第二十二話:老将二人
前回のあらすじ!
聖女の呪いの全貌が解明されるまで、女神アストライアの伝説は殆どが創作だろう、ニキアスとセルジオスが行った帝国首都の虐殺を正当化するための方便であると考えられていた。
しかしそれらの伝説が全て事実だと判明し、研究が進められて百年以上経っていても、我々合衆国民(当時の帝国人)を狙い撃ちするその悪逆非道な呪いを解呪する方法は見つかっていない。
何が一番悪質かといえば、この呪いは合衆国民には絶対に解読できず、外国人の力を借りるしかなかったことだろう。和泉国が我が国に打ち込んだ呪文爆弾を、我々は忘れてはならない。
――アンドレアス・ドラグーン著 『禁呪論』 898年 72頁
アレクシアと、後の世の方に言い訳をしておきますと。
あの左腕はペルサキス人の手に負えるものではありませんよ。
ランカスター人に渡したことを感謝していただきたいものです。
アンナにより変質した呪いを彼らが使うのならば、その分にはご利益しかもたらさないでしょう。
この日記を読んだ方が、もしかしたら既に呪われているかもしれませんので解呪方法を書いておきますと……『殺して、燃やす』。これだけです。
それと、左腕をこの日記の紙を使って包みなさい。私の魔力がまだ残っていれば、多少は進行を抑えられるでしょう。
――ミラン・ディケー・ミラクの日記 896冊目 帝国暦99年10月頃
※この日記は、聖女の左腕のミイラと共に祀られていた。聖女の左腕のミイラを発見したゲオルギウス・オーリオーン中佐はこの記述を読んで、呪いに感染した基地の自爆を決断したという。
――帝国暦100年1月1日 帝国首都
時期外れの、色とりどりの花が咲き乱れる。
本来真冬のはずの帝国首都は不気味なほどの暖かさに包まれていた。
帝国を簒奪しようと意気揚々と訪れた各地の貴族たちは、その穏やかな暖かさにコートも鎧も脱ぎ捨てて、皆生まれながらの故郷に帰ったかのように民と酒を交わし、子どもたちと戯れて百周年を祝う。
アトラースで優雅に飛ぶアレクシアが到着する数日前。
民を率いて押し寄せたアルバートが、合流を前にして城壁の前で野営をしている頃。
首都ではまさに華々しい祭典が行われていた。
「……ベネディクト……殿下……この……魔法は……」
「アストライアのものだろうな」
ニケが必死に頭を抱えて抵抗する。
首都を囲むように築かれた城壁をくぐった瞬間、帝国への情愛、女神への敬愛が溢れ出して。
これが女神の魔法だと確信した彼女は、正気を保とうと歯を食いしばって耐えていた。
「邪神が……この私の……精神に入り込むな……ッッッ!!」
老婆は大声で叫ぶと、幾分心が安定してきて。
隣で辺りを見回すベネディクトを見た。
「殿下は平気そうですね」
「長いこと彼女の側に居たからかもしれないな。ある程度抵抗力があるみたいだ」
「私が正気をなくしたら、この短剣で刺して下さい」
そう言って、短剣を手渡す。
ベネディクトが決意を込めた瞳で彼女を見返すと、そんな二人を見かけた男が走り寄ってきた。
「殿下! ニケ様! 良かった……正気の人が居て……」
セルジオスですか。とニケは興味なさそうに彼を見て。
ベネディクトは彼の顔を知らないようで、適当に相槌を打った。
「その様子だと、貴方は平気そうですね」
「気持ち悪い愛情が湧いてきて……連れは全員餌食になりましたけど、私だけは」
強い信念を持って帝国を滅ぼしに来た彼だけは無事だったが、一緒に訪れた諸侯は全員、近くの酒場で歌って騒いでいる。
その店を指差してセルジオスは力なく笑うと、ニケは彼を見下ろして言った。
「まぁ、貴方でも居ないよりはマシです。陛下を助け出しに行くのですが、腕は衰えていませんね?」
えっ? と目を丸くするセルジオス。
流石に皇帝を殺しに来たと言えるはずもなく、こくこくと何度も頷いた。
