第四章 おやすみなさい
電車を乗り継いで二時間。タクシーに乗って四十分。歩いて五分程度。そうして着いた海は橙色に染まり、太陽を半分ほど飲み込んでいた。光を受けてきらきらと輝く水面が眩しい。目を細めて遠くを見れば、船が一隻海を泳いでいるのが見えた。
砂浜には誰もいない。人がいた形跡はあるが、今は無人であった。そんな場所に一人。正確には得体のしれない自称死神と二人きり、何をしているんだろうと途方に暮れるような思いであった。
ここに来るまでに分かったことが一つある。どうやらアキヒトは他の人間には見えていないらしい。本人が言うには「死神ですからね」とのことだった。
実際彼は――未だに彼女かもしれないという疑問が残っているがこの際放っておこう、彼は――切符を買うこともなく改札をすり抜け、駅員の目の前で無賃乗車し、タクシーの屋根に乗ってここまで来た。普通の人間ではありえないことである。
「風が気持ちいいですね」
同じように海を見つめていたアキヒトが長い髪に片手をそえて言った。ふわりと風を受けたカーテンのように広がる長い髪は、夕日を受けてオレンジ色に染まっている。キレイだな、なんて子供のような感想が一瞬頭を過った。
「このまま入水自殺しますか?」
夕日に目を向けていたアキヒトがこちらを向いた。彼の言葉でふと思い出したようにここにきた目的を胸の内で確認する。自分はここで死ぬために来たのだ。
靴を脱いで、靴下を脱いで、浅瀬に足を運ぶ。冷たい海水が指先から踵へ、足裏から足首まで包み込む。その感覚をなんとなく覚えていた。
「昔はよく家族で遊びに来てたもんだ」
誰に聞かせるわけでもなく、独り言として呟く。
朧になってしまった、自分の中では遠い昔の記憶。まだ小学生にもなっていない頃、両親や近所の友人、親戚と共に海に遊びに来ていた事を思い出す。その時は海と追いかけっこをして遊んでいたものだ。
形を変える波際に沿って歩く。いい歳した男が何をやってるんだか、そう思いながらも足を止めず歩いた。アキヒトは少し距離を保ちつつ後をついてきた。
「あの時は楽しかったな」
空を仰げば紺色の絨毯に星がちりばめられているのが見えた。もうじき夜が来る。まだ辛うじて顔を覗かせる太陽を一瞥し、亨は海水から出て裸足のまま歩き出した。その足はどこか目的地を見つけたように、迷いなく進んでいく。
砂浜から丘へ、丘から森へ、森の斜面を上がり、着いたのは崖の上だった。そこから見える海も太陽も、絵に描いたようにきれいだった。
亨はそれらを眩しそうに見つめたまま口を開く。
「なぁ、似非死神」
「アキヒトです。それに似非じゃないですよ」
瞬時に反応したアキヒトの声は少し不機嫌そうだ。たった数時間の付き合いだが、アキヒトにも人間らしい一面があることを亨は知った。
「俺はなんのために生まれてきたんだろうな」
その答えを亨は期待していなかった。何故ならアキヒトは亨の死を止めに来たのではない。見届けに来たのだ。そんな相手が今更「早まらないで」とか「貴方を必要としてくれる人がいるはず」なんて定型文を言うはずがない。
それにたとえアキヒトがそう言ったとしても、それで思いとどまるような状態ではない。だから亨は何も期待してなかった。
アキヒトはやはりドラマのようなセリフを言うことはなかった。けれど亨が予想していたように何も言わずにいる事はなかった。
「少なくとも、貴方のご両親は貴方が生まれた事を喜んでいましたよ」
そちらを見ずとも、アキヒトが微笑んでいるのはなんとなく察した。これは引き留める言葉ではない。質問に対するただの回答。そして、この世と離れる最後の一押し。
亨はゆっくりとアキヒトの方へと向き直ると、数年ぶりに笑った。それは心からの笑みであり、その目元に浮かんだ涙も心からあふれ出たものだった。
「そうか……短い間だったけど、ありがとう」
最期を誰かに看取られるのも悪くない。それがたとえ自分が生み出した妄想の産物だったとしても、あの家で首を吊るよりはいい死を迎えられた。
亨は最期に自嘲するように笑うと、忌々しい体を崖から突き落とした。
「おやすみなさい、石村亨さん」
波が岩肌を打ち付ける音だけが聞こえる。亨の体は海に飲み込まれ、そのまま姿を消した。この世界では一人の男が行方不明となっただろう。
アキヒトは亨が書いた自殺者死亡届を取り出すと、それを掲げた。すると紙は溶けるようにして消えていき、そこにはアキヒトだけが残った。
「さぁ、次の自殺者を迎えに行きましょう」
太陽の沈んだ海は暗く、亨が美しいと思ったあの眩しくも美しい世界は跡形もなく消えていた。