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優しく、強く。

作者: 碧

「先生」私がそう呼ぶと先生は決まって「ん?」と言いながら皺の寄った優しい笑顔でこちらを振り向く。

 

 高校2年の夏が過ぎ去ろうとしている時だった。

教室はまだ蒸し暑く、扇風機をフル回転させ窓を全開にしていても座っているだけで汗が出てくるようなしつこい残暑にわたしは少し苛立ちをおぼえていた。

チャイムがなりみんながダラダラと席に着き始めた頃先生はやってきた。

「今日からこのクラスを担当します。知ってる人もいると思うけど一応言っておくね。数学担当の高井です。」そう言いながら黒板に高と井という字を書いていく。その薬指には年季の入ったでも丁寧に使ってきただろう指輪がついていた。私はボーっと黒板をみながらきっと几帳面な性格なんだろうななんて考えていた。

 私たちの学年は数学を少人数でやっていて夏休み後はクラス替えが行われた。そして私のクラス担当が先生だったのだ。

 私は先生のことを知っていた。

まぁ、「知っていた」と言っても名字と顔が一致するぐらいだった。

 この暑い中先生は汗ひとつ流さずワイシャツをピシッと着こなしている。そうそれはシャツからピシって音が聞こえるんじゃないかってくらい。奥さんがアイロンかけしてるのかなぁ。愛されてますねぇ。

暑さにやられたのか私は先生を見ながらそんなことを考えた。

先生は私の目線なんか気にもとめずプリントを配り始める。

真面目な人なんだろう。雑談はしないですぐ授業に入る。私はそんな授業が割と好きな方だ。私自身真面目な性格だったので授業に関係ない雑談(と言う名の下ネタや恋愛話)は正直好きではなかった。

先生は「ひー、ふー、みー、」と列を覗き込みながらプリントを配っていく。配られたプリントの内容はよく分からない(なにせ私は生まれつき数学が苦手なのだ)それでも先生は容赦なく「じゃあ、とりあえずそのプリント解いてみて。答え合わせは20分後にします。」とだけ言い放ち私たちの机の周りを歩き始める。

私は心の中でこんなの解けるわけねぇーよ、バカなんだからさ。

と下品な言葉遣いで自分のバカさを恨んでいた。

ペンは一向に進まない。ただプリントを眺めどうすることもできないXたちを見つめていた。そんな私に気づいたのか回っていた先生はこちらへ近づいてくる。(最悪だ…)授業初日から自分がバカだと知られ五分たっても白紙のままのプリントを見られると思うと急に恥ずかしくなったのだ。

先生はそんな私など御構い無しにプリントをのぞいてくる。コーヒーと煙草の匂いがした。プリントに影が落ち視界が暗くなる。「わからないのですか?」先生はおちつき払った声でそう言う。呆れられてるわけではないと少しホッとした。「はい。」私は小さくそう発して軽く頷く。「そうですか。次の問題もその次の問題も?」「はい、、」としか私は答えられなかった。わからないから進んでないんだろと自分のバカさと先生の質問に少し苛立っていた。そんな私に気づいたのか気づいてないのかわからないが先生は「シャーペン、借りてもいいですか?」といい私からシャーペンを受け取ってプリントにヒントを書いていく。「これを理解して解いてみればできると思いますよ。それでも分からなかったら手をあげてください。また来ますので。」と言って私にシャーペンを返し先生はまた教室を回りだした。「ありがとうございます。」私は少し不機嫌そうに先生に聞こえないぐらいの小さい声でお礼を言う。やはり聞こえなかったのか先生はこちらを振り向かなかった。

私はプリントに目を落とし綺麗な字で書かれたヒントと機械で作られた字を見比べ頭をフル回転させながら問題を解いていった。なぜだろう。私は数学が生まれた時から苦手なはずなのに解けてしまった。いや、理由はわかっている。先生がプリントに書いたものがあまりにもわかりやすかったのだ。どこがポイントとなるのかや解き方のヒントなどを先生はあの一瞬で全て書いていた。そのおかげで私は全部の問題が解けてしまったのだ。

