛みついて……」
男はのけぞり、バッタのように身を捩る。
それでも、アオイは男の背にしがみついたままだ。
そんなアオイの歯は、男の首筋……脂ぎったその場所に、がっちりと食い込んでいた。
(……痛みから逃げようとすれば、歯はもっと深く食い込む)
だから動かないほうがいい。教えてあげられるものなら、アオイは男に教えてやっただろう。
しかし残念ながらアオイは今、口が離せない。
「畜生! お前……まさか……」
男の罵詈雑言はやがて悲鳴に変わる。
「きゅうけ……」
男の背がえびぞりになったのを合図に、アオイはようやく口を離した。
口の中に苦い鉄の味が広がる。目の前には、首を手で押さえた男が一人。
男が押さえる指の間からどくどくと血があふれている。きっとその傷口は、細い穴だ。5個か6個。規則正しく並んだアオイの、硬い硬い歯の跡。
人は首を痛めると、頭をあげられない。そのことをアオイは知っている。
この男も首を押さえたまま、地面をのたうちまわって罵声を上げるばかり。汚い悲鳴は周囲のコンクリに反響して広がって、まるで動物園に響く動物の鳴き声のようだ。
……アオイは本物の動物園なんて、生まれてこのかた行ったこともないけれど。
(血がついた)
血液混じりの唾液を吐き出し、アオイは地面に落ちている鉄の棒を足で蹴り上げる。
それを見て、男は自分に今から起きることを理解したのだろう。
男の顔色が変わり唇が震える。口にするのは懇願か、謝罪か、罵倒か。
まあそんなものアオイにとっては、どうでもいいことだ。
「襲ってきたほうが悪い」
そしてアオイは手にした棒を男の無防備な背中に振り下ろした。
「ねーえ、その人、死んじゃった?」
不意に響いた声に、アオイの背が初めて震える。
振り返れば、ひび割れたコンクリート柱の下、ひっくり返ったスーツ姿の男が一人。
距離にして、たった数メートル足らず。
ささやき声さえ聞き取れそうなその場所で、男は呑気にひっくり返ったままアオイを見つめている。
(……気配もなかった)
アオイの背に冷たいものが流れた。声をかけられるまで、そこに男がいることさえ気づかなかったのである。
「ごめんごめん、驚かせたかな。勝負中は声をかけないほうがいいかと思って」
男は細身の黒いスーツ姿。幼く見えるが実際それほど若くはないだろう。少し白髪のある頭はすっかり乱れ、汚れた地面に広がっている。
40歳前後か、とアオイは算段した。人の年齢を見極めるのは難しい。
同時に、人の善悪を見極めるのも難しい。
「躊躇のない攻撃が素晴らしい。良い腕だね」
ひっくり返ったまま、スーツ男は笑っている。毒のない、妙に人懐っこい……犬のような笑顔だ。
そして彼は、その笑顔そっくりな犬を抱きしめている。
「ほら、ポチもすごいねって言ってる」
男は無邪気な顔をして、犬の手をつかんで振って見せた。
笑顔で動物を連れていても、いい人間とは限らない。アオイは笑顔で人を殺す人間を大勢見てきた。子供を油断させてさらう、そんな卑劣な犯罪者も多くいる。
こと、10台前半に見えるアオイは、その手の犯罪者に狙われやすい。
(子供を狙った犯罪者か?)
