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彼岸丸と黒猫

美咲は軽く店内の清掃をしていく。

一週間、まるっと店を開けていなかったので、空気がこもっていたのだ。

掃除の手際は彼岸丸にも好評だった。


「帰宅時間を少し伸ばしたようだが、大丈夫か?」


「今日は補習授業があるって……少し、嘘をついてきてしまいました」


美咲が目を逸らしながら尻すぼみに言う。


「まあ【四季堂】の仕事について学んでいたんだし、まったくの嘘ではあるまい。方便としてつく小さな嘘は可愛いものだ」


失望されなくてよかった……と、美咲は安堵した。

以前、素直さを褒められたから、少し心配になったのだ。

「むしろ嘘をついたと言ったことが素直だと思ったが」と、冲常が甘やかした。


「お店に来るのがとっても楽しみだったんです!」


満面の笑顔でそんなことを言うものだから、冲常も炎子も嬉しくなる。


「少し薄暗くなってきたな。家まで送っていこうか?」


「……っ!? いえ、バイトしていることは内緒ですから。おきつねさんのことを家族に説明できません……お気持ちだけ頂きますね」


美咲は息を呑むと、慌てて否定して、心臓がドクンと鼓動したことを誤魔化すようにカバンを胸に抱いた。

そんなことバレそうにないのだが、とっさに。


「今日もありがとうございました。明日から、またよろしくお願いしますっ」


挨拶をして踵を返す。

ぴょこんと跳ねたポニーテールには以前のような艶が見られず、冲常がスッと目を細めた。


「……そういえば、つげ櫛の使い心地はどうだ? そろそろ一度、椿油で手入れしてやるといい」


「えっ!? あっ、分かりました! お手入れしますね。使い心地はもちろん最高です! 大切なお気に入りですよ。本当に……とても大切な宝物です」


冲常がくいっと指を曲げて合図する。


「わーーっ!?」


美咲の足を風がさらった。

ふふっと笑う声に振り向くと、冲常がにこやかに手を振っている。


「緑坊主に守ってもらいなさい。それならいいだろう? 気をつけてお帰り」


(……あ、耳が伏せてる。心配してくれているんだな……)


「ありがとうございま、っうわあああ!?」


美咲は風に巻き込まれるようにして、帰路を吹き抜けていった。

見送った冲常は「ふう」と憂いのため息をつく。


「緑坊主が身内にいてくれてよかったな。つげ櫛の守りがない状態では、今の美咲はあまりにも目立っていて危ない」


「すっかり有名ですからね。神の世でも、半端者の間でも、美咲さんの噂は広まる一方。よからぬ輩に声をかけられて、攫われでもしたら大変です」


彼岸丸が相槌を打つ。


「……美咲に神々に優しく迎えられた経験しかない。近寄ってはいけない存在もいるのだと、これからしっかり教えていこう」


「甘やかし筆頭のお狐様が言うと、説得力があるようなないような」


「こらこら」


冲常は眉間にしわを寄せて空を仰ぐと、またふーっとため息を吐いた。


「お狐様。ーーあの娘からは死臭がします」


「!」


静かな声で、彼岸丸が発言する。


「もっとも、なごり程度のものですが。美咲さんの近況について話しましょう。

2年前、両親を亡くし、ろくでなしの叔母に引き取られた。実家は壊されて、知人のいない街の新築に強制転居。叔母に気を遣いながら、窮屈な暮らしを強いられている。

学校では友人と言えるクラスメイトもまだいないようです。

美咲さんは、ゆるやかに生きる希望をなくしていったのでしょう。自分では気付いていなかったでしょうけど。

【四季堂】に一人きりで入ってきたのも、あっけなくお狐様への警戒心を解いて懐いたのも、慎重な美咲さんとしては不可解な行動です。

半ば投げやりの、自分を大切にしない行動だったのです。いかにも繊細な年ごろの娘らしいと思いますよ。

両親がいる死後の世界に思いを馳せていたゆえ、”死臭”が染み付いていた。

魂がとても弱っていた状態だったので、お狐様の本来の姿が見えたのです」


「……それほどまでに思い詰めていたのか……。美咲は取り繕うのが上手すぎるな……俺はそこまでは気付けなかった」


沖常が眉根を寄せて目を伏せる。


「お狐様との交流で今はイキイキと生命力を取り戻しているので、悔いる必要はありませんよ。対応を間違ってはいなかった。あなたは彼女の大切な存在です」


冲常が自分の胸に手を当てる。

じっと黙り、心を見つめ直しているように。


「……間違っていなくとも、もっと気遣うこともできたのでは、と思ってなぁ……」


「ひとつ違う選択をしていたら、言葉選びが違っていたら。少しずつ経緯がずれて、今の関係が変わっていたでしょう。よろしいのですか?」


「……よくない。今が本当に楽しいんだ」


「何よりでございます」


彼岸丸が言い切り、会話を終わらせた。


「ありがとうな」


微笑む冲常の顔が、それは美しく薄闇に映える。

彼岸丸は見惚れるように少し沈黙し、ぐいっと親指を上に立てて見せた。


「どこで覚えたのだ……そのようなやんちゃなしぐさは」


「おや? これは現代のナウいしぐさだと聞いていたのですが?」


彼岸丸は小脇に抱えた黒猫に文句を言う。

黒猫は「うなぁ」と不満そうな声を上げた。

金眼で名残惜しそうに美咲が去って行った方向を眺めた黒猫は、顔をくしくしと毛づくろいする。


「情報源は猫娘・・か。やはりな」


冲常が呆れたように黒猫と彼岸丸を眺める。


「内緒の視察により、自然な情報を得ることができますから。申し訳ございませんが、お狐様の日常を少し探らせていただいていました。それから、美咲さんの家庭環境も」


「……よい、とは言いづらいなぁ。これについて、俺は叱るべき立場だから」


沖常がぺしんと彼岸丸の額を叩く。


「まあ察してくれ」


美咲の家庭環境について知ることができたのは彼岸丸たちの働きのおかげ。

それは間違いないが、お礼は言えないのである。


そして沖常は真剣な表情になる。


「美咲の家庭の懸念について話してくれ。

帰宅時間の厳守といい、美咲がつげ櫛を使っておらず気まずそうに嘘をつくことといい、異常だ。叔母の悪影響のせいか……かわいそうに」


「情報を共有し、相談を重ねて改善に努めましょう」


彼岸丸がドンと山盛りの書類を取り出したので、冲常はこめかみを押さえて頭痛を耐えた。


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