「では、20分たったので答えあわせをします。」

先生の声でハッとする。私は先生が教えてくれてから夢中で解いていたのだ。

「では、問一から」

そういって先生は真っ白なチョークを持ち黒板に問題と答えを書いていく。チョークの音が心地よいテンポで聞こえてくる。私は自分の答えと見合わせながら丸をつけていく。最後の一門を間違えてしまった。それでも私にしては上出来だった。先生が最後まで書き終わって前を向いたのでちょうど黒板を見ていた私は目が合ってしまう。それでも先生は何事も無いように目をそらし解説をしていく。だから私も何事も無いようにプリントに目を戻す。

 先生の解説はわかりやすいものだった。どうすればこうなるのか丁寧に、でも無駄なことは言わず無駄な時間はかけずに黙々と進めていく。最後の問題もなぜ自分が間違えたのか理解できた。

 初めてだった。数学が楽しいと思ったのは。

 

 それから秋が来て冬が去っていった。先生と私は何も変わりなかった。

授業をする先生とそれを真面目に受ける私(たまに寝てしまったことは内緒だ)

何も変わりない、そう思っていたのは多分先生だけだろう。私の心は少しだけ先生に寄せられていた。

他に用があって職員室に行ったはずなのになぜか先生を探してしまう。居たら少し気分が上がりほんの少しだけ速くなる鼓動を無視し職員室に入って用事を済ます振りをして先生を盗み見る。

目が会うことはたまにあった。でも先生は最初の授業の時みたいに自然に目線を下にし、まるで最初から目が合ってないかのように仕事に戻る。私はショックを受けない。それでいい。そんな先生がいいのだ。

 先生は忙しい人なのか職員室にいない時のが多い。そんな時どこに行ってるのか私は知らない。少しだけ知りたいという気持ちもある。でも授業以外校内で先生を見たことはなくごく稀に廊下を歩いてるのを見かけるぐらいだ。知りたいけれど聞いてしまったら私が先生のことを気にしてるのがバレてしまいそうで聞けなかった。

 そんなことを考えているうちに二年生が終わろうとしていた。最後の数学の授業はいつもと変わらない。淡々と進んでいき目があっても何事もないようにそらす先生。私はふと名前を覚えてもらってるのか気になり先生を見つめた。(先生は目があった人を当てることが多いのだ)案の定目があう。先生は名簿を見ずに私の名前を呼んだ。未だに当てる前に名簿を見て名前を言う子もいるのだ。そんな中先生は私の顔を見て名前を言ってくれた。それがすごくすごく嬉しくて思わず元気よく返事をしてしまう。先生は少し驚き誰にも気づかれないぐらい小さく静かに笑った。私は先生をガン見していたので笑ったことに気づいてしまう。そんな私に気づいたのかしまったという顔をして咳払いをし「では、ユキさん、答えてください。」と真面目な声で言った。私は慌ててノートに目を落とし先生に答えを告げる。「はい。正解です。よくできましたね。」

先生に褒められたことが嬉しくて私の胸はまた高鳴る。

 

 そんなこんなで二年生が終わり三年生になった。

新しい教室で授業日程と担当の先生が書かれたプリントが配られる。そこに高井という字はない。ショックだった。すごくすごくショックだった。もう一生先生に会えないんじゃないかとさえ思った。大げさもしれない。でも私は結局職員室にいないとき先生がどこにいるのか知らないままで二年生を終わらせてしまったから同じ学校にいたって会えない日のが多くなってしまうことは事実だ。あの時変なプライドなんか持たずに素直に聞けばよかった。「先生の居場所は職員室以外だとどこですか?」って。