だからアオイは口を拭い、慎重に男から距離を取る。
「……殺してません。昏倒しただけ」
「冷静な判断もますます素晴らしい。まあ勝負の場所にしては、ここはちょっと出来すぎているけどね」
アオイが警戒して見せても、男は犬を抱きしめ寝転がったまま。腕を高く掲げ、壊れた柱を指さした。
「崩れた地下駐車場、一定間隔で柱も残っていて逃げ隠れしやすい。もちろん君は逃げる必要もなかったわけだけど。それでも”もしも”、を想定して戦うのは賢いやり方だ」
ここはかつて、ビルの地下駐車場だったのだろう。
といってももう、ビルは存在しない。屋根も崩れて久しい。残っているのは蔦と雑草にまみれた柱だけ。
コンクリートはすでに崩れ、中の鉄骨がむき出しになった柱。それが何本も林立し、地面は坂道を描いてゆるく上に続いている。もちろんその途中で道は途切れて、断絶した先には見事な闇夜と星空が広がっているのだが。
スーツ男はそんな柱の一本に、背中を押し付けるようにして転がっている。
その恰好のまま、起き上がる気配もない。ただ、なにか言いたげにアオイを見つめていた。
「こういう時、なにか声をかけるのがマナーだと思うんだけど」
「……」
「あ、犬が気になる? これはわけありだ。趣味で持ってるわけじゃない」
男の言葉に反論するように、犬が不満げに甲高く鳴く。
その声を聞いて、アオイは眉を寄せた。高音の鳴き声の中にノイズが混じって聞こえたのだ。それは不自然な鳴き声……本物の犬ではない。
「御名答……これは犬型のロボットだ。正式名称はそんな画一的な名前じゃないけどね」
アオイの心を読んだように、彼は犬の頭をぽんと叩く。犬の瞳孔が、宝石のように輝いて広がった。本物にそっくりすぎて、逆に不自然。なるほど、これはよく出来たロボットである。
「とはいえただの人形じゃないんだ。化石みたいに古い言語のプログラムコードで動く。笑わないでくれよ、古い方が却ってシンプルで有能だ。それである程度、自由に動くようにプログラムされてて……」
犬の体は焦げ茶色の長い胴。そこに手足が飛び出している。そして抱かれた格好のまま短い手足がジタバタとせわしなく動き、拘束から逃れようとしている。
「こんなふうに、ちょっと自由度の高すぎるプログラムが玉に瑕だ……こら、ポチ、大人しくしなさい。ほらみなさい、君が僕に大丈夫かって聞いてくれないから、僕は永遠に起き上がるタイミングを失って、お散歩モードに入ったポチがこんなに大騒ぎする。もう仕方ないから自分から起きるけど、そもそもこういうときは礼儀として」
「……おじさん、大丈夫ですか?」
アオイが仕方なく声をかけると、起き上がろうとしていた彼がまた尻もちをついた。目を見開き、頭を抱え、意気消沈したように彼はようやく立ち上がる。
その足元をポチと呼ばれたロボット犬が、尻尾をふって駆け回る。
「え、おじさん……って僕のこと?」
身を起こした男を見て、思わずアオイは一歩下がった。
言動に似合わず、上背のある男だ。ひょろりと細長い足が、割れた地面に影を伸ばす。
その姿を見て、アオイが思い出したのは10年前に見たアニメ映画の一場面。
それはアオイの育った孤児院で、月に一回だけ流されるお楽しみだった。
モノクロだったりカラーだったり、時々切れたりと安定しない映画回だが、子どもたちは皆楽しみにしていた。
母代わりのシスターが子どもたちの名前を呼んで、一人一人にお菓子を配るのが上映開始の合図だ。
いつ見たアニメかは忘れたが、確かこんな姿の男が登場する話があった。それは殺し屋だ。主人公を狙って現れて、邪魔をする。人を殺しても普通の顔をして、夜道に影を落として現れる。
「僕はまだ……四捨五入したら……40歳だし、おじさん、と呼ばれるほどの年齢ではないと思っていたんだけどな」
ニヒルで格好のいいその殺し屋と違って、この男は情けない顔でアオイを見る。
「どうしよう。今、僕は真剣にショックを受けている」
男の腕から逃れたポチがまるで本物の犬のようにしっぽを振り、アオイの足元に駆けてきた。
右足の具合が悪いのか、引きずるように歩いているところ以外は、本物の犬そっくりだ。短い手足、小さな耳。長い胴……これは、コーギーを模したものだろうか。
