蜃気楼の向こう側へ
紫陽花姫が印を組む。
すると庭の色と水たまりと影の色がまるごと混ざって、不可思議な“まざりものの鳥居”をつくった。
ゆらゆらと蜃気楼のように揺らいでいる。その先は見えない。
けれどそこをくぐるのだ。
美咲はちょっと怖気付いた。
”乙女の花園”には、沖常がついてこれない。お守りはたくさん持たせてもらったけれど。
「じゃあねお狐様! 夕刻までお預かり致します」
「承知した。美咲を楽しませるように」
「ひえええ行ってきますーーっ」
美咲の悲鳴が鳥居に呑み込まれてゆく。
そして二人は花姫に囲まれながら、お茶会をするのだろう。
あの着物の柄のように華やかに笑う時間になると良い。
神の庭には鳥居だけが、しっとりと情緒を残してそびえている。これが在る限り、美咲が帰れなくなることはない。
「……はあ。もっと見ていたかったな」
「沖常様の感性に新たな影響を与えそうでしたのにね」
思い出す。
参番目の尻尾を揺らしながら。
障子を背景にたたずむ、あでやかな着物の少女。黒髪が結われて艶めき、その艶をつくったのは彩りの神の与えたもうた柘植櫛であるし、施された化粧も【四季堂】の品、沖常を見つめかえして照れてしまえば露わな首の後ろがほんのりと赤く染まったのだ。
これらを素敵だと感じるのは、当然だ。
彩りの神は良いものを作ることを生業にしているのだから。
「もしや悪い影響だったかもしれない。いい意味で……ふふ……」
「意味がこんがらがる、よせ。こら、無表情で声音だけ笑うのは不気味だ」
「鬼ですから」
「美咲が花姫たちと遊んで楽しんでくるのが楽しみだな」
話題をそらした。
沖常らしからぬ言葉の重ね方になってしまったのは、感情が先走る"参"の影響。
まだ馴染まないなあ、と沖常は口元を押さえて困った様子を見せた。
(六月には雨の影響を受けておられますが、今年の乱れ方はそう、風情がありますね)と、彼岸丸は沖常の首筋もほんのりと赤くなっているのを眺める。
情緒なのだろう。鬼にはよく分からないから、他人を通して知ってみたいこと。
というわけでもっと美咲の話題を振る。
「気分転換になればいいですよね。──美咲さんはここ最近、家事のしすぎです。家全体が湿気っているからと、風呂のカビ取りから靴の湿気取り、雨戸の掃除に生ゴミの処理……。シンデレラってご存知ですか?」
「ああ知っているよ。西洋の昔話だな。紫陽花姫が“とれんでぃー”だと絵本を置いていった。日本のものとしては落窪物語と似ているな。たしか美咲の住処の隣には、紫陽花が咲いていたはずだ。そこから紫陽花姫が美咲の様子を覗き見して、俺たちへの暗示として絵本を置いていったのかもしれないな」
「わざとらしい忘れ物でしたからね」
「叔母がそうとう"参って"いるそうだ」
黒猫娘が料理をつまみ食いがてら、情報を呟いていったのである。
「ただ暮らしているだけで働かないと、貯蓄などまたたくまに減っていくのだと実感したようですね。その対策に始めたのが博打であり、借金が膨らんでおります。取り戻そうとさらにマイナスの資金をつぎ込み、精神が疲弊している。持ち家を手放すことになるやも」
「人は欲深い。その欲深さが良いものを作りもするのだが……人同士で足をひっぱりあうこともあり、ときには命眩しい子供にも当たる。……難儀だなあ」
美咲が心配だ、と沖常がぼやく。
くたびれた学生鞄が、手入れも忘れてしまっている美咲の余裕のなさを表していた。
これまでで最も焦がれる感情豊かな声を聞いて、彼岸丸はひくりと眉を動かして「参を離しましょう、お狐様」と言った。
今年の梅舞いまでの体慣らしは、じっくり進める必要がありそうだ。
全て戻したときに、もしも沖常が心乱されることがあれば、全力の白銀狐を止めることは鬼でも不可能なのだから。
なにか、気分転換になりそうなことを模索する。
沖常にとっては創作だろう。
「お狐様。人間用の変身薬をつくってもらえませんか?」
「可能だが、急すぎる」
「鬼ですから。いつも地獄で秒刻みの拷問スケジュールを行なっております。そんな私ですが、人間の気持ちを理解してみたいなと思いまして」
「それで人間薬?……雨上がりの虹をつかまえて、色をすべて混ぜて黒くする。この深みのある色で”人間”と書いた手ぬぐいを、頭に巻けば人間らしくなるだろう。……作るのを手伝ってくれ」
沖常が庭をあとにして、和室に向かった。
しわがれた婆様と入れ替わるようにして中に入っていき、ひょっこり頭を出して「早くおいで?」と言った。
「その混ぜ物を飲むつもりでしたが」
「それではなかなか元に戻らないだろう。鬼がいないと困るんだよ」
それはそれでいい気分だった。
彼岸丸は頷いて、沖常の作業の手伝いを始めた。
地獄では考えられないような、ゆったりとした時間が流れていき、ほうっと息を吐く間ものんびりとして、目に見えない心というものが整っていく。
虫眼鏡に虹を映して、絵皿にその虹を移してみせた沖常は、凪いだ声で呟いた。
「早く三年が経って美咲が解放されるといいなあ」
「悠長な沖常様が急いでるぜー」
「たった三年を気にかける日が来るとはなー」
「明日は雨が降るぜ」
「ワーオ。雨期だからなー」
「ええい、やかましい」
しっしっと炎子たちをはらう沖常は、尻尾がないのでいつもの調子を取り戻しつつある。
ぼうっとしていた彼岸丸はハタと瞬きして、ゆったりと一つ頷いた。
「では私にお任せください。沖常様がそのようなことを仰られたのは三〇〇年と二五日ぶりです。原因となったのは緑坊主の謹慎が決定したとき、泣いていた彼に早く時が経つといいなとお声掛けなさったのです。おおなんと慈悲深い。その前は平安の世だと聞いております。気にかけていた人間の罪状が早く判明するといいと、そうすれば弁明も共に考えてやれるのにと、そして……」
「黙ろう」
延々と続きそうな彼岸丸の話を聞いていたら、手元が狂ってしまいそうだ。そんなことをぼやきつつも、沖常は完璧に仕上げてみせた。
蚕婆様がそっと障子越しに渡してくれた手ぬぐいに、”人間”と、鬼が文字を書く。
彼岸丸は、沖常よりも人間をよく知っている。
ちょっと出かけてきますねと退室した。
「さて炎子たちよ。俺たちは和睦を図るぞ。話し合って感性をすり合わせ、元に戻った時にもう動揺しないように訓練をだな」
「まじかよ沖常様、秘蔵の琥珀飴出して〜」
「おれは最中がいいなあ」
「美咲が持ってきてくれた紅茶っていうの出そう」
「男子会しよーぜ」
「……我ながら自由だなあ」
「「「「沖常様は自由なんだぜ?」」」」
思い出してしまえよ、というように、炎子たちは獣じみて笑った。
どうやら足元が雨に濡れて本性が尖っていたようなので、全員カラカラに乾かしてやったら、ひゃあひゃあと柔らかく笑うようになった。
読んで下さってありがとうございました!
神様もいろいろ考えてる。
そして鬼は人間手ぬぐいまぬけな見た目でまじおもしろいと思ってるようです。