 案の定先生とは会わない日が続いた。噂だと二年生の授業を持っているらしい。羨ましい。と素直に思った。去年の自分がどれだけ幸せだったかを過去に戻って教えてあげたいくらいだ。そんな日が続いた中私は職員室に用事ができ行くことになった。先生がいるかもしれないと思うと少し胸が高鳴る。

「失礼しまーす」浮かれている気持ちを隠すように少し気だる気にそういい私は職員室に入る。用がある先生の所に行きながら職員室を見渡す。

いた。先生だ。見つけた瞬間心拍数が上がった気がした。あまりにも久しぶりだったので思わず見つめてしまう。そんな視線に気づいたのか先生はパソコンから顔を上げて前を見る。目があった。その瞬間私はただでさえ上がっていた心拍数がさらに上がったことに気づく。周りの人に聞こえてしまうんじゃないかってくらい大きく心臓がなる。思わず目をそらしてしまった。それはあまりに不自然に。やばい。ばれた。そう思ったと同時に焦り私は用事をさっさと済ませ足早に職員室を出た。そこから教室までどうやって帰ったかあまり覚えていない。ただ目をそらしてしまったあと先生がどんな顔をしていたのかそれだけが気になって仕方なかった。

 

 その後先生とはたまに廊下ですれ違った。でも何もなかった。本当にそれは自然に、私のことなんか忘れてしまってるんじゃないかってくらいに先生は「こんにちは。」とだけ言い過ぎ去っていった。

腹が立つ。見向きもしてくれない先生に対して、先生に話しかけれない自分に対して腹が立って仕方ない。

 そんな気持ちが最上点に達した私はついに先生に話しかけた。

 

 夏が近づいてきた蒸し暑い日の放課後

優しいオレンジの光に包まれた教室で私は先生に問う。

「先生、私のこと覚えてますか?」

先生は驚いてこちらを見る。

それはそうだ。「数学を教えて欲しいです。」と言って呼び出したのに教室に着いた途端数学ではなくこんな質問が飛んできたのだから。

先生は驚きを隠すかのように「数学はいいのですか?」と質問を返してきた。

「質問を質問で返さないでください。

それに数学を教えてくれなんてただの口実です。」

私は素直にそう告げる。嘘は嫌いなのだ。

「そうですか…。」

「先生、質問に答えてくれると嬉しいのですが…」

鳴り響く自分の心臓と緊張感にもう耐えられなかった。早く答えをもらってスッキリしたいのだ。

「ああ、失礼。質問の答えですが貴方のことは覚えてますよ。」

「本当ですか!!??」

私は嬉しくて思わず大きな声を出してしまった。

先生は少し笑いながら

「ええ、本当ですよ。

いつも熱心に授業を受けてましたよね。まぁ、その割にテストの点は…」

そういいながらいたずらっぽい顔でこちらを見る先生にドキッとして思わず目をそらす。

「それは言わないでください。あれでも頑張って勉強したんですから。」

「そうですか。それは失礼しました。」

小さく笑いながらそう言ったと思ったら急に私の頭に重みと暖かさがのしかかる。びっくりした。先生の細い指と大きな手が私の頭を優しく撫でる。心臓が破裂するんじゃないかってくらい鳴って顔が熱くなっていく。

今が夕方でよかった。暮れる前の真っ赤な太陽のせいだと言い訳ができるから。そんなことを考えていると頭から手が離れた。先生を盗み見るといつものような無愛想な顔でこちらをみつめわたしが何か言うのを待っていた。先ほど考えた言い訳を言おうかそれとも何故頭を撫でたのか聞こうか悩んだがきっと先生には全て見透かされてしまうし、気まずくなるのも嫌だったので言うのをやめた。私はかわりに違う質問を投げかける。