触れる毛の感触も、手の甲にあたる生ぬるい温度も、かすかに濡れた鼻の先まで犬そっくりだ。
恐る恐るその頭に手を伸ばすと、ポチは嬉しそうに首をかしげて目を細めた。その瞬間にぎゅん、と小さな音が響く。
その音だけが、この生き物の正体を教えてくれる。
「……おじさんって呼ばれたくなければ名前を教えてください」
「モガリ」
男は迷いなく、名前を口にした。偽名だろう、とアオイは無表情のまま考える。
だいたいこんな時代、本名なんて意味をなさない。それでも偽名を淀みなく口にできる人間は、腹に一物を持っている。
「ああ。もう、乱れてしまった。髪をセットするのに一時間もかけたのに……ところで、君の名前は?」
彼は髪を気にするように、手で撫でつける。ぷん、と甘い香りがアオイの鼻をくすぐった。
その匂いはアオイの脳裏に懐かしい記憶を呼びおこす。
それは今は嗜好品ともいえる、ヘアオイルである。ずいぶんと懐古主義な男だった。
「……アオイです……モガリおじさん」
「とどめを刺すのをやめてくれないか」
彼はスーツの汚れを手で払い落とす。そして地面で昏倒したままの暴漢の腕をとった。
「君が本気を出せば僕には手も足も出ないから、そんなに身構えなくて良いよ」
モガリは男の脈を見たのだろう。
続いて首の傷を見る……アオイが噛みついたその場所を。
「全くお見事な腕前だ」
モガリは小さく頷くと男のシャツを遠慮なく裂いた。そしてそのシャツで、男の足を素早く縛る。
「申し訳ない。紐がなくってね。シャツを無駄にしたが、許しておくれ」
地面で呻く暴漢にそう囁く男は、若くも見える、老けても見える。不思議な顔だった。頬は少し痩け、そのせいで目が大きく見える。
真っ黒なネクタイをきちんと着けているのが不自然だ。
アオイならネクタイなどつけない。襟のあるジャケットも、マフラーもだ。
相手に掴まれやすいものは、今の時代に似合わない。
「そこの廃車の中でポチと休憩してたら、知らない人に引きずり出されて放り投げられちゃったんだ。隠し立てをするなとか怒鳴られて……つまり君は命の恩人だ」
「あれは、あ……俺を探してたんですよ。それ。俺の車なんで」
モガリの後ろには車が鎮座している。
傷まみれの軽ワンボックスだ。扉は一枚外れているし、屋根の中央には大穴が開いている。
窓ガラスもすっぽりと抜けており、無事なのはフロントガラスだけだ。
もちろん、フロントもひび割れて完全に無事、というわけではないが。
元の色は錆とカビでわからない。おそらく銀色だったのだろう。そもそも拾い物なので詳細は不明だ。ただ、頑丈でよく走る。
「廃車かと思っていた。すまないね。窓が空いてたから……今夜の宿にしようと思っていたんだけど」
「おじさ……モガリさん、なんでこんなところに? こっから先は海しかないのに」
「え? また地形が変わってしまったのかな。たしかこの先は山だろう?」
彼は内ポケットから一枚の地図を引っ張り出す。ポチがはしゃいで地図を引っ張るので、もうその下側はボロボロだ。モガリは地図を高くかかげ、指を押し当て、目を細めた。
「この先はI地区だったはずだけど……」
「……真逆ですよ。ここも、こっから先も海まで全部、J地区」
アオイは半眼のまま、地面に書かれたJの文字を指差した。
「ずいぶん薄くなってるから、Iに見えたのかもしれませんが」
彼が持っているのはもう何年も前の古い地図だ。くわえて、真逆に持っている。彼は北にあるI地区を目指そうとして延々と南へ来てしまったのだろう。
そもそもI地区もJ地区も人が住む場所ではない。
今の時代、人々は特AからB地区までの間に住んでいる。よくて、C地区の端だ。それ以外は立入禁止の黄色いテープが張り巡らされ、巡回だって多い……その目を逃れて歩き回るには経験がいる。犯罪者という経験が。
アオイの指摘に彼は目を丸めて地図をまじまじと見つめた。そして大げさな動作で額を押さえる。
「しまった僕としたことが」
「……なぜ、I地区に行こうと?」
アオイは静かに息を吸い込んだ。冷たい空気がすうっと肺に届くと、体の芯がしゃんとする。
(こんな胡散臭い男に時間をとられすぎた)
