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シュメール人の復活 〜ウル第三王朝の始まり〜(紀元前2112年〜紀元前2095年)

 アッカドが滅び、メソポタミアは再び無秩序に包まれた。グディ王朝がメソポタミア中央部のアッカドを支配し、シュメールは都市国家分立状態に戻った。しかし独立した都市国家の中で一際存在感を放つ都市国家があった。

 かつてはウルクの支配下にあり、アッカド帝国下でも反乱を起こした大都市——ウルである。



・シュメール人のシュメール人による統一国家


 アッカド帝国が崩壊したメソポタミアでは、大きく三つの勢力が台頭した。アッカドを滅ぼしたグディ人のグディ王朝、かつてシュメール最大の地域国家を築いたウルク、そしてウルク同様かつて周辺都市を併合して巨大化したラガシュである。当初は圧倒的だったグディ王朝は、元が遊牧民だったために政治下手で、都市の運営に失敗し多くの餓死者を出した。ウルクなど都市文明がキレて反乱を起こした結果、この三国分立体制になったのだ。


 このうちウルクの王が、支配下にあったウルにウルナンムという知事を派遣した。ウルク王が没するとウルナンムは王の後継者として独立し、紀元前二千百十二年、ウル第三王朝が誕生した。

……しかしウル第二王朝の実在が危ぶまれているため、第三王朝にはハテナがつく。シュメール王名表にウル第二王朝の王が一切いないのだ。しかし第一王朝との長い空白の時期的に、第二王朝があったとも考えられなくはない、こともない。まぁあったにせよなかったにせよ、慣習上ウル『第三』王朝として教科書には記述されている。

 ウルで王位に就いたウルナンムは、メソポタミアにおいて征服事業を開始した。あまり詳細な記録は残っていないが、彼の手による建築事業がウルク、ニップル、ラルサなどで確認されている。例えばニップルには城壁や運河を建設したらしい。

 軍事面においても、ラガシュ第二王朝の王ナンマハニを打倒するなどして、ラガシュを除いた(王を破ったとはいえ都市は落ちなかった)シュメール全域を封建的に支配した。沢山の都市国家の上に立つ支配権を得たということだ。そしてラガシュも時間の問題だったようで、ウルナンムの次代で陥落している。

 彼はシュメールの統一後、建設事業に精を出した。特にアッカド王朝時代に損傷していたジッグラトの再建、整備を始めたことは重要だ。ジッグラトは神殿でもあり、洪水時の避難所でもある巨大な塔を指す。後に幽閉されてきたユダヤ人がジッグラト見て、バベルの塔のモデルにしたと言われている。とはいえ完成は二代目を待たなければならなかった。

 また公文書もアッカド語からシュメール語に戻された。シュメール人のアイデンティティはまだ保たれていたのだ。


 

・ウル第三王朝vsエラム人


 ウルナンムのシュメール征服と同時期、北のアッカド地方はエラム人の王プズルインシュシナクが支配していた。

ここで、「あれ? アッカドに居たのはグディ人じゃないの?」と思った貴方は正しい。しかしグディ人がウンマやアダブと言ったシュメールの都市国家で支配権を強めたのは確かなものの、アッカドについては支配権が移った、またはそもそも支配できていなかったという説すらありハッキリしない。なんせ遊牧民であり、定住は苦手なのだ。

確実なことは、この先都市アッカドはかなり影が薄いということだ。そして気がついたらエラム人の支配下にあったという。


 エラムとはザグロス山脈とペルシア湾の合間、現在のイラン・フーゼスターン州のあたりを指す。類義語にスシアナという言葉もあり、これはエラムの中心都市スサとその周辺を意味する。

 メソポタミアと比べて乾燥しており、カールーン川、キャルヘ川、ジャラーヒー川などで灌漑農業が辛うじて行える程度だったために、エラム人はよく食べ物を求めてメソポタミアへ侵入してきた。

当時のエラム人は非常な大きな勢力を誇っており、西はアッシリア、アッカドから、東はホルムズ海峡まで居住地を広げていた。


 ウルナンムはシュメールをほとんど統一した後、アッカド地方へ侵攻した。ザル、アパアク、マラダ、アッカドなど主要都市を次々解放し、支配下に置いたのである。ここで考慮すべきなのは、統治形態がシュメールとは異なっていた点だ。

 通常、ウル第三王朝は(エンシ)の支配する都市国家の上に、王を束ねる王を置いた封建制に近い統治形態をとっていた。しかしアッカドに対しては、送り込んだ将軍に政治と軍事の両方を兼ねさせた。これはアッカドという戦略的緊要地形の重要性に端を発した策だろう。特に東方のエラム人がディアラ川流域からまたアッカド、シュメールへと攻め寄せてきた際の防衛には必要だと考えられた。

 こうしてシュメール人とエラム人の長きに渡る抗争の歴史が幕を開けたのである。



・「王は正義の味方である!」


 ウルナンムの功績として最大のものは何か? と問われれば、おそらく『ウルナンム法典』だろう。ウルナンム法典とは、紀元前二千百十年頃〜紀元前二千九十五年頃にシュメール語で粘土板に記された『法』だ。よく知られているハンムラビ法典より三百五十年ほど古く、世界最古の法典と呼ばれている。


 この法典一番の特徴は、王の責務が拡大したことだ。シュメール初期王朝時代以来、都市国家の防衛と、国の安泰や豊穣の二つが王にとっての責務とされてきた。しかしこの法典が定められたことで、社会正義の実現が王の責務に加わったのだ。王は思いやりや正当性といったものを保証する存在になったのである。また法を破ったものには具体的な罰が下されるというのも、ウルナンム法典の特徴かもしれない。これまでは王の裁量に委ねられてきたが、これからは法律に則って裁かれるのである。

 

 ウルナンムは十八年の治世の後、息子のシュルギに王位を継承した。ウルナンムは王位継承の後にグディ王朝との戦いで戦死したとされる。

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