【夏編】久方ぶりの四季堂へ ★
六月は夏の始まり。
ぽつぽつと降り始めた雨は、地面にあたって飛沫になると風景を包んでいった。緑も、コンクリートも、人も、等しく濡らして、蒸し暑くあたためてゆく。水の冷たさのほんの一瞬のあと、生命力が上昇してゆく。
そして夏が来る。
ということを美咲は考えていた。
いやに詩的だ。
(だって今日から【四季堂】は夏商品だ〜って、おきつねさんが言ってたから。
私はなんか上手くまとめられなかったけど……おきつねさんなら、雨のことをどんなふうに表現するのかな?)
傘をくるりと回す。
透明なビニール傘から、雨雫がぴしゃりと飛んでいった。そのリズムが楽しいと思う感性を、褒めてもらえるだろうか、とほんのり期待した。
どのように表現しよう。
なんと、言葉をかけようか?
にぎわう商店街を抜けて、静かな細道をゆくと、お狐様の雑貨店【四季堂】が見えてくる。
六月の【四季堂】はしっとりと雨をかぶって瓦が濡れている。
しだれかかっている柳の葉先から、雨雫がぴちゃりと跳ねた。木影には何がいるだろうか。小さな神様がひそんでいたりして、なんて美咲は考える。
この店にはよく神様が遊びにやってくるからだ。
美咲がここにやってくるのは一週間ぶり。
中間テストがあったので、しばらく放課後のバイトをおやすみしていた。
そわそわとしながら玄関に立つ。
「こ、こんにちは……」
「おかえりなさい」
玄関先に置かれた”招き狐”が返事をした。なんだか不機嫌そうに。
美咲はつい「こんにちは」から再開しようとしてしまっていた。
叱られたのだ、これは。
けれどむしろ嬉しくなってしまう。
美咲はこの場所に待たれていた。
すうーーーと肺に空気を吸い込んだ。
「ただいまです」
「うむ!」
がらりと戸を開けて現れたのは、店主の沖常。
白銀の髪に、狐耳。青緑色の瞳をパチリとさせて柔和に微笑んでいる。唇はこれでもかというほどごきげんに弧を描いていた。
着物は柄入りでシワもなく、いつもより気合たっぷりだ。
ここまで歓迎されると美咲も肩の力が抜けて、微笑んだ。
「俺が【四季堂】の店主として従業員を迎えるのは当然だからさ。……」
「ん?」
何やら言い訳を始めた。
ということは、言い訳をしなくてはならない理由がある?
ドタバタしている背後があやしい。
美咲がひょいと背後を除くと、沖常は「あっ」とつぶやいた。
「あーーもーー! 沖常様ずるぅい」
「おれたちも美咲のお迎えの方が良かった」
「「そうだそうだ」」
四人の炎子たちが、文句を言いながら店の奥からころがるように飛び出してきた。
こんなに歓迎されて嬉しい。
けれど「お迎えの方が良かった」とは?
美咲が答えを出すまでもなく、正解が現れた。
「どうも。彼岸丸と申します」
「知ってます」
廊下の影からぬらりと現れたのは、身長二メートルもありそうな鬼。
能面のような色白の肌に変わらない表情、切れ長の紅目がジッ──と美咲を見据えている。
一括りにした長い髪がブワッと広がって、額の角がわずかに伸びた。なんなんだその謎の追い風は。
この鬼、登場を凝るという悪癖がある。
「彼岸丸さん……その風とか、とくに意味はないんですよね……?」
「ビビらなくなりましたね美咲さん。大変よろしい。そして沖常様たちにはビビって欲しかったのですが」
「お断りだ。俺は今、気分がいい」
「「「「裏方仕事はだいたい終わったからおれたちはヨシ」」」」
炎子たちがビシッと親指を立てた。そしてじとりと店主を見る。
「「「「沖常様はまだ雑務が残ってる」」」」
「あとで」
「後にしたら作業効率が上がりますか?」
「それはもう。久しぶりに美咲が来てくれたのがいい気分転換さ」
ここまで言われてしまうと美咲も照れくさくなるやら、冷や汗をかくやら。
「お、おそれいります」
と言うのが精一杯であった。
美咲が持っていたビニール傘に、沖常は目を向けた。しばらく視線が外れない。
「気になりますか? おきつねさん」
「その独特の呼び方も久方ぶりだな。──透明な傘か。雨粒ととても似た色なのに、雨粒をはじくとは。面白いなあ」
「この傘だと、使いながら前の景色を見ることができます。人にぶつかったりしません」
「合理的だ。人間らしい」
「恐れ入ります?」
沖常は人間が好きだ。
人間が生み出す道具にはとくに興味を示す。
自分が物作りをする神様であるからだろう。
彩りの神・白銀弧というのが沖常の真名だ。
四季の彩りをつかさどり、沖常が筆を走らせた柄が葉脈になるし、桜の花を色付かせる。他、神々の神具をつくったりもするかたわら、小道具や雑貨を人間におすそわけしているのがこの【四季堂】なのだ。
