九 秘密の終わり
翌々日、ソニアは馬車に揺られていた。
向かっているのは二人が初めて出会ったあの展示場。今日はそこでノーマンと待ち合わせている。
曲がりなりにも堂々と外で顔を合わせられる日が来たというのに、それが秘密の関係の終わりになると思うと憂鬱だった。
しかし、今日ここで真実を伝える以外の選択肢はないのだ。
ソニアは重く沈んだ心に言い聞かせ、目的地に到着した馬車を降りた。
先に着いて心を整えておこうと思っていたソニアだったが、展示場の入り口前でこちらに向かって手を挙げる男性に気づいて出鼻を挫かれてしまった。
「こんにちは、ソニア嬢」
約束の時間より大分早いはずなのに既に待っていたノーマンは、今日の陽射しのように柔らかく明るい笑顔を投げかけてソニアを迎えた。
「……ごきげんよう、ノーマン卿。随分とお早い……ごめんなさい、私、時間を間違えたかしら」
「いえ、まだ時間では。今日が楽しみで、私が随分と早く着いてしまっただけです。その……こうして堂々とお会い出来るのは初めてのことなので」
そう言って照れたように笑ったノーマンは、いそいそとソニアを会場内へと誘った。
毎週の秘密の時間、ノーマンは必ず先に待っている。この時間が楽しみで、と言って。
それはずっと抑えてきた手芸への想いからだと認識してきたが、今の言葉の向かう先はきっと違った。
慕う人が自分と同じように想ってくれている、そう思わされる言葉であった。
ソニアはそれに堪らなく嬉しくなる。
しかし同時に堪らなく悲しくもなった。
もしも心が通い合っていたとしても、真実と別れを告げなければならないのだから。
言わなければ、言わなければ、言わなければ。
そう思えば思うほど、もう少しだけと願う気持ちも強くなる。後少しだけ並んで歩いて、お喋りをして、笑顔を向けてもらいたい。終わらないでほしい。
すべき事だとわかっているのに相克する感情に煩悶し、何も言えないまま並べられた装身具や肖像画を見て回っていると、ふとノーマンが立ち止まった。
「ああ、いつ見ても美しい」
ノーマンの視線を辿ると、いつのまにか二人を結び合わせた総レースのベールの前まで来ていた。白百合の花のモチーフが繊細にあしらわれた美しいベールだ。
「ええ、本当に。とても優雅で繊細で」
「もう何度も見ているのに、その度に感嘆してしまう」
「ノーマン卿はこのベールへの思い入れが特にお強いですね」
「そうですね。国宝にすべき美しさに魅了されどおしということもありますが、このベールを見ると思い出すからだと思います。貴女と初めて会った日を」
ソニア嬢、と呼びかけてノーマンがベールから目を離しソニアへ向き直った。柔和な微笑みと眼差しを正面から受けてソニアの胸が鳴る。
「あの日、貴女と出会えた偶然があったから私の世界は広がりました。諦めるしかなかったものを貴女が肯定してくれたから。ありがとう」
「そんな……」
「それからは毎週の秘密の時間が楽しくてしかたなかった。刺繍に触れられる喜びはもちろんでしたが、いつしか貴女とお会いできることの方が楽しみに」
淡く期待していたものに答えをもらって、ソニアの胸はますます高鳴る。
「けれど、いつか終わりが来ると覚悟していました。お互いに従わざるを得ないものがある身とわかっていましたから。ただそのいつかが来るまでは、この時間を大切にしていこうとしていたんです。これ以上は望まないからと。でも今、またこうして嬉しい偶然に見舞われた。いつか終わると思っていたものを、これからもずっと続けていける。隠さずに堂々としていられる関係にようやくなれる」
そうなりたい。
公に出来る間柄として、ずっと一緒に過ごしていきたい。
そうであれば良いとソニアだってずっと思っていたのだから。
ノーマンの心内を聞いて、こんなにも同じ気持ちでいたのかと歓喜が込み上げた。
「運命的な偶然の数々に感謝しかない。ソニア嬢、縁談のお相手が貴女で良かった」
そう言って笑いかけるノーマンに、ソニアも何もかもを放り出して応えそうになった。
私も、私も同じ気持ちだと。
あなたと婚約できたらどんなに嬉しいかと。
しかし、歓喜に震えた胸の奥はすぐさま現実に握り潰された。
胸の内を伝えられたらどんなに良いだろう。だがソニアにはそれは出来ない。本当の縁談相手はソニアではなくダリアなのだから。
このまま偽り続けることは出来やしないし、いずれ何もかもが露呈する。どうあってもノーマンと結ばれる未来はソニアにはない。
いずれ待っているのは別れなのだ。だから余計な波風を立てることはせず、真実だけを伝えて消えるべきだ。
言わなければ、言わなければ、言わなければ。
ソニアは真実を伝えようとついに口を開いた。しかし喉の奥からは一切の音も出ず、代わりに瞳から涙が零れ落ちた。
「——っ⁈ ソニア嬢⁈」
唐突に涙を零したソニアにノーマンが慌てた声を出した。
「どうしました急に……すみません、私が何か失礼なことを——」
「違います……違うの。私も……でも……」
一粒零してしまうと堰を切ったように涙が溢れた。
言わなければならないことも、云ってしまいたいこともどちらも言葉にできずに、ただただ涙が零れ落ちる。
この縁談が自分のものであったなら、自身がダリアであったなら。
今日まで心の奥に降り積もっていた無力感や様々な思いが交錯して、ソニアはついに耐えきれず、ごめんなさいと呟いて場外へと走り出した。
呼び止めるノーマンを振り返りもせず、ソニアは走って馬車まで向かった。
「出して」
「お嬢様……何か——」
「いいの、お願い」
泣いているのを見た御者は不審がったが、ソニアは乗り込むや否やそう指示し馬車を発たせた。
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