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とある平凡な男の少しだけよかった日

作者: 長々と

一人の現代社会につかれた男が夜中に古びた古書店に入って少し元気の出るだけのお話

「人生の墓場である」


  子供の養をかぶっていたころ、それは現実味がなく、軽々しく使うには黒く重々しい表現だったように思う。年齢が三十を超え、壮年とも呼ばれる身になってみたところで、それは変わらない。


  ただ、少しだけ思うところがある。「墓場」というのは人が比喩表現として用いるにあたり、字としてあまりに強力であるが故、敬遠されがちである。が、しかし、だからこそ、この日々はそんな傲然たる言葉以外で表せないほどに異常な感覚なのではないか。


  就職は人生の墓場である。結婚は人生の墓場である。

  おかしな話ではあるが、「死」を等号でつなげて「無」とするならば、感動もなく、栄養のみを補給して、ただただ動き続けるだけのこの肉塊は、まさしく「無」であった。


  今になって思う。敬遠? 逃げていたのではない。納得できないだけなのだ。生きたままの「死」という、受け入れがたい世界観を受け入れてしまう自分を認めることができなかったのであろう。


  思えば大きな節目であるように思う。今年で35年目。最近では自らこれが「墓」であると公言するのに寸のためらいもなくなってきているように感じるのだ。


  認めてしまえば楽になった。 先に何も待つものがないということが、こんなにも自身に妙な安らぎを与えるものであると、どうして今まで気づかなかったのだろうか。

  今日は私の誕生日である。 ささやかなケーキを買って、ささやかな祝杯をあげようと思う。

  自ら建てた墓であがこうとせんばかりの、愚かしくもささやかな抵抗をすることは、往生際が悪いというよりはむしろ、己の塚を決めたのだ、という決意の表れなのだろう。


  いつもより上機嫌で帰り道の長い坂を下っていると、夜も更けてきたというのに、やけに煌々と明かりをともす店が視界に入った。


  感じたのは何よりもまず、恐怖である。通り過ぎてなお、瞼の裏から離れない薄燈色の光や、それが脳神経にまでこびりつくような感覚はどうしようもなく不快感を誘った。

  一度は通り過ぎたものの、やはり仕方なく引き返す。どうにも気になって素直に家に帰ることができなかったのだ


  実を言えば通勤で幾度となく通るため、このくだり道の店はすべて把握している。あの場所はたしか普段シャッターを閉じきっている古本屋だったはずだ。それがどうしたってこんな夜更けに。

 

  近づくにつれ目が慣れ、店内の人影がしきりに動いているのが視認できた。あれは店主だろうかと少々目を細めていぶかしげな視線を送っていると、向こうがこちらに気づいたように笑いかけてくるのが見えた。


「夜更けに騒がしくさせていただいております。非常に申し訳ない」


  彼は私の視線から近所の人間であると勘ぐったのか、いたずらっ子のように苦い顔で話しかけてきた。


「いえ、たまたま通りかかっただけでして。普段は開店している時間帯に居合わせないものですから」


  そう返すと店主と思しき男は少し茶色く色のついた歯を見せて二カッと笑った。


「普段は懇意にさせていただいているお客様の時間帯に合わせて店を開くものでして …何しろ小さな古本屋でございますから。ジジババしか来んもんで」


  言われてみれば、きびきびと動くゆえに印象が薄いが近くで見ればこの店主もまた、かなりのご高齢であるようにみえる。私はなおのこと今何が行われているのか気になった。


「それで、その、この時間に何をしていらっしゃったのですか? 失礼ですが、少し散らかっているように見えるのは何か探し物でしょうか」


  あたりには束になっている山がいくつかに分かれて、多少乱雑気味に置かれていた


「ええ、知り合いの一人に注文を受けたのはいいのですが、少々ニッチな趣味でして。とにかく母屋と店先でそれらしいものを探そうとしていたところでした」


  大きな机の上に並べられた大小さまざまな本は、合計するとゆうにご老人の体重の半分は超すだろうかという数であった

  いくら何でもご老体一人では夜が明けてしまいそうだったので本の山へ軽く手を伸ばすと、即座に彼から制止の手が伸びた


「申し訳ない。私に任された仕事ですんで」


  店主の相貌からは感情を読むことは難しいかと思われたが、彼はその目力と圧のみによって感情に留まらぬであろうものの、すべてを伝えてきた。


「手伝うというのならば、そこに座って一緒にお話をしてくれませんか。どうにも疲れて眠くてしょうがないのでね」


  そうまで言われてしまえばこちらはそうするしかない。そもそもこちらは彼らの仕事のイロハのうち、 イすら知らないのである。

  それからしばらく私たちは様々なことを話した。景気のことから、店主の鬼嫁の話。意外であったのは、間違いなく30年ほど程の年代差があるにもかかわらず、話が尽きなかったことである。実際はかみ合っていない話の連続ではあったのかもしれないが、不思議とそれすらもさしたる苦痛には感じなかった。


