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二作目です。全二話でございます。
家を建てる時、キッチンはカウンターにしたいと彼が言った。
「今日子、おはよう」
彼が部屋の扉を開けて、すきまからひょっこりと顔を覗かせていた。茶目っ気たっぷりな彼の振る舞いに笑みをもらせば、彼もまた同じように微笑んだ。
「おはよう」
わたしの方に顔を向けたまま、彼は後ろ手で扉を閉めた。そうしてから瞳を部屋の隅から隅まで見るように回した。わたしもそれを追うように目を走らせる。少し色褪せたクリーム色の壁、風景写真の貼られたコルクボード、閉まったクローゼット。引き出しが引っ張り出されたままのタンス……。
「あ」
彼の目がタンスに注がれた時、わたしは思わず声を上げてしまった。
「何か出したの? ちゃんと引き出しは戻さないと」
困ったように口元に笑みを浮かべ、しかしひとり言をつぶやいただけのようなひそやかさで、彼はだらしなく口を開いたタンスに歩み寄った。ぱたぱたと、スリッパの底が床を打つ。
「ごめんなさい。わたし、忘れていたわ」
「いいよ。気にしなくて。それより、ここから何を出したの? 今日着る服は昨夜決めていたよね。靴下が気に入らなかった?」
定められた位置に押し戻した引き出しに手を添えたまま、彼はわたしを見た。わたしの表情から答えを探ろうとするようにまじまじと見つめて、その視線を足下に向ける。
「ううん、そうじゃないの。あなたと一緒に決めた黄色いワンピースに、このレースのついた靴下はとても素敵だと思っているわ。だから、そうじゃないの」
訝しげな彼の顔が少し怖く思えて、わたしは泳がせた目でタンスの引き出しがそのままの理由を探す。さっき、わたしはベッドに腰掛けて、アイロン台を向かいに引き寄せて。
彼が来るまでにとった自分の行動を頭の中で追って、アイロン台の上に手を這わせた。そこには四角い布が一枚広がっていた。
「あの、これ。ハンカチにアイロンを掛けようと思ったの」
アイロン台に広げられた、少ししわのある綿のハンカチを指でかき集める。手の中におさまったそれの端と端をつまんで、彼に見せた。紺地に、白や灰のチェック柄が入ったハンカチ。
「ああ、なるほど。アイロンか」
洗ったままタンスに押し込んでしわくちゃになったそれをとがめることもなく、彼はただ優しく微笑んだ。彼の指がそれにのびる。わたしがつまみ上げていることからハンカチは無防備な姿で触られ、床側の一辺がひらひらと揺れた。
「……こんなハンカチ、あったっけ」
ハンカチに触れる指が、裾をつまんだ。
「あ、あった。あったよ」
わたしの指の腹で挟んでいたハンカチは、彼の指のよって引き抜かれた。指の腹に布がこすれ、小さな摩擦感が残った。
彼の手に渡ったハンカチを、彼はしばらく眺めていた。繊維のすきま、しわのせいで歪んだ柄、洗濯をして褪せた色。すべての情報を目で読み取ってしまうんじゃないかと思うほど、静かに見つめていた。
「そうだね、あったかもしれないな。今日子。これ、タンスの一番奥にあったんじゃない? そこの引き出しは靴下のところだよね。間違えて入れたの、忘れてた?」
一通りハンカチを見た彼はそれを片手に、彼のそばまで近寄っていたわたしの背中に手を添えた。導かれて、わたしは再びベッドに腰を下ろした。そのとなりに彼も同じように座ると、二人分の重みにベッドがきしんだ。
「アイロンはコンセント繋いである?」
「あ、うん。アイロン掛けをしようとした時、あなたが来たの」
「俺が来た時、きみはぼうっとしてたけどな。考え事でもしてた?」
「かんがえごと……していたかしら。よく覚えていないわ。何か、考えていたのかしら……」
「覚えていないのなら、それはとりとめのない小さなことだったんじゃない? 無理に思い出さなくてもいいんだと思うよ」
「そう……。そうね」
彼の手によってハンカチがアイロン台に広げられた。
「これは俺のためにやってくれるんだよね」
言って、指がハンカチを撫でる。アイロン台に溶け込ませるように、しわをのばすようにハンカチがならされる。
