つげ櫛と四季のスケジュール帳
こっそりと足音を忍ばせて洗面所に入る美咲。
鏡の中の自分と向き合った。
美しいつげ櫛を手にしているので、口元がにやけている。
沖常からもらったつげ櫛で髪を梳かしていくと、くせっ毛の美咲の髪はするりと櫛を通り、見事な艶を持った。
髪のひと房を梳かしただけでこの状態だ。美咲が固まった。
美髪効果が予想以上!
「えっ!? もう……おきつねさぁん……! すごすぎです!」
全体を梳かすと、エンジェルリングが輝く美髪となる。一度も髪が絡まらなかったし、いつもより跳ねも抑えられている。
ふるふると美咲が震える。
こんな素敵な贈り物には、スケジュール帳だけでは到底対価が足りないよ! とベッドに潜り込んで、身悶えてまた悩んだ。
(ああ、だめだめだめだめ。……私と話が合うのが楽しいからって言って、素敵なプレゼントをくれたんだから……。その好意を、単純な対価だけで考えるなんて失礼だよ。
お、思い上がりではないと思うけど)
美咲はドキドキと高鳴る胸を押さえた。
純粋な好意はとても嬉しかった。
枕に顔を埋めてすーはーと深呼吸、気持ちを落ち着かせる。
……数年前に家庭環境が変化してからつい自分のことを蔑ろにしがちだった美咲は 、反省した。
(……卑屈になってたな、私。身だしなみも疎かにしていたし、すぐ、私なんか……って一歩引いて考えちゃって。……自分を大切に思ってくれていた人が悲しむのにね)
綺麗になった髪をつまんで眺めた。
ほうっとため息。
(自分をもっと大切にしていい……のかなぁ。せめて、おきつねさんが気にかけてくれたくらいには)
うーん、うーん、と唸って考える。
自分を傷つけるのは簡単でも、上手に甘やかすのは実は難しいのだ。
いつもならまだ勉強している時間だが、最近忙しくて疲れがたまっていたので、早く寝ることにした。
「不思議。どうして、ただの一人のお客にこんなにも良くしてくれるんだろう?」
それは美咲から沖常への態度にも言えることだ、とは自分では気づかない。
春のあけぼのが優しく美咲を包んで、癒してくれた。
*
もう夜更けだというのに、沖常は店の机でスケジュール帳をわくわくとめくり続けている。
あくびをする気配もない。夢中だ。
「ほう……なんと面白い。月の満ち欠けが書かれている。星座占い、東洋版と西洋版? 斬新だな。
このような珍しい品を持って来るとは、やはり美咲は大した者だ!
……しかし、予定を書き入れようにも、俺個人の予定というものはとくに無いなぁ……。
そうだ、このスケジュール帳は【四季堂】の営業日誌にしてみようか?」
スケジュール帳の四月の項目とにらめっこを始める沖常。
もう過ぎてしまった日のページには、思い出を一言書いておくことにした。しかし、
「………………はて。この日は何をしていただろう?」
悠久の時を生きている沖常は、とても忘れっぽい……さらに性格は大雑把、もとい大らかなのだ。
数日前の記憶がなかなか出てこない。
こほんと咳払いして、とくに印象的な出来事があった日だけ、ページを埋めた。
簡潔に言えば美咲の来店日である。
「まあいい、気持ちを切り替えていこう。
五月からの予定を書くぞ。……この日は、新緑の色付け。緑の生命力の瓶詰めに、梅舞いの準備、風神との会合……」
空白がどんどん埋められていくので、沖常がげんなりと眉を寄せる。
五月は沖常が関わる神行事がとくに多い。
予定を縛られることを好まない沖常は、頬杖をつく。
「こうして一覧で見てみると、俺もなかなか忙しいではないか? もっと仕事ぶりを褒められてもいいのでは?」
周囲からの反応がないので、ただの独り言になっている。
「もちろん、現代人のように数分単位で動くことはないのだが。ええい、なんなんだこの細かな時間割は……!」
沖常はぼやいて、さっきから黙っていた狐火たちに、ふーっと強く息を吹きかけた。半分くらい八つ当たりである。
春風にまかれた狐火たちは「ひゃーーっ」とバランスを崩した。
また集結して、ボボッと身体を燃やしながら沖常をじっと見る。
「どうしたんだ、お前たち? さっきから睨んで。言いたいことがあるなら言ってみるといい」
沖常がむすっと言い放つ。
「ーーさすがに、あの娘を贔屓しすぎなのでは?」
「「「同意!」」」
狐火たちはパチパチ弾けながら主張した。
「なんだ? そんなことか」
なんでもないように言う沖常に対して、狐火たちは珍しく真剣に訴える。
「神に名前を告げたのは確かに重大だ」
「縁をつないだ礼を、沖常様から贈るのも分かる」
「でも神木を使ってつげ櫛作るのはやりすぎ。花姫の椿油もつけるなんて!」
「あまりに不平等な取引は、後々歪みを生むんだぞ」
最後の言葉はとくに重い響きを持っていた。
「ん……? 気に入った者を贔屓して何が悪い」
「開き直りよった」
狐火たちが「えーー」と文句を言う。
沖常は言い聞かせるような口調になった。
「いいか。美咲が運よく【四季堂】を見つけて、興味を持ち入店し、俺と仲良くなった。名前を告げた。この良縁をとても気に入っているんだ。
確かにひとつひとつの出来事はささやかで、彼女でなくてもできたことだろう。
しかし縁を結んだのは他の誰でもないあの娘なのだ。特別だろう?
お前たちが重要視した神木が大切にされているように、神様の特別になった美咲を、俺が贔屓したっていいのさ」
狐火たちは心から主を心配しているらしいので、沖常は穏やかな声で話を終えた。
沖常の主張を「神様の特別はちょー特別、かぁ……」「一理ある」「分かる」と狐火たちは納得し、唸りながらも火の勢いを鎮めた。
「「「「じゃあ、そんな感じで」」」」
「そうしよう」
沖常がうんうんと頷く。
全員ゆるい。
「何かあったら怒られるのは沖常様だしな」
「「しーらない」」
「鬼がくるかもしれないぞ」
「…………」
知りうる中で最も口うるさい仲間の存在を思い浮かべてしまって、沖常は頭が痛そうにこめかみを揉む。
「………………せっかく面白い商品を前にしているのに、このような話題なのはもったいないな。スケジュール帳を堪能しようではないか!」
「「「「現実逃避」」」」
「仕事用の感性を培っているのだ。お前たちも見てみるといい。
興奮して紙を燃やさないように気をつけること。ほら、ここには焚き火の絵が描いてあるぞ」
「おおー」
狐火たちと沖常はスケジュール帳を楽しむ。
この中の何日を美咲と過ごせるだろう、と、またの来店を期待しながら。
「そうだ、この店で働かせればいいのでは?」
「「「「沖常様よ……」」」」
狐火たちはさすがに呆れかえって沖常を見た。