別室の美咲
美咲は別室へ──。
わざわざこぢんまりした一室が選ばれたのだろう。
六畳ほどしかない化粧部屋は、小さな空間しか好まないという嗜好の神のためにあつらえたものだった。本格的な化粧部屋は他にいくつもあるので、ここには鏡台が一つあるのみ。
「こういうところ好きですよ」
美咲が言った。
「あらそう? 良かったわあ」
黒い花姫はニコリと微笑んだ。
肩下くらいの黒髪は毛先がぴょこぴょことはねていてそれが愛らしい。黒から茶色へのグラデーション。
着物は目に痛いくらい真っ白で、漂白したように模様がひとつもなかった。
美咲はそのことを無遠慮に聞いたりはしなかった。
「障子から光が柔らかく差し込んでて、ほどよい明るさで落ち着きます」
「ものは少ないから影ができなくて美咲さんのお姿がよう見える。この部屋がいいと思ったんよ」
「ふふ」
「あら、今笑ってくれたん? 狐面を被ってるからよう見えなかったわ」
花姫は美咲の耳をくすぐるように撫でた。
「考えてくださったんだなあと思って。ええと、狐面はこのままでもいいですか……?」
「かまへんよ」
「砕けた物言いしてもらえたの、ホッとしてます。さっきの場所は畏まった方が多くて、花姫さんの話し方のほうが馴染むかも」
「お上手やねえ」
くすくすと花姫は可憐に微笑んだ。
目尻の泣きぼくろが目の角度に沿ってわずかに歪む。
「櫛はここにあるからね。うちに任しといてくれたら整えてあげる」
「お借りしていいんですか?」
「ええよ。美咲さんは丁寧やねえ」
「んんんん、どうでしょう……」
「あ! なるほどわかった。自分に自信があんまりない性格の子なんやね?」
「正解です」
美咲が苦笑する。
丁寧に髪が梳かれていく。
もともと結われていたところをできるだけ損なわずに、外にはみ出た髪をすくって、櫛の先端でそうっと編み込みの流れに入れてあげる。気の遠くなるような作業をスイスイと花姫はこなした。
「この調子やとすぐに終わっちゃうね。どうして乱れちゃったの?」
「彩の神……えっと、白銀孤さん? どう呼んだら正しいです?」
「うふふふふお狐様でええよ!」
「お狐様が連れてきてくれる途中に全速力を出したので、風がびゅうびゅう吹き込んでしまいました。すごかったんですよ〜、ひょいって抱えて風を操ってるみたいに駆けて。あのふかふかの尻尾って空気抵抗ないんですね」
「あははは!ごめんごめん、知ってたんや。けれどその発言が聞きたくて♡」
「花姫さんらしい」
「恋の話はうちらの心の栄養♡」
るんるんと鼻歌が始まった。
古い童謡だ。この花姫が咲いていた頃、近所で子供らが歌っていたのだろう。
ときどき、歌詞を間違えていた。美咲はそれを指摘するほどでもなかったので、メロディの古めかしさを心地よく受け取った。
「美咲さんはよく愛されとるねえ」
「そうでしょうか」
「ここでその質問はお狐様に失礼なんやない? ウフフ。なぜお狐様なのかというとね!」
「あーーーっ、て、照れる予感がしますから……!もしかして私バレバレなんですか?」
「バレバレやね」
「そうなんだ。ううう」
「花園にいた頃からずっと見てたもん」
「花園にいた花姫様なんですね」
ご挨拶が遅れまして、と美咲がひょいと頭を下げる。
いえいえこちらこそ、認知してもらえて嬉しいわあ、と花姫はクスクス笑った。
もう髪は半分結い終わりあとは花油をつけて上品な艶を出したら完了。
花姫の黒い爪先がそっと花油の瓶に入って、つやめきとともに指を出す。しずくが美咲の着物に触れた。
「あっっっ!? お、お狐様に叱られる……!」
「え!? 大丈夫ですよきっと……な、泣かないで。この着物って六月の雨にも耐えられるように、蚕婆様が雨を練りつつ織ってくださったんですって。花模様には紫陽花も入ってる、だから雨のことはきっと楽しみますよ。『素敵ネ!』って」
「そうかしらねえ……」
「大丈夫です」
とはいえ、花油である。
美咲も不安になってきたのか、頭は傾いていて狐面がことんと落ちてしまいそうだ。
「六月の着物は雨にも耐えられるように。美しい花模様は美咲さんのために。着丈はあなたの体に合うように、足袋は歩きやすいように柔らかく、素敵な理由にあふれているわね」
「花姫様? なぞられるとくすぐったいです」
「ああこのお面って”雑貨”やっけ」
美咲はこくりとうなずいて、狐面をきちんと付け直した。
「はい」
けれどそれを着けている理由は言えない。けして余興のような明るい理由ではないから。
美咲は困ったように小首を傾げて、ふふっと小声で笑みを伝えてみせた。
「美咲さんって無駄なものが好きなんよね。お狐様の雑貨店で、そう言ったんやって聞いた。
でもうちらのことは、祓うくらいに嫌いなんや」
花姫は黒髪をチリチリと毛先から燃やした。
怨みの情が着火して燃え上がったのだ。
みんなにちやほやと見られる綺麗な人の子。
みんなに優しく愛でられた特別な人の子。
それに比べて枯れかけの花のなんと情けない。
ずうーーーーーーっと羨ましかった。
黒の花姫は紅色に燃えた目をしゅんと伏せて、端が茶色に変色してしまった唇で美咲の耳元にしわがれ声を届けた。
「うらめしや」