影の神様
成人男性くらいの長い腕──と思っていたらそれ以上だ。こんなものは美咲は見たことがなかった。
にゅるりと長細い腕、これは神様というより妖怪という表現が似合う。
視線がこちらを向くと、ゾクゾクと鳥肌がたった。
ズゾゾゾゾゾ、と地面の影から出てくる様子は”おそろしい”。
美咲は初めて、神様を畏れるという感覚を知ったのだ。
(ぎゃーー―!?)
「叫ぶのを我慢して、美咲はえらいな」
(バラしていいんですかそんなこと!? たしかに口元抑えて半歩後ろに下がっちゃって、私がビビってるのなんて丸わかりですけど……!……ダメだ、今のおきつねさん「しまった」って顔してる〜)
いつもの頼れる歳上の精神はどこへやら。
しかし、美咲の前に立って背中を貸してくれるようなところはいつでも変わらない。
本質は、きちんと美咲の好きな沖常なのだろう。
(そこに気づけたのは、良かったかな。たまたまついでに呼ばれた影の神様は畏ろしいけど……)
「影の神よ」
沖常が呼ぶと、影はぐにゃりと歪んで、人型の口元は三日月のように弧を描いた。
バッ!と諸手を上げて歓喜する。
「彩りの神よー! やあ、どうしたってんだい? 君がこの庭にボクを招待してくれるなんてさ、珍しいこともあったもんじゃあねえかい」
(テンション高っ)
すうっと浸透してくる不思議な声で話し、影の神は“かぱり”と口を開けて笑った。
手をブンブンと振って、その度に腕の長さがわずかに変わる。影のように変幻自在。
ようやく美咲は、まじまじと影の神を見上げた。
なめらかな影色の肌、六月の日差しを編んだような白金色の着物をラフに引っかけている。黒髪はずるりと長くて、地面にまで繋がっているのは"影だから"だろうか?
顔は男にも女にも見える。
刃物で切りつけたように鋭い切れ長の目は、銀色。
ずるぅり、ずるぅり、と紫陽花の葉の下からやっと完全に這い出ると、二・五メートルほどもある。
西洋風のおおらかな礼をした。
覆いかぶさってくるかのようだ。
美咲は圧倒された。
「こらこら。そう恐がらせないでくれよ」
「影の神を人間が怖がるのは当然なのさ。はるか上方の神なのだから。……ん? それにしては、彩りの神の後ろに隠れるのは平気なようだ」
美咲は沖常の羽織の布地をキュッと指先でつかんでいる。
それとともに不思議なやわらかい感触が、羽織越しに手のひらに伝わってきた。ぶわりと膨らんでいるあたたかいもの。
(!?!?!? これって!)
「“美咲”」
「ひゃい!」
「ああ、影の神に従業員の紹介をしただけだから。君まで驚かせてすまないね」
(そういえば肆ちゃんは几帳面だった。今のおきつねさんはそこも反映されているのかな?)
「ボクが尋ねる前に予防してあげたっていうのかい? 名前を繋がせてくれなかった。呼んでおいて縁を繋いでくれないなんて、彩りの神はいつからそんなにケチになったんだい!」
(うわあ、拗ねてる……)
「従業員を守るのが現代の価値観らしいからさ」
「じゃあ仕方ないね」
(仕方ないんだ!?)