「先生はどうして数学の先生になろうと思ったんですか?」

ありきたりであろうつまらない質問に真剣に考えてくれる。

「そうですね…。

数学って得意不得意がハッキリと分かれる教科じゃないですか。」

「たしかに…。」

相槌をついた私を横目に先生は言葉を続ける。

「だからこそ、数学は得意ではないけど好きって思ってくれる人が増えたらいいなと思って先生になろうと思いましたね。」

「なんか、難しいですね。得意ではないけど好きってなかなか思えないですよ。」

「そうですねぇ。できないのに好きなんてなかなか思えないものです。でも問題が解けた時の喜びはきっと数学を好きになるきっかけにはなると思いますよ。だから諦めずに解いてみて欲しいです。そして分からなかったら聞いて欲しい。手助けをするのが教師の役目ですから。」

「かっこいいですね…。実は私初めての授業で先生が教えてくれて問題を解けたときすごく楽しかったです。あの時初めて数学が楽しいと思えたんですよ。だから先生には感謝しています。」

「それはそれは。教師にとって最大の褒め言葉です。数学を楽しいと思ってくれて、ありがとう。」

お礼を言うのはこっちなのに。

やっぱり先生は変な人だ。

「あと、私先生の字も好きです。」

「おやおや、すごく褒めてくれますねぇ。そんなこと言ってもなにも出てきませんよ」

そう言って先生は笑う。

「別にそう言うつもりで言ったわけじゃないので。」

私は今更恥ずかしくなってきて素っ気ない態度をとる。

「そうですかそうですか。」

そう笑いながら先生はスーツのポケットを探りイチゴ味の飴を取り出す。体温とスーツの匂いがついた飴が私の手に渡る。

「みんなには秘密ですよ。」

驚いたのと嬉しいので私は一瞬固まってしまう。 

「あ、ありがとうございます…。私口固いので安心してください。」

嬉しさを隠すように冗談っぽく笑ってみせる。

不安だなー。そう言いながら先生も笑った。シワがよってクシャッとなる。

言うもんか。誰にも教えない。すごく小さな二人だけの秘密。私にとってはすごく大きな先生との秘密。私はその時だけ先生と同じ場所に立てている気がした。

でもそんな時間はすぐに終わりを告げる。下校の音楽が二人だけの教室に鳴り響いた。

先生が腕時計を確認する。

「ああ、もうそんな時間ですか。」

こちらをみて

「もう帰りなさい」と穏やかな顔で告げる。

もし嫌だって言ったらどうするんだろう。まだ一緒にいてくれるかな。そんなことを考えたがこれ以上一緒にいても困らせてしまうだけだと思い、口に出すのはやめた。

「先生、また数学教えてくれますか?」

今日は数学なんかやらずにただ話していただけなので断られるかと不安になったが少し悩んだあと先生は

「えぇ、いいですよ。」と答えてくれた。

 

 先生にもらった飴を大切に持ちながら私は帰路を歩いていく。

 昼に降っていた雨に濡れて雫を被っている紫陽花がキラキラし草も葉っぱも建物も全部輝いて見えた。 私は今にも空を飛べそうなくらいの勢いでスキップをする。

嬉しかった。先生と話せたこと。飴をもらえたこと。笑ってくれたこと。また会う約束ができたこと。

嬉しい。嬉しい。嬉しい。

その感情しか出てこなかった。

 

 その後、廊下ですれ違うと先生と私は前と同じように「こんにちは。」とだけあいさつを交わす。

 でも一つだけ変わったことがある。すれ違う時かならず手が触れ合うのだ。

触れ合うと言っても掠る程度だ。手の甲だったり指先だったり。意図的かそうでないかは分からない。でも私はまだまだ子供だからいい方に捉えてもいいかななんて単純な考えをしてしまう。

 

 気づけば冬になっていた。

三年の三学期はもう卒業してしまったんじゃないかってぐらい登校日が少ない。自由登校なので行っても良いのだが行ったところでやることもなく、話相手もいないだろうと思い私はずっと家にいた。淡々と過ぎていく日々の中でも私は先生のことを考えていた。