アオイは舌打ちをこらえ、数歩下がる。つい、モガリの空気に飲まれてしまった。普段のアオイはもう少し、慎重だ。
「I地区は何年か前に立入禁止になりました。このJ地区よりたちが悪い」
「行きたい場所に行くのに、理由が必要かな」
アオイは足先で、地面を掻く。足を開き、いつでも蹴りを出せる姿勢を取る。
腰は落とさない。昔は重心を落としていたが、一度それで蹴りそこねて逃げるタイミングを失ったことがある。以来、腰を落とすことを止めた。
何でも経験と学びがアオイを強くする。
「僕は仕舞い屋だ。I地区には仕事でね」
(殺し屋だ)
アオイは静かに唾を飲み込んだ。この時代、仕事を持つ人間は限られる。役所の関係か、道楽ものか……犯罪者。
シスターの影に隠れて見た古臭いアニメ。黒いスーツの殺し屋は、殺しは仕事だと言っていた。そして笑顔で人を殺していた。
それを見て怖いと泣いたアオイはもう居ない。しかし、学んだことはある。
殺し屋は背中を見せない限り襲ってこない。
(大丈夫……この歯がある)
歯を噛み締め、舌先で歯の尖りを確かめる。
……アオイの歯はこの世界を渡っていくための、たいせつな武器だね。そう、彼女は言ってくれた。孤児院の、心優しいシスターは。
「I地区に大きな孤児院があるらしいんだ」
モガリがふっと、世間話のように呟いた。その言葉に、アオイの鼻の奥、懐かしい香りがあふれる。それは日曜の朝、焼きたてのパンケーキの香りだ。
紅茶と、苦いコーヒーの香り。オレンジを絞ったときの、なんともいえない爽やかな香り。
夜に焼かれる肉の香り、庭で育てた人参と大きなじゃがいもの、土の香り。シスターの服から香る、消毒薬の香り。そうだあの時、あの時代。誰かがいつも怪我をしていた。それを治すために、彼女はいつだって消毒剤を持っていた。
そして、彼女が癖のようにつけていた……ヘアオイルの甘い香り。そうだ、シスターもまた花の香りがするヘアオイルを愛用していた。
もうほとんど手に入らないそれを、彼女はいつもどこかから手に入れていた。彼女が横を通るたび、彼女に手を引かれるたび、長い髪からほのかに香るその匂い。それは孤児院育ちの子供たちにとって、母という言葉に最も近い香りだった。
「……孤児院?」
アオイは思わず呟く。顔を上げれば、そこには懐かしい香りも太陽の光もない。ただ荒廃とした、アスファルトとコンクリの世界。
蓄電電球の鈍い光だけが輪のようにふりそそぐ。そこにモガリが立っている。
もう、あの懐かしい風景はこの世のどこにもないのだ……そう、先程までは思っていた。
「……I地区に、孤児院が?」
「もちろん今はないけどね。その跡地に届け物がある」
彼はもう一枚の紙を取り出し、恭しく掲げてみせる。
「この広域の地図には載せられていないけど、僕のクライアントがもう少し詳細な地図をくれた。近隣の地図だ。I地区から先はこの地図を頼りにいく」
「……見せてください」
飛び上がるアオイの手を器用に避けて、彼は唇を尖らせた。
「個人情報だ。助けてくれたことにはお礼を言うけど、これはだめ。僕の仕事を手伝うというなら話は別だけど」
「仕事?」
「僕をI地区に送り届けるという仕事。ねえアオイ君。僕と短期契約を結ばないか」
モガリは長い指先で自分の頬をとんとんとたたき、考えるように宙を見上げる。
「お礼は新品の配給チケットでどうかな。地区縛りのないチケットだ。プレミアだよ」
ポチが虹色の目でアオイを見る。短い尾を必死に振ってアオイの足元に絡みつく。
「ほら。ポチも懐いてることだし」
ポチの額あたりの薄く柔らかい毛が、アオイの足を温めた。
「この犬は?」
「僕の依頼人」
モガリの平然とした言葉に、アオイの目が薄くなる。やはりこの男はどこかあやしい。
……しかし、ついていくだけの価値はある。
アオイは腹をくくり、モガリを見つめて、言った。
「対価は配給チケット3枚。偽造なら5枚」
「対価交渉できるビジネスマンは好印象だ」
モガリはニッと笑ってアオイの手をぎゅっと握る。思ったより熱くて乾いた手のひらだった。
驚いて振り払うと、いつの間に握らされていたのか、アオイの手の中に薄い紙が三枚ある。それは国が発行している飲食の配給チケットだ。光にかざせば、本物の証である透かし印がみえる。発行日も新しい。