わたしはうなづきながら、彼の真似をしてハンカチを撫でた。ときおり彼の指とわたしの指がぶつかって、わたしは驚いて指の先を硬くする。しかし彼はそんなわたしの硬い指先に指を絡ませ、親指と人差し指でわたしの指をさすった。皮膚と皮膚が混ざり合ってくっつきそうなくらい、丁寧に指の強張りを解かしてゆく。
「ねえ、指をつかまれていたらアイロンができないわ」
「あ、そうだった。ごめん」
最後の一撫でが合図のようになって、彼の指が離れた。わたしから言ったにもかかわらず、少しだけ名残惜しさを感じた。しかし彼の体温を与えられた指は水を吸った植物のように、しなやかに動き出す。
充分にあたたまったアイロンの持ち手を握り、面をハンカチの右下の端に押しつける。そこからゆっくりと端に合わせて左へ、戻って上へ。今度は左上の端から。最後は真中から放射状に。
いつ覚えたのかすら覚えていない、アイロンの掛け方。こうしたらハンカチもきれいに畳めるのだと、誰かが教えてくれた。
となりに寄り添う彼の体温を右側で感じながら、ハンカチに熱を加える。右側を封じられているため、肘が上手く使えない。彼の身体に肘をぶつけることがないよう注意しながらアイロンを掛けた。
アイロンをコンセントに繋いだ電源台へ置き戻す。
たまにアイロンの面が本当に熱いのか気になって触りたくなってしまうことがある。今もそうだった。熱いのだろう。そうでなければハンカチのしわがなくなるまできれいにのびることはない。それでも、触れたくなる。
彼はそれを知っている。だからわたしの右側にいて、アイロンを使い終えるとわたしから少し離れた机に置く。むやみに触れないようにするためだった。
「きれいにできたね」
自分のことのように嬉しそうな彼の声音に、わたしは何度か首を縦に振る。わたしの腰に彼の腕が回り、腰骨をつかんで引き寄せられた。わたしは与えられた熱を受け入れ、彼の肩に頭を預けた。ふわふわ、優しい手つきで頭を撫でられた。
身体を彼に預けたまま、あたたまったハンカチの端をつまむ。半分に折り畳んで、もう一度……。
そうしようとしたところで、わたしは手を止めた。
「待って。駄目だわ。端が合わない。アイロンを掛けたのに、畳んでもきれいに端っこがそろわない」
畳んで、重なる端と端を合わせようと試みる。無理にそろえると、筒状になったところが歪んでもっと不格好になった。
歪んだところのしわを伸ばしてみるが、そうすると端がずれた。
「ごめんなさい。わたし、アイロンも上手くできないなんて。どうしよう……」
どうにか美しいハンカチにしようと何度も広げたり畳んだりを繰り返したために、ハンカチはすっかり冷たくなってしまった。
「大丈夫だよ。きっと洗濯をして形が崩れてしまったんだ。きみのせいじゃない」
「でも」
「これはこれでいいんだ」
ハンカチを畳もうとするわたしの動きを止めるように、彼がぎゅっとわたしを抱き込んだ。わたしの腰骨が彼の引き締まった脇腹に突き刺さった。
頭すら抱き寄せられ、大丈夫、という彼の声がわたしの髪に埋もれた。その声は髪を伝って、耳へ届く。耳に息を吹き込まれたような感覚に、わたしは唇を引き結んだ。
わたしはハンカチから手を離して、彼のワイシャツをつかむ。昨日の夜、彼に見守られながらアイロンを掛けたワイシャツだった。
彼の体温によってあたたまったそれは、柔軟剤の匂いを強く立たせた。彼がいい匂いだからと買ってきてくれた、ほのかに香るスズランと洋梨の匂い。
うっとりと目を閉じかける。それすら気がついているふうに、彼の手が頬を撫でた。
「仕事が終わったあと、二人で駅前にでも行こうか。新しいハンカチを今日子が見立ててくれ。それのお礼に俺はきみに髪留めを買うよ」
彼がわたしの髪に触れた。味気なく下ろされただけの髪は、わたしの手だけで洗いざらしていれば、ほこりすら絡めていただろう。
「ゴムがいい? それともバレッタにしようか。きみには花のモチーフが似合うと思うんだ。金より銀。あと淡いピンクとか、水色もいいな」
