間違って生まれてきた君へ (四)
君が三島由紀夫を読んでいたなんてちょっと驚きました。「自由と
民主主義」を信奉する君が「天皇は国体である」と言う三島由紀夫に
共感するとはとても思えないからです。実は、私は卒論で三島由紀夫
を選びました。もっとも一口に三島文学といっても彼は多才で、多岐
に渡って筆跡を残しているので、主に初期の作品しか取り上げること
ができませんでしたが、ここで三島由紀夫論を述べるつもりはありま
せんが、ただ、昨今の右派思想の凡そは晩年の三島イズムに依拠して
いると言っても過言ではないでしょう。思想はまず生まれ育った環境
に洗礼されるとすれば、三島由紀夫はその典型だったと言えるのでは
ないか。由緒ある家系に生まれ祖母によって特異な育てられ方をして
、それが三島文学を萌芽させたのですが、戦時体制下に多感な時期を
過ごし、そして「2・26」事件を間近で体験したことは後の政治色
を強めていったことと無縁ではありません。さらに、成年に達すると
戦火の拡大によって自らの死を決意したが、ところが敗戦によって体
制転換が起こると死を免れた生は弛緩して目的を失った。伝統文化に
根差した三島文学にとって戦後大衆文化を認めることは転向そのもの
だった。そして高度経済成長に浮かれる社会を尻目に、生き甲斐とい
うよりも死に甲斐を求めて彷徨った。それはたぶん太宰治にしても同
じだったに違いない。方や大義を求めて、方や情人を求めて。つまり
、彼らもまた君と同じように「間違って生まれてきた」と思っていた
のではないでしょうか。そして、おそらく全ての生き物もまた自分は
いったい何のために生れ堕ちてきたのか分からずに生きているのです
。 社会に関心のない君にはまったく興味がないかもしれませんが、
退屈なら読まなくたってかまいませんが、もちろん君も知っていると
は思いますが、三島由紀夫は自ら主宰した民兵組織「盾の会」の同志
と共に、まるで幼き日に憧憬した「2・26事件」の皇道派青年将校
さながらに、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて憲法改正のための決起を呼び掛
けたが叶わず割腹自殺して果てました。そもそも三島イズムとは、彼
が象徴的に語る「菊と刀」、つまり菊とは日本文化のことでその中心
は天皇ですが、そして刀とはそれを守るための軍隊のことです。彼は
、日本文化を守るために憲法を改正して国軍を備えろと主張していま
す。私の感想は一言でいってしまえば、伝統文化を崇敬する作家の「
死に甲斐」の大義を国家に求めた夢想だとしか思えません。とは言っ
ても、始めのうちはその名文に引き込まれて思わず共感しそうになっ
たことも否めませんが、しかし、それはたとえ戦勝国から圧し付けら
れたにせよ民主主義の否定であり、多くの国民が犠牲になった忌わし
い戦争をまったく省みない、それどころか自己の虚無を埋めるために
大義を求め国家のために死ぬことを美化した伝統文化に囚われた一文
化人の「文化防衛論」でしかないと思い改めました。そもそも国は文
化だけで成り立っているのだろうか?確かに戦後の大衆文化は軽佻浮
薄であるかもしれないが、しかし一方では先進国と肩を並べるほどの
経済成長を果たしたではないか。つまり国民は鹿爪らしいし伝統文化
よりも軽薄な繁栄こそを望んだのだ。百歩譲って「だって平和憲法の
ままじゃヤバくない」と言うなら民主主義の下でも改憲の手段がない
わけではないし、事実そういう流れは加速している。ただ、何よりも
「菊と刀」、そこには国民は不在なのだ、つまり天皇と軍隊を切り離
さなければ「国体は天皇である」と言う限り、権力者によって再び国
体護持の決定が天皇の名の下に行なわれるのは火を見るより明らかだ
。何よりも三島イズムはナチスやイスラエル、今ではイスラム国のよ
うな民族主義的原理主義とまったく変わらないではないか。そして、
今や三島イズムに洗脳された得体のしれない文化人がやたらと政治的
な影響を及ぼしているが、政治は宗教や文化の使徒ではない。つまり
国体とは、日本文化を子孫へと継承する日本国民そのものであって、
決して天皇ではない。私は、自らの命を賭してまで国民のためではな
く原理主義へ回帰するために戦おうとは思わない。天皇を選ぶか民主
主義を選ぶかと問われれば、紛うことなく民主主義を選ぶ。三島由紀
夫は天皇を根源とする日本の伝統文化と、それぞれの自由に判断を委
ねる民主主義制度が相反することは当然分かっていた。ところが、い
まの政治家は平気で天皇制と民主主義を掲げる。たとえば、古都京都
の家並みの揃った景観は日本の伝統的な美観の一つだったが、規制さ
れずにそれぞれの判断に委ねられた結果、家並みにそぐわないビルが
至る所に乱立して今ではすっかり美観はそこなわれてしまった。つま
り、日本文化を守るためには自由と民主主義は認められない。そして
まずその矛先は政治的に対立する共産主義、とりわけ日教組のある教
育界に向けられようとしている。私はどこの団体にも所属していない
が、左に傾けかけた船が今度は急速に右へと傾きはじめていることに
不安を覚える。教育現場はファナティックな政治イデオロギーの草刈
り場になってしまい、平等主義と競争主義が競い合っている。民主主
義の弱点は全体主義の揺さ振りにかくも無力であるということだ。し
かし、日本文化への回帰を訴える三島イズムも、また共産主義も、ど
ちらも自由と民主主義を否定する全体主義なのだ。
なんだか君を励ますためのメールが自分の職場の愚痴を聞いてもら
うことになってしまったが、正直言うと君のような優秀な生徒を不登
校にさせてしまったことは、担任を受持つ私にすれば実は学校でも肩
身の狭い思いをしているんだ。君はイジメられりしたことはなかった
と言いましたが、もしよかったらもう一度登校するつもりはないのだ
ろうか?