美咲はびっくりしつつ、状況を整理して「なぜ」を頭の中で言語化する。
……神々というものは、時代の空気を読むことを大切にしているのかもしれない。時代に存在しているということを、ことさら実感しているのだろう。
神の庭を眺めていたら、わかる気がした。
沖常が言っていたのだ、絶滅してこの庭に現れなくなった自然もあるのだと。幾人の花姫や動物の象徴もいなくなってしまったそうだ。
美咲の実家の近くにはたしか、朽ちてしまった道祖神の祠もあったことを思い出す。学校の帰り道にある小さな神社を認知しつつも、まだお参りに行ったことはない。
──神々は不安定にゆらめいている。
──だからこそ居ることが素晴らしい奇跡なのだ。
自分の中で納得した美咲は、うんうんと頷いた。
「ボクのこと無視して庭の影を見てた……だと!?」
「ひゃっ」
影の神が覗き込んできたので、美咲は沖常の背中を軸にぐるりと逃げた。
反対側に覗き込んできたので、またぐるり。
しばらくあっちへこっちへと小ぢんまりした追いかけっこが繰り広げられる。
影の神はキャッキャと喜び始めたので、困った。
「美咲。影の神では呼びづらいだろうから、カゲクンとでも呼んであげなさい」
「か、カゲクンさん?」
「また先回りをするんだから〜! 彩りの神は名付けも防いだ。くそう、緑坊主が愛称をつけてもらったと聞いていつか真似をしようと思っていたのにさ〜。……カゲクンさんって何さ」
かぱりと口を開けて笑った。なんだかんだカゲクンさんは「ウケた」らしい。
巨大で異様な容姿にさえ慣れてくると、笑い方や性格には愛嬌がある。少し離れてくれたので、美咲はまっすぐに影の神を見上げることができた。
「このボクにもう慣れたって?……まさかね。早すぎじゃないかい」
「あ、目が丸くなりましたね……アーモンドアイって感じで綺麗です」
美咲がそっと指差して伝えると、まったくそっくりに指差す仕草を返しながら、影の神は口をぐいっと笑みにする。
(あ、あれ? 思ったことがすぐ口に出て……)
影の神に引っぱられるように、美咲も笑っていた。
「もう正面から見つめて感想を言ってくるなんて、どのように躾けたの? なんて愉快なんだ。影は陰、足元を見るものが少ないからこそ、たまに見つめられるのが大好きなんだ!
特に六月はいい、雨宿りに影に来て、日差しよけに影に来る。涼む君たちを、影の神はいつだって愛おしく見つめているよ!」
(こわ……)
「はーーこんなに面白いものを独り占めだなんて、やはり彩りの神はケチだよっ」
「美咲にあまり近づかないように釘を刺したくてな、だからこそ会わせたんだ」
(そうなの!? おきつねさん、っていうか肆ちゃん、私に対しての言い訳と主張がブレブレだよ!)
「ケチすぎだよねーー!?」
影の神がビョーーンと長く上に伸びた。
薄っぺらくて、影送りをした時のように空高く見える。覆いかぶさるようにぐにゃりと曲がって、木陰みたいに庭全体を暗くしてしまった。
銀の瞳が、ぎらぎらと美咲たちを眺めている。さすがに美咲も怖くなって、でももう目が離せない。
怖いな、と言いそうになって、慌てて口を押さえた。
「影の神は、太陽に焦がされたらすぐ小さくなるからそろそろこわくなくなるよ」
「影だからね! アッチッチッチ……」
しおしおとしぼんでいって、影の神は元より小さな二メートルほどの長身に落ち着いた。
薄い手のひらで、熱気を払うかのように体の表面を叩いている。
なんだか見ているだけの美咲の肌までムズムズするような気がしてきた。
「もしかして……これが影の影響なんですか? だからおきつねさんは、影の神様が苦手? あっ」
「そう、彩りの神も(・)ボクが苦手! ああ切ないよね! ところで君は? 美咲」
影の神が美咲を指差す。
美咲も思わず、影の神を指差していた。
ひくり、と頬がひきつる。
「未知数なので、これから知っていきますね。おきつねさんが呼ばれたなら悪い神様ではないのでしょうし。あっ」
「面白いね!」
からからと影の神が笑った。
「六月は君たちの本心を露わにするよ。雨で綺麗に洗って、影が見守っていてあげる。さあ言ってごらん?……いてっ」
ぽかり、と沖常に叩かれてまた笑った。