道楽で行われている店なので、たまたま美咲と縁があるまではなんと200年ほどお客が来なかったらしい。
その年数ですら、数千年在った神様にとっては「ちょっと長かったな」という感覚なのだ。
ほんの刹那。
だから沖常はたまたま縁があった人間をことさら可愛がり、構うようなところがある。
「人間はすぐに面白いことを思いつく。とくに自分たちの暮らしを快適にすることにかけては天才だ。このビニール傘、いいものだなあ」
「また買ってきましょうか?」
「今から行こう」
美咲を連れ出そうとした沖常の腕を、彼岸丸が「ガッ」と掴んだ。
「……冗談だよ。手を離せ」
「そうでしょうね。沖常様がやりたかったのは美咲さんに触れたかったのでしょう?」
「えっ!?」
「変な言い方をするんじゃない」
沖常は美咲の肩をパシパシと軽く叩いた。
ビクッとしてしまったので「ほらお前がからかうから」とため息を吐いた。
「どうだ美咲? 肩が軽くなったか」
「……あれ、言われてみれば?」
「影がかかっていたんだよ」
「影?」
美咲は背後を振り返った。
開けたままだった玄関の外は、雨降りの曇天で、影なんてできそうもない。地面はしとしとと濡れていて、水溜りが美咲のスカートを映すばかりだ。
それなのに、影とは。
「服にくっついていたんだよ、影が」
「ええ?」
「今日は影だらけだから」
「ぜんぜんわかりません……」
くしゅん! 美咲がくしゃみをする。
店先で話していないで入ろう、と沖常が美咲を促した。
また「おかえり」と嬉しそうに囁かれたので、美咲の耳がほんのり赤くなった。
玄関扉の横に置いてある一人用の椅子に座る。
そこからは店内の様子がよく見えた。
(棚の位置がすごく変わっている。通路が広くなっていて、開放感が感じられる。まだほとんど棚が空っぽなのは、片付けの途中に私が来てしまったからかな。……進んでる! 【四季堂】改装計画)
美咲はふるふる震えた。
まったくお客が来なかった店を有名にしてみようと、美咲がアドバイザーになり、改装を計画していたのだ。
(あとで品出しを手伝おうっと。そして夏用雑貨の用途を教えてもらおう。すごく楽しみ!)
初めて座る椅子もいい品だ。
なめらかな曲線を活かした木の小椅子。表面をつい何度も撫でてしまう。売り物だろうか?
そんなふうにそわそわしていると、沖常はあたたかいお茶を淹れてきてくれた。
「さて、影について話しておこうか。影とはなんだと思う?」
唐突に尋ねられて美咲は面食らった。
今日のバイトについて話すのだと思っていたから。
しかし自分の肩にも影があったというし、神様にとっては意味があるの問いなのだろうと、頭をひねる。
「──対象物が照らされて、対象物があることで光が届かなかった場所に現れる、本来の色の部分が"影"です。太陽がなければ地上はすべて影なのかも」
「……うん」
「あっ。正解がわかっちゃいました」
「美咲は聡いなあ」
「とんでもございません」
美咲がブンブンと頭を振ると、艶のある黒髪が軽快に跳ねた。
ふふふ、と沖常が笑った。
しばらく離れているうちに言葉遣いにちょっと距離感が生まれたのを実は残念に思っていたのだが、美咲の行動はコミカルで、この調子なら案外早く元どおりになってくれそうだと笑みを深めた。
窓を指差す。
「六月は雲が空を覆っているね。だから影に満ちていると言えるんだ。色がつながっているから影はどこにでも行けてしまうのさ。美咲の肩であったりね」
「どうして私の肩だったのでしょうか……」
「悩みがあったのでは?」
美咲は目をぱちくりさせた。
「中間テストの点数が気になってはいました。そういうことが影を引き寄せますか?」
「人の気持ちの落ち込みを「黒」と見ることもできるね。影に近しい色だ。だから寄ってきてしまうのさ」
「さすが色彩の神……!」
「さすが? そりゃあ、そうさ。と言いたいところだけど、ただ説明をしただけだから色彩の神として褒められるところは無かったような気がするが」
沖常の眉がハの字になってしまったが、狐耳がひくひくと動いている。
美咲はそれを注視する。
──再会とは雨のようだ。
なんだかひんやりとこわくなって、そのあとじんわり温かくなる。
雨が降ると地面が固まる。太陽に照らされてあたためられたら、潤った緑がぐんぐん伸びて大輪の花を咲かせるのだ。
窓の外は雨がやんだ。まだ夕焼け前の澄んだ黄色の日差しがさしこむ。
夏の始まりだ。




