第三章 行きましょうか
生まれて初めて書いた自殺者死亡届は内容に不備があり書き直し、その次に書いたものは書き間違いがあってやり直し、三枚目は字が汚く読めないと言われ白紙の紙と交換、四枚目はくしゃみと共に飛び出た唾液で字が滲み新しい紙と取り換え、ようやく書き終えた五枚目でやっとアキヒトが満足そうに頷いた。
「はい、これで問題ありません。お疲れ様でした」
爽やかな笑顔を浮かべるアキヒトに対し、亨の顔には疲労の色が滲み出ていた。何が楽しくて自分の名前と住所と死因とその他もろもろを五回も書き直さなければならないのだ。こんな面倒な作業は就職するために書きまくった履歴書以来だ。
凝り固まった肩をほぐす様に回し、これでようやく死ねると安堵した。が、それで解放してくれないのがこの不審者であった。
「亨さんは海がお好きでしたよね? 今から行きましょう」
さて首を吊ろう、と立ち上がった亨の手を掴み、アキヒトがそう言った。
まただ。また邪魔をされている。こいつ本当は自殺を邪魔しにきたのではないだろうか。そう思うほどいいところで水を差される。
「海、遠いだろ」
「遠いですね」
「それに比べてクローゼットは近い。そこで首吊ってサヨナラだ」
「でも死因溺死ですよ?」
「なんだと?」
アキヒトが持っていた紙をひったくり確認してみれば、確かにそこには溺死と書かれている。こんなもの書いた記憶はない。確か窒息死と書いた筈だが。
疑う様にじろりとアキヒトに視線を向ければ、「死因って変わりやすいんですよね」なんてしれっと言ってのけた。書き換えた様子はなかったが、どうやら見えないところで書き換えたらしい。文字を消した後はないが書き換えたようだ。そうとしか思えない。
そう考える亨の目の前で文字がぐにゃんと歪み、死因が溺死から転落死に変わる。ぎょっとして見つめれば、ボールペンで書いた字は生き物のように動き回り形を変えていく。
「なんだこれ!」
「死因ですね」
「項目の話じゃない!」
ボールペンで書いた字が意思を持ったかのように動き回る光景など見たことがない。そう訴えればアキヒトは「まぁ普通に生きてればそうですね」と同意してみせたがそれ以上の反応はなかった。
こんなにも反応に差が出るとまるで自分が間違えているかのような錯覚に陥る。俺は普通だよな? なんて自問自答してしまう。もちろん質問の答えは「イエス」だった。やっぱりアキヒトがおかしいのだ。
とにかく、ミミズのようにビチビチと動き回る字を見ないように紙を裏返し、自殺者死亡届をアキヒトに返した。せっかく裏返したというのにアキヒトはそれをひっくり返して表に戻し、「元気な文字ですねぇ」と珍しそうに眺めている。
「とにかく! 俺はクローゼットで首を吊って死ぬ。いいな?」
「私に許可を求めるんですか?」
至極全うな問いにぐうの音も出ない。そうだ、別に自殺するのに他人の許可など必要ない。今後アキヒトが何をどう言おうとどうしようと無視してさっさと首を吊ればいいのだ。初めからそれに気づいていればこんな茶番しなくて済んだものを、自分は何故気づけなかったのだろう。
思わず頭を抱えて蹲る。無意識に深いため息を吐いてしまった。
とりあえず死のう。
そう決意すればウォークインクローゼットに近づき、首にかけるための縄を手に取った。後はそれを首にかけて……
「どうしました?」
縄を持ったまま動きを止めた亨に、何もかも分かっているような微笑みを浮かべたアキヒトが問いかける。その顔を見た時、亨は心の底から振り向かなければよかったと感じたが、胸にポツリと浮かんでしまった躊躇いが首つりを阻止し、心残りとして根を張ってしまった。
アキヒトは未来さえ知っているかのような、余裕のある態度で急かすこともなく亨の言葉を待っている。それが苛立たしいと感じた一方で、不思議とありがたいとも思った。
「……海、行くか」
風の音に消されてしまいそうな小さな声だった。自分でも驚くほど儚い声で、アキヒトには聞こえなかったのではないかと思った。もしも聞き返されたらなんでもないと言って首を吊ろう。そう決めたのに、アキヒトは子供を愛する母親のような優しい笑みを浮かべ
「はい、行きましょうか」
と、言った。