「……本物だ」
「交渉成立。君を雇おう。廃材を漁るよりは、この仕事のほうが効率はいいと思うよ」
モガリの言葉にアオイの肩が揺れた。心臓がどくりと音をたて、汗が背を流れる。
「俺は、そんなこと……」
「外れた? まさか。君は廃材漁りを生業にしている。そんな恥ずかしがることはない。まあ名刺にはかけない職業ではあるけどね」
……廃材漁りは、犯罪だ。
アオイは乾いた唇を舐める。
もちろん、何年も監禁されるような重大な罪ではない。ただ、捕まれば洗いざらい、すべてを探られる。名前も戸籍も、過去もなにもかも。
「もしかして、あんたは、警察」
「残念。僕は国家権力とは仲が悪い」
モガリはにこりと笑い、アオイの肩をとん。とたたく。
「雇用者は従業員を守る義務がある。君は今この瞬間に僕の従業員になった。従業員である間は、君を絶対に守るよ。警察からも守る。約束しよう」
モガリは車に向かって、軽快なスキップを踏んでいた。
そしてさっさと助手席に滑り込むと堂々と足を組み、ぽかんと立ち尽くすアオイを手招いた。
「ほら早く動かしてよ。僕は運転ができないんだ」
「お……俺は廃材漁りじゃ……」
「ズボンの膝に波打つようなオイル汚れ。廃材漁ってると、膝に長靴の汚れが移るんだよね」
モガリは車の窓枠に顎を載せたまま、アオイのズボンをまっすぐ指さした。
「ズボンはものに挟まらないように、体の線に沿って作られてる。あと、耳にマスクでできる傷跡がある。廃材漁りにマスクは命綱だ……それに何より」
彼は窓枠に顎を置いたまま、意地の悪い顔で笑いかけた。
「女の子が、男の子の服を着て、自分のことを俺と自称している」
「な」
「廃材漁りは、女の子にはちょっと危ない。いろいろな意味でね。だからそういう時は、男の恰好で男のふりをする。女の子が男の子の恰好をしてるときは、大体廃材漁りだ」
彼は言い飽きたのか、助手席の椅子に背を預け、呑気にあくびを漏らす。
「とまあ、総合的に判断した。僕の勘は外れていないと思うけど」
「……」
たしかにアオイは今、廃材漁りを主な収入源としている。
廃墟をめぐり家電や家具を漁り、売るのだ。
廃材と言っても誰かの所有物なので、やっていることは強盗と変わらない。だからアオイはできるだけ古く壊れ、持ち主にさえ忘れ去られた物だけを狙うようにしている。
それを直し、整え、そして売る。
良心の呵責からではない。言い逃れをするわけでもない。ただ、主人から見捨てられ、朽ちていくものが切ないのだ。
「……それ分かって……あたしに声をかけたんですか。そこまで詳しいなら知ってますよね。配給チケット狙いの廃材漁りには、ろくな人間がいないって」
今の時代、金にはもう価値がない。
廃材漁りが求めるのは、日々の食事や日用品に交換できる配給チケットだ。
ただ、「普通」の人間なら政府から配給チケットは一ヶ月ごとに十分量が支給される。
チケットをもらえないのは、戸籍のない人間、犯罪者、はみ出しもの。
「ろくでなし」は特別な仕事をしてチケットを手に入れるしかないのだ。そうでなければ金の消えたこの世界では、すぐさま飢えて死ぬ。
「君はろくでもない人間じゃないよ」
そんなアオイの言葉に、彼はにっこりと笑う。車の窓枠に腕をおき、その上に顎を乗せたひどくリラックスした顔で。
「おじさんは人間を見る目があるんだ」
……どうにも、食えない男だ。
「おっと。無駄話の時間はなさそうだ」
彼は目を丸くして口笛を吹いた。その音でポチの小さな耳がぴんと立つ。ポチは不自由な右足を引きずりながら、器用にモガリの元へと駆けた。
モガリは窓から腕を伸ばしポチを抱き上げると、続いて足で運転席の扉を蹴り開ける。
「ほら、もう彼も起きてしまう。体力は温存しなくちゃね。さあ行こう」
気がつけば地面に転がしていた男が蠢いているところだ。モガリが足を縛っているせいで立ち上がれず、巨大な海獣のようにうめきながら地面を這い回っている。
その音を聞いてアオイは慌てて車に飛び乗った。鍵穴に刺したままの鍵を、力いっぱい殴りつける。
アオイの愛車はまるで不機嫌な息を吐き出すように、大きく震えた。