十 天使の微笑み
「お嬢様、着きました」
馬車の戸が開けられてもしばらく茫としていたソニアは、御者の声にようやく我に帰った。
「ああ……ありがとう」
「……どうかなさいましたか?」
「いいえ、何も。気にしないで」
心配そうにする御者にそう言って馬車を降りたソニアだったが、自宅の玄関前でまたぼんやりとしてしまう。
最低の別れだった。
騙した謝罪をすることも、ダリアのことも、今日までの感謝も何一つ伝えられずに逃げてしまった。最悪の対応だった。
ここまで引き伸ばして事態をより悪くしたのは自分だ、だから自分の口から本当のことを伝えて、きちんとお別れをすべきだと思っていたのに。
それなのに揺れてしまった。
想いが通じ合っていたのだと、はっきりノーマンの口から聞いてしまったから。失いたくない気持ちが喉を詰まらせた。
諦めるしかないのだとわかっていたのに、なんと愚かなのだろう。
「ダメね、本当に」
両手に収まりきらないほどの縁談をこなしても一人として見向きもされない。
妹に良い姉の顔をしようとしながら裏切った。
そして大切な人を騙したまま、別れすらまともに出来ない。
何一つ成し得ない、なんと無価値で不誠実な自分だろう。
何処かでダリアのせいにして仕方がないのだと誤魔化していた瑕が、いっせいに喚くように疼いて苛んだ。ソニアは堪らず顔を覆った。
「……手紙にしましょう。そこに本当のことを書いて、それで——」
ノーマンとの関係は終わりだ。秘密の時間もノーマンへの想いも、彼と歩めたかもしれない一瞬見えた夢も、全て終わりだ。
初めからいつか終わるとわかっていながら、どこかで期待していた愚かな自分もこれで本当に終えるのだ。
ノーマンはダリアの婚約者で、ソニアはダリアの姉で、見知らぬ誰かの元へ行く。それが正しい運命だ。
しかしそれでも、この先に正しい道はないとわかっていても、それでも彼が好きだった。
「ノーマン……」
「ソニア嬢!」
ソニアが呟いたと同時に、背後からソニアの名を呼ぶ声がした。驚いて振り向くと、入り口の門の前にノーマンが立っていた。
「ノーマン卿……どうして」
「すみません、ご自宅まで追いかける真似をして。けれど、あのまま放ってはおけなくて」
ノーマンはそう言うと前庭へ足を踏み入れソニアの下へ向かってきた。
「ソニア嬢、私が何か気分を害してしまったのなら——」
「いいえ、ノーマン卿、違います。何でもないんです」
「何でもないなら、何故突然泣き出されたのです?」
「それは……」
ソニアが言い淀むと、ノーマンが悲しそうな顔をして俯いた。
「……ご迷惑だったからでしょうか。私の気持ちが」
「そんな……迷惑なん——」
「思えば縁談相手とわかってからずっと、困惑したような態度でいらっしゃいましたね。すみません、私は少し鈍いところがあって……加えて思い込みも激しかったようです。私の一方的なものであったのに、貴女も同じ気持ちでいるとばかり思って」
「思い込みじゃ……私——」
ソニアが言葉に詰まると、ノーマンは一度グッと手に力を込めてから、何かを察したように顔を上げた。
「……不躾な真似をしてすみませんでした。縁談はお断りいただいて結構です。貴女と過ごしたあの秘密の時間が何より大切なものだった」
「——! ノーマン——」
「かけがえのない時間を今日までありがとう。それでは」
そう言うとノーマンは礼をして背を向けた。
これで良い。
取り違いは続いたままだが、妹との約束どおり破談にできた。この成り代わりの結末は、これで良い。
“いつか”の終わりが今であっただけで、嘯いてしまった約束も果たされて、妹に奪われたくないという見苦しい願望も叶ったのだから。
これで良い。
そう思うべきなのに、去っていこうとするその背中に、抑え続けてきたソニアの心が叫んだ。
「違うわノーマン! 迷惑なんかじゃないわ! 嬉しかった、とっても! 私もあの秘密の時間が何より大切だった! 私だって……私だってあなたのことを——」
愛している。
足を止めて振り向いたノーマンにそう叫びかけた、その時。
「お姉様! お帰りになりましたのね? 大変なの! クララのお腹のボタンが——」
裏庭にいたものか、屋敷の陰からダリアが姿を現わした。
「——! ダリア!」
「あら——ごめんなさい、ご来客中でしたの?」
ダリアはそう言いながらふわふわと薄茶の髪を揺らしソニアに駆け寄ってきた。
淡緑の瞳は陽射しを受けて宝石のように輝き、少し息を切らし、はぁ、と漏らす唇は開きかけた花の蕾のようである。
姉であるソニアでさえ見入ってしまう愛らしさだ。
「ごきげんよう、お話しを邪魔してしまって申し訳ありません。お姉様のお友達……でいらっしゃいますの? 私は妹のダリアと申します」
ダリアがそう言ってお辞儀をすると、ノーマンが意表をつかれたといった顔で、え? と漏らした。
「……妹の、ダリア?」
「姉がお世話になっております」
ダリアがそう言って花開くようにふんわりと微笑むと、ノーマンはハッと驚いたように目を見開いてダリアを見つめた。
それは、幾度となくソニアが見てきた光景だった。
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