さわやかな後味
「そちらのスルメイカはどうですか?」
「ああ。割烹着が墨まみれだ」
「……私がやればよかったですね!?」
「何を言う。これから慣れていくんだよ」
「おきつねさんがイカを捌き慣れていないのに送ってくる海の神様もすごいですね……」
タオルを渡しながら、割烹着のしみを眺めた美咲が青ざめる。
この繊細な光沢のある割烹着、確実に高級品。一体どうやってしみ抜きすればいいのやら。沖常がなんとかするのだろうけど。
海の神には会っていないが、きっと豪快な性格に違いない。
「神々は自我が強い。以前カツオの礼をしたときに、従業員がいると知られた。彩りの神の口に海の幸が入るならと、嬉々として贈ってくれる。もはや送りつけてくるという表現の方が正しいな」
「な、なんだかすみません」
「なに、新しい変化が訪れて楽しいよ」
(おきつねさんはこういうところがすごい。私は変化をこわいって思ってしまうから……)
中学生の時に両親が亡くなってから美咲に訪れた変化は、まごうことなきトラウマである。
それがやっと、この【四季堂】で過ごすうちに、じわじわと癒されている。
「ほら、できた」
沖常が墨で汚れながらも捌いたスルメイカは、つるんと光るような表面をしていた。
それよりもさらに、沖常の顔が光るかのような笑みなので、ぷっと美咲が噴き出した。うん、大変よくできました。
「おかしかったか……?」
「いえ、上出来です! 墨袋を潰してしまっても、スルメイカの味が落ちるわけではありませんし、軽く洗ってそのまま調理してしまいましょう」
さらりと水に流されていく汚れ。
ここの水はことさらよく汚れが落ちる。
神の庭に湧いた水を引いているのだから、神聖な力があるのかもしれなかった。
キュッキュッキュッ……と、ねばりけのある音を立てて、スルメイカは輪切りになった。
サクサクサク、と新生姜を細切りにしてゆく。
新生姜の量は少なめに。辛みがうすいのでこの程度ではほんのりとしか香らないはずだけど、沖常にはちょっとずつ慣れてもらえばいいからと、美咲は気を使った。
ほっ、とわずかに沖常の狐耳が上を向いたのを視界の端に見て、美咲がクスリとする。
「お醤油、日本酒、みりん、砂糖。ひたひたに浸かるくらいの水」
鍋の中で、くつくつと初夏の恵みが煮えてゆく。イカがふっくら膨れて、じゃがいもと生姜の表面は調味料の色をもらって茶色くなる。
なんとも食欲をそそる。
「狐火ちゃん、出てきて」
鍋の下から出てきた狐火が、美咲の周りをくるりっと回る。
火が止まった。
味をしみこませるのにしばらく冷ます。
着替えをして、【四季堂】の店舗へ。
少しでも長く、この場所では働いていたいから。
「バイト終わりに煮物を食べるのが楽しみですね〜」
「ああ」
沖常がすぐに頷いてくれて、美咲は嬉しかった。
──バイトのあと訪れた台所にて。
「ど、泥棒猫―――っ」
「うみゃあ!?」
美咲が思わず叫んで指をさすと、鍋のそばでイカを咥えていた黒猫がビビビッと背中の毛を逆立てた。尻尾も膨らんでいる。
どろんと猫耳少女の姿になったのは、“猫娘”だ。
もともと妖怪とされる存在だったが、現代では情報通として、神たちにも重宝されている。誰かに飼われたりしないのが猫娘の誇りだが、この【四季堂】にはよく遊びにきている。そのついでにものを食べる時には、対価を払うのもまた猫娘の誇りだ。
「フン。無防備に置かれた神への供物、それもスルメイカなんてずるい」
「はいはいずるかったですね〜」
なお対価を払われる前にはこのような言葉遊びに付き合ってやる必要がある。
「ウチが一回噛み付いてあげる。猫娘の『神痕』でなにか良いことが起こるにゃあ」
「それなら対価として十分だな」
「私……痛いのはちょっと……」
「なにをいう。ほら、俺も新生姜を食べるから、美咲も猫娘に噛まれておきなさい」
「おきつねさんそちらを同等に語られますか!?」
「慣れていこう。良いことなのだから」
「ヲイ。慣れるほどウチに噛み付いてもらえると思うなよ」
猫娘はジト目で、沖常と美咲を悔しそうに見上げた。
しかし煮物の小鉢が配膳されると、うってかわって大人しく机に着く。ほかほかのご飯も盛られて(なんと炊飯器の極上炊き!)あたたかな食卓にみんなの表情も華やぐ。
「いただきます。アーーーーッ」
がぶり、と美咲の首筋が噛まれた。
雑な噛みつき方になったのは、猫娘が早く煮物を食べたかったからだ。首筋はヒリヒリするものの、旬の煮物のなんと美味しいこと。
ほっくりと崩れて甘みを残すじゃがいもに、噛みしめるとじゅわりと旨味が滲み出るスルメイカ。甘めの味付けに、新生姜がさわやかに香る。
沖常はおそるおそる箸を進めていたが、一旦味わってからは吹っ切れたように、もぐもぐとよく食べていた。
ほっこりと料理を食べて胃を満たせば、不安もほどけていく。
「おかわりありますよ」
「「食べる!」」
「「「俺たちも!」」」
沖常と猫娘が勢いよく応え、三人の炎子たちもまだわずかに残っていた煮物をせっせと小さな口にほうばりながらおかわりを望んだ。
(炎子ちゃんは狐火。狐火はおきつねさんの尻尾。白銀狐は九尾の狐……)
梅舞いの儀式が楽しみになってしまう。別の意味でも。
後日。
美咲の元に手紙が届いた。
手紙を手にとると、首筋の「神痕」はしゅわりと消えた。
【美咲さんへ。どうぞお茶会にいらして頂戴。乙女の花園にお連れ致します。紫陽花姫】
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