十一 正しき運命
指先から身体が冷えていく。
真っ暗な沼に突き落とされて、音もなくゆっくりと沈んでいくような気分だ。
今日まで幾度も経験したことが、今また目の前で起こっている。
微笑む妹と、先ほどまで自分を見てくれていた人が、これから妹以外を目に映さなくなる瞬間が。
「貴女がダリア嬢……ですか?」
「——? はい、そうですが」
小首を傾げて不思議そうに見上げるダリアを、ノーマンが驚いたように見つめ続けている。
記憶の中の元婚約者達と同じ顔だ。
こんなにも美しい人がこの世に存在するのかと、信じられないといった表情。
ノーマンのその顔に、ソニアはまざまざと思い知らされた。これが正しき運命なのだと。
「一体どういう……」
「ノーマン卿」
困惑した様子をみせるノーマンへ、ソニアは静かに声をかけた。
「黙っていて申し訳ありません。あなたに嘘を吐いていました。私はあなたの縁談相手のダリアではありません。ダリアは今ご挨拶したとおり、妹のこの子です。あなたの縁談相手は私の妹です」
「……え?」
「浅はかな姉の過保護が行き過ぎました。妹が心配なばかりに、代わりに縁談相手とお話しをさせていただこうとあの日の顔合わせに伺ったのです。けれど、あなたがお相手だったから、動揺してつい嘘を……お許しください」
ソニアがそう真実を告げると、ノーマンは一度ソニアへ視線を寄越してから、またダリアへと目を戻した。
「貴女が縁談相手……」
まだ困惑したままといった驚いたような表情で、じっとダリアをみつめるノーマンの瞳にはきっともうソニアは映らない。
また一つ、胸の奥が削り取られた気がした。
幾度も経験したこれまでと同じように、けれど今までで一番深く、大きく。
これほど大きく抉り取られた瑕が痛み出したら、きっと耐えきれない。今までのように何ともないふりは出来そうにない。
ソニアは痛みに追いつかれる前にと、振り絞るようにして姉の顔を作り直した。
「ダリア、聞いていたわね? この方が貴女の縁談相手のノーマン卿よ。断るって約束したのにごめんなさい。でも、ノーマン卿はとてもお優しくて誠実な方でいらっしゃるから、何も不安になることはないわ。縁談と身構えずに、まずはお話ししてみて」
「お姉様……」
「ノーマン卿」
縁談相手と知って不安そうにするダリアに微笑んでから、ソニアは今度はノーマンを呼んだ。
「姉の贔屓目かもしれませんが妹は淑やかでとても良い子です。名を騙ったのは全て私の独断で妹は無関係ですので、どうか縁談を進めてくださいますようお願い申し上げます。無礼な真似をして申し訳ありませんでした」
ソニアはそう謝罪して目を伏せた。
ノーマンは何も言わない。まだ状況を飲み込めないでいるのかもしれないし、憤慨しているのかもしれない。
しかしいずれにしても、もうソニアをその目に映してはいないだろう。
ズキンと胸の奥の欠けた部分が痛み出す。
ドクドクと流れ出した血が涙となって落ちてしまいそうで、顔は上げられそうになかった。
「……あなたと過ごしたあの秘密の時間は宝物のようでした。素敵な偶然をありがとうございました」
呟くようにそう言うと、ソニアは俯いたまま二人に背を向け屋敷へと戻った。
バタンと玄関扉を閉めた途端、涙がボロボロと溢れた。こうなるとわかっていても、実際に目の前で現実になると耐え難かった。
「馬鹿ね、奪われるだなんて。あの子を好きにならない人はいない。ただそれだけなのに」
奪われたくないなどという妹への嫉妬心を持ってしまったばかりに、結末は同じなのに余計な回り道をして余計に傷つくこととなった。
知らなければ諦められた気持ちが一斉に泣き叫んで胸の奥に爪を立てる。その痛みにソニアは自分の愚かさを呪うしかなかった。
しばらく扉にもたれかかり涙が零れ落ちるままにしていると、廊下の向こうから義母の呼び声がした。
「ソニア! 帰ったの?」
ソニアは慌てて涙を拭って、応接間からこちらへやって来た義母に向き直った。
「何処に行っていたの探していたのよ。いつもいつもフラフラと出歩いて」
「すみません、用事がありまして」
「貴女に何の用事があるのだか……まぁいいわ。ねぇ? あなたに素敵なお話があるんだけれど、どうかしら?」
義母が猫撫で声を出す。素敵などという時は大抵、話は決まっている。
「……また縁談ですか?」
「またって、貴女の為にわざわざ用意してあげているのよ。感謝なさい。今度の方はね、宝石商をなさってるの。お年はすこぉし上だけれど良い方よ? 今ちょうどいらっしゃっていて、どう? このままお会いし——」
「ええ、お会いします。進めてください」
間髪入れずに答えると、義母は少し驚いたような顔をした。
「あら珍しいのね。どんな方かも尋ねずに、すぐにお会いするだなんて」
「お義母様を信頼していますもの。どんな方であっても構いません。私その方と婚約します」
「そう、素直で良いわ。今度こそ破談なんてことは止めてちょうだいね。ダリアにもようやく良縁を見つけられたのだから、姉の貴女がつかえて妹の邪魔をするんじゃないわよ? 順番がどうのだなんて、ダリアの幸せにケチを付けられたくないの」
「……着替えてすぐに伺います」
すぐによ、と義母の声を背中に聞きながら、ソニアは自室へと戻った。
帽子を長椅子の背に置いて、ソニアは薄く笑った。
このタイミングで自身にも縁談とは神様も大概意地悪が過ぎる。
しかし考えようによっては優しさかもしれないなと、よく晴れた窓の外へ目を移した。
ノーマンのことは忘れて運命を全うせよ、それが正しいのだ。そう言われている気がしたのだった。
「そうね、ちょうど良い。余計なことを考えずに、レティセラ家の娘として貢献するには」
相手が誰であっても構わない。どんな人でも厭わない。
自分はダリアの姉で、誰からも顧みられることなどないのだから。全てを忘れてただ決められた道を淡々と歩めばいいのだ。
そう思った時、カチャリとドアが開く音がした。
「お姉様」
「——ダリア⁈」
ノックもなく部屋に入ってきたのはダリアだった。
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