今何してるかな。

授業中かな。

今日もきっとアイロンがピシッとかかったワイシャツを着てるんだろうな。

そんなことを考えていたら先生に会いたくなった。

ずっと家にいたせいで人肌恋しくなったのか好奇心が有り余っていたのかは分からないがいつもならしないような行動をしていた。

 先生に会いに行ったのだ。

 

 朝の8時半。

久しぶりの学校。久しぶりの教室。私は懐かしさを覚え一人教室を見回していた。

そんなことをしていると教室の扉が開いた。

ガラッ

私は音のする方を振り返る。

先生だ。

そこにはスーツをピシッと着こなした先生がいた。

「何してるんですか?」

そう言われて私はなぜか後ろめたくなり言葉を詰まらせてしまう。そして先生に初めての嘘をついてしまった。

「あ、あの、暇だったので…

 誰かいるかなーなんて思って来ちゃいました。」

本当は先生に会いたかったのだ。その会いたかった人は目の前にいるのに私は目を合わせることができない。

「ふーん。そうですか。

 でも誰もいなかったと。」

「そーなんですよ。びっくりしちゃう。」

私は気まずさを誤魔化すように下手くそに笑う。

「ではもう帰るんですか?」

先生は私とは正反対に落ち着き払った声で聞く。

「え、あー、そうですね。帰ろうかな。」 

しどろもどろになりながら私は答える。先生と話したいのにそれが言えなくてまた嘘をついてしまった。

先生はしばらく黙り込んだ後何かを思いついたようにこちらを見た。目があって思わず逸らしてしまう。そんなことは気にも留めなかったのか先生は悪戯を思いついた子供みたいに喋りだす。

「じゃあ、私とお話ししませんか?」

「え…?」

私は思いもよらない提案に驚きが隠せなかった。

「嫌ですか?」

拗ねたように先生は言う。

「嫌じゃないです!話したいです!」

 思わずがっついてしまう。

しまった。そう思ったのも一瞬だった。先生はいつもの優しい笑みを浮かべて

「それは良かったです」

なんて言うから私の心臓はまた心拍数を上げる。

そこから私と先生は他愛もない話をした。

 進路の話(この時私はもう大学が決まってたので主に私のいく大学について話していた)

 将来の夢

 趣味。

 好きな食べ物。

 数学の話。

 そして気づけば恋愛について話していた。

「先生は結婚、してるんですよね?」

私は今まで無意識に避けていたことをついに聞いてしまった。無意識に避けていた、と言うよりはそうしないといけない気がしていたのだ。結婚していることを先生の口から直接聞いてしまったら17歳の私は耐えられないと思っていた。

でも今なら、18歳になった私なら大丈夫かもしれないと思い聞いてしまった。(ちなみに私は3日前に誕生日を迎えたところだ)

「結婚、してましたよ。もう相手はいないですけど。」

「え…?」

伏せ目がちに過去形でそう答える先生に私は思わず

「どういうことか聞いてもいいですか、?」なんて言ってしまった。

しかし先生は優しい顔でこちらをみた。

「ええ。幸い時間はたっぷりありますし、こんなおじさんの話でいいなら全然お話しますよ。」

先生はこんななんかじゃないです。そう言おうとしたが話題が逸れそうだったのでやめておいた。

「聞きたいです。先生の話。」

代わりに私は短くそう告げる。すると先生はポツポツと話し始めた。

 何分話していたのか分からない。でも私は気づいたら泣いていた。

 先生が話してくれたのはこんな内容だった。

30ぐらいの頃同じ学校で教師として働いていた十個歳下のトミエさんに出会い恋に落ちて夫婦になったこと。

そして、七年前にトミエさんが心臓病で亡くなったこと。

 先生はポツポツと思い出を噛みしめるように話していった。初めてみた顔だった。その人を想い、いなくなってしまったことを悔やんでいる。そんな顔だった。

 

