森で呼ぶ船
この作品は、仙道アリマサ様主催「仙道企画その3」参加作品です。
緑の森の夢を見た。
優しい霧が全てを包んで、穏やかではっきりしない、いつまでもうとうととここにいたい、そんな夢。
紅茶の香り、猫の鳴き声、どこか遠くで子ども達の声。
隣で誰かがコーヒーのおかわりを。
運ばれてきたカップの音に重なる、あの音。
朝の目覚まし。
月曜日は1週間の始まり。
だから朝は丁寧に紅茶を淹れて、気持ちをゆっくりと落ち着かせる。
毎日の仕事は大変で、社員としての責任も大きいし、限られた時間の中でやる事はたくさんあって、書類仕事もたくさん、お客様対応もたくさん。
いつも時間までに終わらなくて、残って仕事を片付ける。
だけどあたしは独身だからまだいい。
同じ職場のパートの主婦の人やシングルマザーの人は本当に毎日忙しそうだ。
仕事もして家のこともやって子どもの面倒も見て。
だからまだ自分はそんなに大変じゃない、そう言い聞かせて、まだ頑張れるって言い聞かせる。
お昼はいつものパン屋さん。
最近のお気に入りは塩バターパン。
お店によって色々だけど、会社の近くのパン屋さんのはふわっと柔らかくてバターのしょっぱさがじゅわっと滲んでくるのがすごく好き。
コーヒーはアメリカン。
今の時期はいちごのフルーツサンドも一緒に。
仕事が終われば本屋に寄って、今週読む文庫本を買って、晩ご飯のパスタの材料も買う。
ゆっくり、ゆっくり、丁寧に。
焦ってもいい事ないから、丁寧に。
水曜日は週の真ん中。
朝起きたらインスタントのコーヒーを濃いめで入れてミルクを足す。
まだ今週は残ってるから、頑張れ、って自分に言い聞かせて。
みんな余裕がない。
パートさんも、シングルマザーさんも、あたしも、お客様も、誰も彼も。
わりと誰かがイライラしてて、時々は誰かが怒ってて、それを引き受けた誰かが辛そうで。
だからお昼はちょっと奮発してイタリアンレストランのランチ。
この辺りは会社が多いから、お昼は人も多いけど、かわりに手軽に楽しめるオシャレなランチも多い。
忙しそうなウェイトレスの彼女はそれでも笑顔を絶やさない。
ご馳走様、美味しかったよ、また来るね。
わたしも小さく、ご馳走様でした、と彼女と笑顔を交わし合う。
みんなそっと、知らない誰かと支え合う。
仕事帰りには小さな花束を買って、自分に頑張ってるよ、って言い聞かせる。
まだまだ今週は終わらないから、自分をぎゅっと抱きしめて。
金曜日の次はお休みの土日。
朝はコーヒーをドリップして香りを楽しむ。ミルクは入れない。
今日頑張ればお休みだから、だから頑張れって自分に言い聞かせる。
少しだけみんなの表情が穏やかで、ホッとしたようにゆるやかで。
街ゆく人の顔にも笑顔があるような気がして。いつもこうならいいのにって感じながら。
今日も終わらない仕事を抱えて、来週に回せる仕事と今日中の仕事を仕分けて片付ける。
帰りはペットボトルのワインとチーズを買って、本屋さんも花屋さんも閉まっていたことに気持ちが沈んだ。
電車の中で声がした。
おいで、おいで。
ここへおいで。
顔を上げると、流れて行く景色と暗い空。遠い山並が見えた気がした。
土曜日はお休み。
水筒にお茶を入れて、リュックをしょって家を出る。
途中でバス停の近くのパン屋さんでサンドイッチを買って、あの山へ。
おいでおいでと声がするからあの山へ。
たどりついた山の中、女の人が笑って迎えてくれた。
待ってたよ、と。
山の山の山の奥、その森の中でたくさんの人がくつろいでいた。
白い猫足のスチール製のテーブルとイス。
ざざざ、と木々を駆けめぐる風。
誰かが丁寧に淹れてくれた紅茶を飲んで、あたしはのんびりと本を読む。
遠くに子どもたちの笑い声。
足元に仔猫。
周りには同じように本を読む人々。
夢に入り込んだあたし。
この森にたどり着いた人たちはみな、ここでその日を待っている。
世界が変わる日を。
森と山が作り出す箱舟の中で。
太陽が、木々が、キラキラ輝くこの箱舟で。
急がず、焦らず、ただゆっくりと、世界が変わるその時を。
ここで。みんなで。