「援軍を呼んでいるので、彼らを待ったほうが」
「……待てると?」
あっ、これは駄目なやつだ。とセルジオスの額に汗が流れる。
今目の前に居るのは、従軍したての頃に散々叩きのめされたニケ将軍その人だった。と思い出した時、大熊が彼の頭を鷲掴みにした。
そして背筋の凍るような捕食者の唸り声が、彼の心をその巨大な鉤爪で撫でる。
「セルジオス、これは命令だ。皇帝陛下をお救いする」
「……はっ!!」
恐怖に泣きそうになりながら、彼は大声で返事をして。
怪物を見て絶句するベネディクトに話しかけた。
「……殿下。すみませんが具足と武器の調達をしたいのですが……」
「あ、あぁ……私の屋敷にあるから、とりあえず一旦そこまで行こう」
――ベネディクトの屋敷
今はもう家族全員ペルサキスへ亡命し、誰も住んでいない屋敷。
オーリオーン城の敷地内だと言うのに警備の一人もおらず、すんなりたどり着く。
「……お招きいただき恐縮です」
儀礼的な発言ではあったが、セルジオスも貴族の生まれ。
皇族の屋敷に入ると自然と萎縮していて、その産まれながらの習性を自嘲した。
「見張りはしておく。さっさと着替えてこい」
「セルジオス、こっちに来てくれ」
ニケに促されて、ベネディクトに着いていく。
彼女の迫力に当てられて幾分落ち着きを取り戻した彼は、近くの部屋で着替えると大きく深呼吸をした。
「一気に魔法が解けたみたいです。ニケ将軍に感謝するべきでしょうね。ベネディクト殿下」
「まぁ、そうだが……この規模の魔法を操る女神に勝てるのだろうか……」
弱気に呟くベネディクトの顔を見て、やはりこいつは役に立たないな。と冷徹な思考が巡る。
この兄が居て、どうしてあんな妹になるのかと首を傾げそうになったが、一応皇族の手前と曖昧な表情を作ってごまかした。
「あまり将軍をお待たせする訳にもいきませんし。我々は出来ることをやりましょう」
「あ、あぁ……見張りをしてもらっているからな……」
困ったことになったが、この機に乗じてベネディクトを始末できないだろうか。
確かアレクシアとは不仲だったはず。咎められずに皇族を一人減らすことが……と良からぬ考えが浮かんでいると、部屋の外から弾けるような轟音がする。
とっさに身体強化を唱えて、セルジオスは叫んだ。
「殿下、身を隠して下さい!」
クローゼットに皇太子を閉じ込めて、彼は静かに扉を開く。
僅かに開いた扉の隙間から穏やかで暖かな、花の香り漂うそよ風が流れ込んできたと感じた時。
「セルジオス! 息を止めろ!!」
ニケの叫びが聞こえて、彼は口と鼻を覆う。
声のした、玄関ホールの方を恐る恐る見ると、純白の着物に身を包み、柔らかな笑みをたたえる美しい女と目が合った。
彼女の真紅の瞳に吸い寄せられるように、彼の身体が自分の意志を離れて動き出そうとする。
「……はっ!! お前が女神か!!」
そこで彼は気づいた。今目の前に居る女が、アルバートの妻であった者。この帝国を奪い取った女神。
つまり、自分の最大の敵だと理解して、誘惑に負けないように頬を殴る。
口の中が切れて血の味が広がると、彼は女神を振り切った。
「あら。おふたりとも、とても強い意志の持ち主ですわね」
なぜだか嬉しそうな表情と声で、アストライアは二人を見る。
鈴を転がしたように澄んだ声がニケとセルジオスの耳を撫で、彼女は指を弾いた。
禿頭の大男がのそのそと玄関をくぐると、彼の背中を軽く叩く。
「まったくもって邪魔ですわ。ソロン閣下、お二人を外までご案内して差し上げて?」
「…………」
ソロンは無言で、ニケの方に手を伸ばす。
聞き取れない発音の呪文が彼の口から流れ出て、伸ばした手のひらには大気が渦を巻く。
あの大魔法使いが操られる? 嘘だろ? と現実を認めたくないセルジオスが絶句していると、ニケが一喝した。
「このハゲ!! 操られている場合じゃないだろうが!!」