 泣いている私に気づきポケットからティッシュを取り出して私に渡してくれる。

それを受け取りわたしは頬に伝う涙を拭いた。

先生は窓の外を見ながら私にこう言う。

「貴方は優しくて繊細な人だ。その性格はきっとこれから貴方にとって味方にも敵にもなると思います。でも貴方ならきっと大丈夫。だから、誰かのために泣けるその心を忘れないでください。」

そういった先生の目があまりにも力強く光っていたから私は本当に大丈夫な気がして

「はい。絶対忘れません。」

そう告げた。

先生はこちらを振り向きシワの寄った笑顔でよろしい。とだけ言った。

「じゃあもしかしてそのワイシャツって自分でアイロンかけてるんですか?」

私はずっと奥さんがかけてるものだと思っていたからさっきの話を聞いてそれが気になってしまったのだ。

「変な質問ですねえ。

 そうですよ。これは毎朝自分でやってます。」

笑いながらもきちんと答えてくれた。

「すご。きれいですねえ。」

私は思ったことをそのまま口にしていた。あまりにも素直な答えに照れたのか先生は少し早口に喋り始める。

「別にすごくなんかないですよ。普通です。フツウ。」

「んー、やっぱりすごいですよ。フツウはこんな綺麗じゃないです」 

先生は照れたのか無言で窓の外を見ている。

「わたしずっと思ってたことががあるんですけど言ってもいいですか?」  

先生はこちらに顔をもどし不思議そうに私をみる。

「いいですよ。わたしが傷つかないことなら。」

なんて冗談交じりにいう先生は珍しく、少しかわいいな。なんて思ってしまった。きっと言ったら怒られるだろうから言わないけど。

「私先生のシャツみるとピシッと音がしそうだなっていつも思ってたんですよ。」

「ふふ、なんですか、それ。独特な褒め方ですねえ。」

「そうですか?わたし的には最上級の褒め言葉なんですけどね。」 

「それはそれは

 そんな言葉をもらえて光栄です。」

と笑いをもらしながら言うもんだから私は少しムッとして

「どうせなら思いっきり笑ってくださいよ」とわざととらしく口を尖らせて言った。

そうすると先生はまるでその言葉を待っていたかのようにさっきまで押し殺してた笑いを思いっきり外に出した。

笑い声が狭い教室に響き渡る。私もなんだかおかしくなって笑い始めてしまった。

こうして笑っていると私と先生は同級生なんじゃないかなんて錯覚しそうになる。

でもそうじゃないことぐらいわかっていて悲しくなってしまう。そんな私に気づいたのか先生はやっと笑いを止めこちらをみる。

「ユキさんは想い人とかいないんですか?」

そう聞かれどきっとした。

でも気づかれないように自然に続ける。

「想い人って

言葉が古くさいですよ先生。」

私はそう言いながらなんとか笑顔を作る。

「古臭いとは失礼ですね。

趣があると言ってください。」

「はいはい。」

あまりこの話を続けたくなくて次の話にいこうとしたが先生はそれを遮った。

「で、いないんですか?想い人」

珍しくしつこい先生に少し驚いたがこれ以上誤魔化しが効かないと思い白状して答えることにした。

「いますよ。」

私は勇気を出してそのひと一言だけをいった。

「おや、そうですか。意外ですねぇ。貴方はそういうのには興味ないと思っていました。」

私が勇気を出したのにな返ってきた答えがあまりにも的外れで笑えてしまう。

「どんな偏見ですか。」

「ふふ、失礼。ユキさんも年頃の女性ですもんね。」

先生は余裕ぶって笑っている。

私はそんな先生にムッとして焦らせてやろうと思った。

「気にならないんですか、

私の想い人。」

「気になりますよ。」

あまりにも直球で素直な答えに私は驚いた。

もしかしたら私のことを少しは気になってくれているのではないかと淡い期待まで持ってしまう。

「先生は私の想い人なんて興味ないと思いました。」

「そんなことないですよ。私こう見えてそういう話を聞くの割と好きなんですよ。」

ただの興味本位と知り少しショックを受ける。まぁわかっていたことだ。先生に淡い期待なんて抱くもんじゃない。

「知ってどうするんですか。」

私は不機嫌そうに言葉を投げる。

「んー、どうしましょうね、

あ、人生の先輩としてのアドバイスを差し上げます。」

「なんですかそれー」

私は思わず笑ってしまう。

「いいじゃないですか。大事ですよ、アドバイス」

私が先生のことを好きだなんて微塵も疑っていないんだろうなと思い少し悲しくなってしまうのと気づけよという怒りに任せて私はつい言ってしまった。

「私の想い人は先生ですよ。」

 