  そのうち、最初はこちらの話をただ聞くような構図であった店主も、自分の話をユーモアを交えながら話してくれるようになり始めた。


「昔は もう少し居たんだけどねえ。古書だとか稀報本とか集めんのに必死になってるやつで集まって古書店巡りをしたりとかさ」。


  年寄りの昔語り、とは不思議と思わなかった。それは彼の中で今につながっている話だと確信できたからかもしれない。


「古書って言ったって要は古本。知らない人からすれば価値どころかただのゴミとしか考えないのも頷ける話ではあるんだ」


  彼は山の中から少しだけ焼けて変色してしまった本を手に取り少し撫でた。


「大変申し訳ないが私も古書のことはよく知らないし、具体的にどんな魅力があるのかいまいちわかりません… あなたが古本に惹かれる理由とは、何なのですか」


  こんなことを聞くのは失礼にあたる。普段ならそう考えていたのかもしれない。しかし、今はこの奇妙な縁をもうひとつ踏み越えてみたくなった

 

 老人は少しだけ遊巡し、ポツリと


「わかりませんなあ」


 といった


「要は古本だ。といったのは私の考えでもあるのかもしれませんなあ」


  納得のいく回答とはいかないが、老人の中でもあやふやな部分なのかもしれない。彼は一度手を止め、また少しだけ考えると、ゆっくりした口調でまた話し始めた。


「こうやって、そう、手に取って、少しだけ撫でてみるんです。古書、骨董品、アンティーク、古いものはみんなそうなんですが…」


  彼は少しこっちを見て、一冊の古本を渡してきた。新品のきれいな本を持つときには感じないザラっとした手触りのようなものを感じた。


「その本、金がなくなったホームレスが二束三文で売っていった本の一つなんです」


  少し苦笑しながら教えてくれた。そして、山の中の本を一つ一つ指さしながら


「あれは別れたカップルが送りあってた本。あれは親が子供に向けて送った少しむつかしめな本…」


 そして、指先が私のほうを向く


「古本ってのは、そうだな。つながりなんです。いろんな人の歴史のどこか隙間に潜り込んで少しだけ何かを与えて、何かを奪って、それは夢だったり悲しさだったり楽しさだったり、そうして次の人へ渡っていく」


  語気はどこまでも優しさそのものであったが言葉は恐ろしく明瞭に耳に残る。


「そしてあなたも今私の1ページとなりました」



  それから2時間ほどが経って本が見つかったらしく、やっと閉店をする手はずらしい

  本が見つかったことは素直に喜んだものの、この出会いは自分が会社に通い続ける限りかなうことは無いような気がして、少しアンニュイな気分になる。


  店主はいつでもきてくれといってくれたが、次に来られるのはいつなのだろうか。 その旨を彼に話すと、少し待つよう言って彼は母屋から一冊のかなり厚い本を持ってきた。


「ゆっくり読んでくれ、あなたを助けるものかもしれない」


  彼がそう話した意図はよくわからなかったが、古めかしいわりに傷も日焼けもない本を渡されると、何か手放してはいけない感覚に陥った。


  店主がそれは礼だと言ってはばからないのでついには折れて半分の代金でその本を買い、惜しみつつ帰路につく。

  なんとも不思議な気分だ。まるで狐にでもつままれたかのような、何とも言えない感じが少しだけ心地よく、ケーキのことも忘れて少し小走りで急いで家に帰った


  家につく。いつものルーチンをこなす。少し潰れたケーキを食べ、酒を飲み。そして床につく頃に霧散してしまう程度の楽しい気持ちである。わかっていたことだ。

  それでも、今日はあがいた! というへんてこな達成感を抱いて横になるといつもより快善たる心持であった。今日の出来事は自分の墓にしてはとてつもなく華やかであった。そう確信した。


  ふと、老人にもらった本が気になる。寝る前に少しだけ読むか。と鞄から取り出し本を開中は白紙であった。

  違う。完全な自紙ではない。最初の300ページは何か、雑多なものが小さい文字でびっしりと書き込まれている。少し怖くなりながらも何ページが読み進めることにした。所々で字体が全く違っているそれは、中にはワープロで打ち出したものを糊付けしているものもある。


  これは……

「日記?」


  それは歴史そのものであった。どういう経緯か、いくつもの人の間を渡りヒトの歴史を人に与え、また一つ、また一つと増えていく人間の軌跡であった。

  めまいのようなものを感じた。店主はどうしたってこんなものを自分に渡したのだろうか。彼はゆっくり読めと言ったが言われずともこの本を流し読むことができる人間は稀であろう。読み終わったらどうすればいいのか。返すのか、受け渡すのか


  絶え問なく読んでしまうことはもはや必然であった。人の人生の喜怒哀楽すべてが盛り込まれたそれは、すでに最上級の純文学となり果てていた。

  明日も仕事だというのに私は本の前で悩んだ。 かれこれ1時間ほど悩みぬいた結果。とりあえず今日のことを書こうと考えた

  それは店主との出会いの話のみならず、掃きだめのようになっている胸のしこり。吐き出したい汚泥のような世界。すべて混ざり合ったひどく、どこまでもみすぼらしい文章で。字も明らかに震えていたが。それでも書く、書く、書く

  書き終えた瞬間、私は再び、しかしいやに心地よい「無」になって、意識を失うように布団に倒れこんだ。


 その日、私は「歴史」と化した。


今日も明日も、少しだけ元気を出していきましょう

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