向かい合うように上半身をねじられ、彼の顔を正面から見上げる。にこにこと楽しそうに笑って、わたしの髪をいじっていた。一つに束ねてみたり、二つに分けて耳のあたりで持ち上げてみたり、上半分をすくってハーフアップにしてみたり。
「わたしはセンスがないから、あなたに任せるわ」
わたしに背中を向けさせた。指で梳いて下ろした髪を、彼が編み込む。
「そう言われたら、ゴムもバレッタも買うしかないな……。きみの髪は毎朝俺が結ってあげる。俺がいないと、髪が絡んでても気にしないからね。だったら結んでおいた方がきみはずっときれいだ。もちろん、絡まっていても今日子は今日子だよ?」
「ごめんなさい。あなたの手をわずらわせてばかりで」
「いいんだ。俺はきみのためなら何でもするよ。まあ、俺がしたいだけなんだけどね」
編み込んで、耳から下を一本の三つ編みにしたあと、彼は自身の手首に通していた黒いゴムで毛先を結んだ。
「今日の夜には、ここに飾りがつくよ。楽しみだ」
わたしは結ばれたゴムを触って確かめる。
「わたし、駅まで向かえばいいの?」
「いや。俺がここまで来るから、今日子は部屋にいて。化粧とかもしないで待っててほしい。俺がやりたい」
「分かった。わたしは待っていればいいのよね」
「うん。きみは、待つだけでいいんだ。待っていてほしい」
「分かったわ」
いつの間にか畳まれていた、しかしきれいではない歪んだハンカチを、彼はスラックスのポケットに差し入れた。それを見て、わたしは机の上に置いた小さな棚からポケットティッシュをとった。
「ハンカチだけじゃなくて、これも」
「ありがとう」
真っ白で汚れ一つないワイシャツ、深いグレーのスラックス。クローゼットから同じ生地のジャケットをハンガーごと出して、ジャケットを着やすいように広げ持つ。真っ暗なクローゼットから外に出たそれは、ほどよい光沢を放っていた。
彼はポケットティッシュを持ったまま、わたしが広げたジャケットに腕を通した。
「ありがとう」
本当に嬉しそうに彼は微笑む。
「これくらいのことしかできないもの」
言って、わたしは彼がポケットティッシュをハンカチとは別のポケットにしまうところを見届ける。
「……わたし、ティッシュケースでも作ろうかな」
「え?」
くるりと丸く開いた彼の目。
「こんなに素敵なものを着ているのに、ティッシュだけ剥き出しなのは変な気がするの。でも、やっぱり既製品の方が見目がいいわ。ねえ、夜――」
「作ってくれるの?」
ネクタイを締め直し、彼が言う。
まっすぐ注がれる視線の気が強く感じられて、わたしはどうしようもなく目をふせた。
「でも、失敗するかもしれないから」
「それでもいいよ。今日子が作ってくれるなら、俺はすごく嬉しい。ね」
諭すような、優しい色を含ませた語尾に、気がつけばわたしはうなづいていた。
「いつになってもいいから。待ってる」
彼の手がこちらへのばされ、ゆっくりと背中に腕が回る。静かに、警戒や驚きといったものとは無縁な動作で、わたしの身体が彼に密着した。背中に沿う手のひらが、わたしをわずかに押し上げる。まるで余すところなく、すきますら許さないといったように、触れ合った肌から空気をつぶす。
おそるおそる、わたしも手のひらを彼の背に添えた。ジャケットを汚さないように。しわにならないように。
しばらくそうしていれば、部屋の扉がノックされた。彼が返事をすると控えめにそこが開いて、相田さんがこちらの様子を窺っていた。
彼の肩越しに彼女と目が合った。美しい曲線で持ち上がったまつげが、離れていても際立っていた。
「お時間です」
聞きやすい、凛とした声で相田さんが彼に言った。
「ああ。今行く」
そのやりとりに、わたしは彼に添えた手を宙に浮かせる。彼はすぐ身体を離さず、もう一度わたしを抱きつぶす勢いで力を強めた。
びっくりして見上げる。彼はいたずらが成功した子どものような無邪気な表情でわたしを見下ろしていた。
「今日子。ちゃんと待っていてね」
うなづくわたしの頬に、彼は唇を寄せた。跡は残さない力加減で吸いつき、離れる間際に舌先で頬をやんわりと押していった。