第三章 私のために
死因は窒息死。姉に首を絞めてもらう事は出来なかったが、首を吊るなり道具を使って自分で絞めるなり、方法は他にもある。
項目が全て埋まっていることを確認したアキヒトは一つ頷くと、「これで問題ありません」と言った。
「それで、どうやって死にますか?」
「えっと…うちはベランダがあるから、そこの柵に縄を括りつけて…」
栞が具体的にどうするか語り始める。それをアキヒトはただ聞いて、たまに「そのやり方ですと少し問題が」と修正すべき点をあげていった。
栞の自殺が本格的に計画されている。自分の手の届かない範囲で。
そう感じた稔は栞の肩に手を伸ばしたが、なぜか触れることが出来なかった。
手が震え、動けなくなってしまった。
見えない壁が、なんて非現実的なものではない。怖くて触れられないのだ。
また栞が自分を拒絶したら、今度こそ本当に全てを失ってしまいそうな気がする。
(ダメ……やめて……)
止めようとしても言葉が出てこない。月並みの言葉では栞を止められない。稔の中で焦りが生まれ、全身からドッと汗が噴き出した。このままではいけない。そう分かっているのに止められない。
何をすればいい? どうすれば栞を止められる?
答えはいくら考えても出てこなかった。
栞が、妹が死神に連れていかれる。美しい女神のような姿をした死に、奪われてしまう。
このままでいいのかと聞く声が頭の中で響く。その声に稔は否と答えた。
ならば動けと本能が叫ぶ。けれど四肢は凍り付いて動かない。
「では、首つりでよろしいですね?」
アキヒトが満足そうに頷き、栞が微笑んだ。幸せそうに。その瞳から大粒の涙を零しながら。
その涙が栞の本心を語っているように見えて、稔は自身を戒める恐怖の鎖を引きちぎった。
「私の為に生きてよ栞!」
なんて自分勝手な願いだろう、と稔は自分を嫌悪した。こんな、こんな栞が命を絶とうとしているその瞬間に出る言葉とは思いたくなかった。これは栞の為を思っての言葉ではない。自分が、何よりも自分が彼女を失いたくないから出た言葉だ。
予想外だったのだろう。稔の声に栞は驚いた様子で稔を見つめた。死に捕らわれていた妹が初めて自分を見た気がした。
心の底から誰かが叫んだ。今しかない。止めるなら今しかない。栞の凶行を止めるには、今ここで最適な言葉を伝えるしかない。
でも稔には何が最善なのか分からなかった。それに、そんなことを考えている余裕はなかった。ただ自分の想いを言葉にして叫ぶしか出来なかった。
「死にたいなんて言わないで! お願い、私の為に生きてよ! 私を一人にしないでよ! 私には栞しかいないの、貴方しかいないの! 栞じゃなきゃだめなの! 本当に私を理解してくれるのは、栞だけなんだよ!」
友人なんて上辺だけの付き合い。両親なんて血がつながっただけの他人。何よりも誰よりも、おそらく自分よりも自分の事を理解してくれているのは栞だけ。稔はそう確信していた。栞が自分に助けを求めたように、稔は栞にしか本当の助けを求められない。
稔は瞳から大粒の涙を零しながら、栞を真っすぐ見つめた。
「私を殺さないで、栞」
死んだように生きていたくはない。栞が死んだその時に、稔の心も死ぬ。それを伝えたかった。
栞のいない未来が頭を過れば、耐えられなくなって両手で瞳を押さえた。こんなに泣くつもりはないのに、次から次へと悲しみがあふれ出して止まらない。
「稔……」
栞は恐る恐る手を伸ばし、稔の頭を抱き寄せた。
「ごめんね、稔」
それでも私は死にたいの。
その言葉を栞は飲み込んだ。
死ねば苦しみから解放されるだろう。けれどそれは稔の苦しみと引き換えに得るものだ。
栞はなにも、稔を苦しめたい訳ではなかった。
どうすればいいのだろう。
答えの分からない問いに栞は視線を彷徨わせ、鏡に映るアキヒトに視線を向けた。鏡の中でもアキヒトは微笑んでいる。
どちらを選んだとしても不満がないというような、そんな表情をしているようにも見えた。
「…死神さん」
「はい、なんですか?」
栞に呼ばれたアキヒトは優しく答えた。
まるで栞の戸惑いを理解し、これから紡ぐ言葉を知っているかのような言い方だった。
「私…やっぱり、もう少し先にする」
「栞…?」
先とは何の話だ。
稔の濡れた瞳がほのかに輝きを取り戻す。
そんな姉の瞳を間近で見つめて、栞は泣くように笑った。
「お姉ちゃんに苦しい思いさせたくないよ」
だから死ぬのはもう少し先にする。
稔はあふれ出る涙をそのままに栞を抱きしめた。
失いたくない存在がようやく戻ってきてくれた。それも自分の為に、他でもない私の為に。
声をあげて泣く稔につられてか、栞も涙を流した。
苦しいのは続く、死にたい思いは抱き続ける。それでも今、この時、或いは稔が栞を捨てない限り、生きようと決めた。
「ごめんね、死神さん」
栞の言葉にアキヒトは微笑み、何も言わなかった。
それから数十年後の話である。
アキヒトは未だに自殺する人間を相手に、書類を書いてもらうため多忙な日を送っていた。
そんなある日耳にしたのは、仲の良い姉妹が天寿を全うしたという話だった。
それがどこの誰なのかまでは耳に届かなかったが、アキヒトは突然二人の少女を思い出した。
「どうなったんでしょうね」
呟きに答えるものはいなかったが、普段は冷たい雨が温かいように感じられ、アキヒトは空を仰いだ。