 しまった。そう思った時にはもう遅かった。口から出た言葉は戻ることなく先生に届いてしまう。

私は怖くて顔を上げられなかった。

 

 そこからはただ無言の時間が続いた。本当は一分ぐらいだったかもしれないけどわたしには1時間ぐらいに感じられた。

心臓はバクバク鳴っていて顔が熱い。手が震えている。

私はただひたすらに先生が話し出すのを待った。

 

「そう、ですか。」

たった一言そう告げられただけでもう分かってしまう。

今言ってしまったことは先生にとって迷惑でしかなかったのだと。

声が出なかった。言い訳をしようとしても謝ろうとしても喉に何かがつっかえてうまく言葉が出ない。泣いてしまいそうだったけれどこれ以上先生に迷惑をかけたくなくて必死に我慢する。

そんな私を見て先生はまた口を開く。

「正直イタズラかと思いました。」

「イタズラなんかじゃないです。」 

やっと声を絞り出せた。掠れていてうまく伝わらなかったかもしれない。

「ええ、わかっています。」

先生がそう言ってくれたのでさっきの声は伝わったのだと安心する。でもそんなことより返事が気になって仕方なかった。早くはっきりと断ってほしい。そう思い続けていた。

「返事ですけど、、、」

やっと口を開いた先生にわたしの心臓はまた破裂しそうなぐらい鳴りはじめる。

喉はカラカラで声なんてでなかった。

「私はあなたの想いには応えられません。」

わかっていたことだ。

それでもやはり辛くなってのどの辺りと目頭が熱くなる。涙がこぼれないように上を向く。

返事をしないといけないと思い唾を飲み込んでなんとか声を絞りだした。

「わかってました。私の想いを聞いてちゃんと振ってくださりありがとうございます。」なんとか笑顔を貼り付けたつもりだが本当はどんな顔をしていたのかなんてわからない。

先生は黙ったままだ。

私は下を向いたり上を向いたりして先生の返事を待った。

ようやく先生が口を開く。

「私は、妻を愛していました。今もその思いは残っています。もう居ない人を思うのは辛いと思われがちですが私は幸せです。」

何も答えられなかった。ただ必死に涙を目に溜めていた。そんな私を気にしながらも先生は続ける。

「あなたはきっと幸せになります。」

先生がきっぱりとそう言うから思わず顔を見てしまう。真剣な顔だった。その顔を見ていると本当に自分は幸せになれるのだと思ってしまうほどに。

「なんでそんなこと言えるんですか。」

「わかりません。でも、それでも貴方は幸せになりますよ。きっと。」

根拠のない返事に思わず笑ってしまう。

その拍子にさっきまで溜めていた涙がこぼれ落ちてくる。でもそんなことは気にせずに私は先生を真っ直ぐに見て最後の言葉を告げた。

「わかりました。私は、きっと幸せになります。先生よりずっとずっと幸せになります。だから先生、その時はまた私の話を聞いてくださいね。」

私はありったけの声を出して涙と笑顔でぐちゃぐちゃになった顔で宣言した。今はまだ先生のことを思って泣いてしまう夜があるかもしれない。でもきっと毎日一歩ずつわたしは幸せに近づいている。そう信じて生きていこう。

先生、さようなら。

「元気でいてくださいね。」

遠いところから先生がそう言った気がしたけど私はそれに応えず全力で走っていく。

 

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