ニケは本当に腹が立っていた。
仮にも帝国最高の大魔法使いでありながらこの体たらく。
皇帝を守れず、あっさりと国を奪われた宰相の禿頭が、彼女にはあまりにも情けなく見えて。
「手を降ろせ。殺すぞ」
女神すら引き攣った顔になるほどの威圧感で唸った。
「……ではでは。わたくしはお迎えしなければならない人が居ますので」
小さく咳払いをして、踵を返して去っていく女神。
ソロンの魔法を視線の圧だけで止めていたニケは、背後のセルジオスを呼んだ。
「……殿下は隠したな? アレクシアとニキアスに伝えに走れ」
「ニケ様は……」
「ハゲを殺す」
今のソロンは全盛期よりも遥かに強い魔法を使う。そうニケは肌で感じていた。
女神の力を侮っていたことを理解して、それでも後悔はない。
ここでこいつを叩いておくことは、必ず二人のためになる。
「ご武運を」
「祈られるまでもない」
短く言葉を交わし、走り去るセルジオスを見送って。
老大熊は大きく息を吐いて、心を整える。
「……ソロン。手加減はできませんよ」
「ニ……ケ……」
虚ろな目で微かに自分の名前を呼ぶ、かつての同僚。
彼女は彼とともに戦った日々を思い出して、薄く笑った。
こいつときたら、案外やるじゃないか。と思わず目を細める。
「情けないですよ。お前がこんな醜態を晒すなんて」
「ワシ……を……止め……ろ……陛下を……」
「言われなくても。死にたくなければ、殺すまでに正気に戻りなさい」
言葉を交わし終えると同時。
ソロンの手のひらに留まる竜巻が解き放たれ、ニケの立っていた石床を引き剥がした。
「強化されたのは魔力だけですか」
鉄の義足に意識を集中する。
瞬時に膨れ上がった太ももの筋肉。
風を切り裂くけたたましい爆発音と鈍い閃光。
不可視の速度で飛ぶ蹴りが、ソロンの腕を砕いた。
「……ッッッ!!!」
だらんと垂れ下がった両腕から竜巻を撒き散らして転がる大男。
不規則に放たれるそれを完全に見切り、大熊は一瞬で近寄った。
「そのみっともない頭を砕きますよ」
軽口を叩きながらもニケは焦る。
完全に切り落とす勢いで蹴ったはず。それが何かの力に阻まれて、ほとんど威力を殺された。
「なっ!?」
目を丸くする。
踏み砕こうと上げた脚を、瞬時に真っ直ぐに繋がったソロンの腕が掴む。
思わずバランスを崩して尻餅をつくと、彼はぬっと立ち上がって見下ろした。
「逃……げろ……お前……では……もう……」
ソロンの虚ろな目から涙が溢れ出て。
糸で繋がれた人形のように手を真上に掲げると、それが切れたように手を振り下ろす。
とっさに転がったニケのすぐ横で床が大きく凹み、彼女の背筋に氷のような冷たい汗が流れた。
しかしそれでも立ち上がり、軽く埃を払って背筋を伸ばし、彼の顔を指差して。
「ソロン、忘れましたか。『帝国軍は味方を見捨てない』。私達でそう決めたでしょう」
「忘……れろ……頼む……」
「弱音を吐いてる暇があったら、少しは協力しなさい。臆病風のソロン」
――暴風と衝撃が屋敷を荒らした。
一撃一撃が交わるごとに壁は崩れ柱は折れ、飛び回る燭台に調度品。
やがて石の屋根が崩落し、見るも無残な瓦礫の山の上に立った二人。
ニケは肩で息をしながら、残念そうに笑う。
「……ここまでやっても無理ですか」
「悪い……な……」
ソロンは少しずつ正気を取り戻しているはず。
ただ、もうここまでだ。
ニケは諦めたように目をつぶり、既に感覚を失った身体を投げ出して倒れ込む。
まさかこの歳になってまで悔いが残るとは。と、アレクシアやニキアスの顔が浮かぶ。
「あぁ……ニケ……すまない……」
ソロンは言うことの効かない身体と、制御のできない魔法を押し留めようともがく。
帝国二大老将軍の殺し合いが終わろうとしていたところ。
薙ぎ払われた虹の刃が、ソロンの身体を吹き飛ばした。




