お茶会のしたく
乙女の花園に入るには、花の香りを身につけなければならない。
これは紫陽花姫が用意する。
美咲の方が支度するのは、艶やかな着物。
もう沖常が反物を選んでおいて、すでに仕立て始めているそうだ。
昨日の今日だというのに。
(そんな急に!? 私なにも言っていないのに……?)
「あの」
沖常は振り返らずに返事をした。
「蚕婆様に来ていただいて、奥の和室で手作業をしていただいているよ。花姫のお茶会までには間に合うだろう」
「ええ!?……そんな急に来ていただいて、お礼を言わないと」
「いや」
美咲があわてて和室に行こうとすると、沖常は強い力で手を引いて、転びそうになってしまった。
支えてもらったけれど、美咲はかなりの違和感を覚えた。
(おきつねさん……いつもと違う、よね……?)
そっけない。
顔を合わせてみれば、いつものように柔和に微笑む口元はどこへやら、今は困ったように引き結ばれていた。
「美咲。奥の部屋には入ってはいけないんだ」
「……蚕の神様に事情があるんですか?」
「ああ。正式には織物の神かな。蚕婆様は素晴らしい織物職人なんだが、誰かに見られながらだと作業をすることはできないんだ。昔、その姿を人間に見られたときに貶されてしまったらしい。美しい織物をつくった神がこのように醜いとは、と」
「……教えてくれてありがとうございます。私は部屋を開けないし、そのような言葉は絶対に言いません」
「うん。美咲が言うとは思っていない。ただ知っておけば傷つけ合うことはないから」
沖常はホッとしたように肩をすくめた。
けれどまだ、笑みは浮かべない。
廊下で沖常は立ち尽くしてしまっていた。
まるでこれからどうしたらいいか分からなくなってしまったように。
流れる四季のように次にやることを決めてしまう彩りの神なのに、初めて見る姿だった。
湿っぽい風にあおられて、沖常の雨期用の羽織がふわりと持ち上げられる。
それを手で押さえると、沖常はため息をついた。
(ん!?)
尻尾!!! と美咲は叫びそうになってしまった。
見たい。めちゃくちゃ見たい。
図らずも気分転換にはなった。
「おーい。廊下の窓を開けっぱなしにしているぞ。雨が降ってきたらすぐに閉めなさい、炎子」
「「「しまった〜」」」
トテトテと三人の炎子が走り寄ってくる。
(風で前髪が乱れておでこが見えてる。えーと、壱、弐、参……)
「肆ちゃんは?」
美咲は内心ドキドキしながら尋ねた。
炎子はこの店舗に四人滞在している。つまりいない一人が、沖常の尻尾として戻っているはずなのだ。
「「「留守」」」
「そっかあ」
(尋ねちゃいけなかったかな。まだ教えてもらえないみたいだ)
「尋ねちゃいけなかったかな……とか考えてる?」
「ん!? 壱ちゃん……その通り、かな。ごめんね」
「たまたま言わない予定の話題だっただけ。美咲が落ち込む必要はないんだぞ。だめだった時というのは、合わなかっただけなので、美咲が悪いわけでも嫌いになったわけでもないんだから」
壱の炎子はストレートに励ましてくれた。
はい、と弐の炎子が金平糖の小袋をくれる。
「っていうの、美咲がくれた手帳の星占いコーナーに書いてあった。現代の人間はそう考えがちなのか?」
参の炎子は呆れたように美咲の背中をトントンと叩いて、こっちを見てとアピールした。
「どうかしら? ちがうわね! って会話ができてたじゃないか。美咲、元気出せー」
「炎子ちゃんたち。ありがとう」
(肆の炎子ちゃんならなんて言うだろう。……多分、そんなふうに考えてる暇がもったいないぞーって言いそう。そして言い直しそうかな、もったいないっていうのはもっといい時間の使い方があったかもっていう意味、って困った顔で。ちょっと悲しそうに)
美咲が沖常を見上げると、その視線から逃げるように、空を見上げた。
うん、おそらく肆の影響だ。
すこし引っ込み思案なところがあるのだ。
「雨と影」
「唐突です……」
沖常の不思議な横顔を見て、美咲は胸が苦しくなる。
(なんていうのかな、肆ちゃんならこわくないんだけど……おきつねさんは背が高いから、圧があるっていうか……)
「「「沖常様。笑顔にしやがれ」」」
「おっと、すまない」
沖常が微笑むと、美咲は心底ホッとした。
涙目になっていたのを悟られないように、わずかに目を見開いて涙の膜を薄くして乾かした。
「おや……。……雨が降り続いていると、心もしっとり濡らしてしまう。影の中にしばらくいると眺める景色も暗くなりがちだな。──美咲、たしか薄曇りのメガネをかけていたんじゃないか?」
「えっ!? ええ、タブレット学習をしていたので」
バイトに来た時、先に宿題を済ませてしまおうと、二十分ほどタブレット学習をしており、その時にはブルーライトカットのメガネをかけていたのだ。
メガネのレンズは薄茶色なので、たしかに景色がわずかに影る。
「だから気持ちも暗くなっていたのもある……?」
「一理あると思うぞ。それにここは神気が濃いから……」
つまり、というのを美咲は一拍待った。
二拍。
三伯。
……やはり言葉を迷ってしまったようだ。
肆の尻尾の影響を沖常が受けていて、美咲はそれを気にしていただけなのだが、なんだか落ち込んでいるように見えたらしく、理由を絞り出したが自分でも納得はしていないらしい。
炎子に小突かれた沖常が、やっと続きを話してくれた。
「……影の神に会ってみるか?」
「ええええ」
「蚕婆様の裁縫が終わるまで、暇になるだろう。よし、よし……そうしてみよう」
(たしかお嫌いだったのでは? え、この思考の変化はもはや尻尾が本体? ヤケクソになってない? 大丈夫!?)
「こ、こちらにいらっしゃるんですか?」
「今から呼ぶのさ」
(ほらぁ冷や汗すごいじゃないですか!)
沖常は早足に歩き出してしまって、もう止める暇はなさそうだ。
廊下の雨戸を開けると、現れた神の庭の軒先に「てるてる坊主」をつるした。
「これは店頭に置いているものよりも効果が強いものだ。「食いしん坊のてるてる坊主」……見ててごらん」
真っ白な布地に墨で描かれた口が、ぱかりと開いたかと思うと、はるか空にある雨雲を吸いこんでいって、食べてしまった。
空にはぽっかりと雲の穴。
神の庭に、日差しが差し込む。
雨季特有の黄色みをおびた日差しがさんさんと注いだ。
潤った紫陽花の葉の下には、特別濃い影が現れている。
「影の神よ」
──ずるぅり、と影から腕が這い出てきた。
成人男性くらいの長い腕、影そのもののように黒い。
肩、上半身、頭── ……そこだけ銀の目がパチリと瞬いた。
こうして、人間の感性からズレてしまった沖常のうっかりによって、会う予定のなかった影の神と、美咲の縁が一時的に繋がれた。
このような偶然も、また面白いと言えるのは紫陽花くらいと言えるだろう。




