第一章 死ぬならもっと楽しく死にませんか?
年間二万人を超える自殺者。あらゆる理由を苦に自ら命を絶つものは少なくない。お金や仕事、人間関係……先の見えない不安が、耐え難い苦痛が見えない糸で首をギリギリと絞めていく。その痛みが限界を超えた時、人は死ぬのだ。
それは今まさに死のうとしている自分にも当てはまる。家族も恋人も、友人もいない。職を探しても見つからず、貯金の底が見えてきた。これから先、何をどうすれば希望なんて役に立たない幻覚が見えるようになるのだろう。
ウォークインクローゼットの鉄棒に縄を結び、垂れ下がったそれを輪っかにしてぎゅっと縛る。万が一にも解けてしまわぬように、何度も力強く縄を引いた。本当は天井からぶら下がろうと思っていたのだが、縄をかける場所が見つからず仕方なく低い位置の鉄棒になったのだ。
苦しいだろうな。死ぬまで時間がかかるだろう。それでも自分には死ぬ以外方法がないのだ。輪っかに首を通して首を吊る準備を整える。ふと、やり残したことはないかと考えかけたが、その考えはすぐに消えた。
足の力を抜いて首を吊ったからではない。何か思いとどまる理由を見つけた訳でもない。引っ越してから一度も他人を部屋に上げたことなどないのに、目の前に人が立っていたからだ。
女だろうか。いや、胸のあたりに膨らみがないことを見ると男か?
顔立ちは中性的で男女の見分けがつかない。ただ生まれてこのかた一度も目にしたことがない程の美貌を持っていた。精巧に作られた人形のような見た目でありながら、蝋人形のような不気味さはない。
腰より長いクリーム色の髪が、風もないのにふわりふわりと揺れている。その度に光が反射して、夕日に照らされた麦畑のようにきらきらと煌めく。
こちらを覗き込む瞳は目じりが垂れていて、子供を慈しむ母親のような優しい目つきをしていた。アメジスト色の瞳はやや細められ、微笑んでいるようにも見える。
桜色の唇はふっくらとしていて女性らしい。けれど分厚いわけではなく、どちらかというとスッと線を引いたようなきれいな形をしていた。
服はコスプレだろうか。腰の高さより少し短い、白いケープを着ている。その下にはワンピースと思われる黒く裾の長いものを着ていた。そして目を引いたのは白の腰マント。物語のヒーローやらヒロインやら、ともかく現実ではつけないであろう衣装をつけていた。
次いで目に留まったのは彼――彼女かもしれないが――の首にかかった紫水晶のペンダント。見たこともない紋章か家紋か、天秤をモチーフにしたような大きなペンダントトップ。最期に気づいたのは彼が後ろ手に持っている、死神が持つような大きな黒い鎌だ。
一体何者だろう。そもそもなんでこの家に上がり込んでいるのだろうか。どこから入ってきたのか。彼の目的は?
一瞬にして様々な考えが頭をよぎったが、全て意味のない事であった。何故なら自分は彼が殺さなくても死ぬわけであるし、彼に殺されるかもしれない訳である。どっちにしろ待つのは死だ。
「待ってください、石村亨さん」
これまた男とも女ともわからない声が自分の名前を呼んだ。呼び止めた。
亨は胡散臭いものを見るように、迷惑そうな表情で目の前にいる美人を見た。睨むような、とまでは言わないものの良い印象ではない眼で見られた何者かは、その顔に綺麗な笑みを浮かべ、口を開いた。
「死ぬならもっと楽しく死にませんか?」