旅立ちの心支度
「隣にいるだけで畏れ多くて、くらくらします……。……。あの、頬が気になるので……狐面をいただけませんか?」
「先日買った? いいだろう。向かうための心の準備に必要なのだろうから」
お化粧を施される予定だった顔は、狐面にそっと覆われた。
そのことを、残念だねとも、それでも似合っているよとも言わずに、沖常は手を引いてくれた。
美咲にとってはそれが正解だったのだ。
「頬は痛む?」
「……はい。けれど喋れます」
「喋れるけど、苦しいか?」
「……そんな息遣いになっている、かも、しれませんね……」
「よろしい」
(──ちゃんと素直に伝えられたことを褒められたのだよ〜!)
と、不思議な声が教えてくれたのだけれど。
(おきつねさんの声が、なんだか、はっきりと決意したかのように聞こえた……かな……?)
美咲は気のせいかと思った。……けれど、上位神の気迫によって肌がぞくりと粟立っている。
沖常は天を仰いではるか高天の上位の世を見つめている。頷きをひとつ。
「うん。梅舞いの時に、もうひとつ踊ることにした」
「踊りを……?」
「美咲の苦しさが晴れるように願って」
「!」
「彩りの神が願って、舞を捧げるんだ。何かが変わるさ」
「……っ」
そんなことまでしてもらえる人間だろうか? と自問しかけて、そんなことを願ってもらえるような人間にしてもらったのだ、と思った。
今。
彩りの神様がそう決めてくれた。
美咲ひとりではできないと思われた、けれど失望するのじゃなくて、潤沢に与えてくれた。
やはり沖常は”神様”なのだ。
(踊りの対価には、きっと途方もなくいいものを捧げなくちゃいけないよね……)
でも、欲しかった場所をもらえたから。
これを断る気になんてならなかった。
これからは何ができるんだろうと、美咲はあの暗い家からやっと一歩踏み出したような心地になって、頭を前に向けられた。
何度も気持ちを引き上げてもらった【四季堂】の雑貨の思い出が、髪の柘植櫛や被衣、香水に込められている。ちゃんと美咲を支えてくれている。
沖常は穏やかに、出会った時の春風のように呟く。
「何が、変わるかは分からないよ。けれど今の美咲なら、きっともう立ち向かえると思った。苦しくとも叔母に挑んでいたらしいからね。いいと思うものを伝えたのは勇気のある挑戦だった。あとは俺たちがまっとうに褒めたたえよう」
「っありがとう、ございます……!」
「涙はこらえてしまったか。──梅舞いの儀式の最後には、晴れ間に輝きの雨が降るんだ。だからその時に一緒に泣いてしまえたなら、気持ちが洗われるような心地になるはずさ」
「それは……すてきですね」
「そりゃあ、そうさ」
沖常はくすくすと喉で笑った。
音の響きを、美咲はやけに敏感に聞いている。
この被衣の影響だろうか。少しだけ神様に近くなり神気を纏っているからだろう。
神の世の門が開いたようだ。
ギギギギ、とやけに重たい音がする。
「すまないな、驚かせたか? うーん、下位の世から行くつもりだったのだが、美咲の家に寄り道をしてしまったのでね……」
『さらに下の下の底、冥界からご案内たもれ〜!』
美咲はびっくりして、固まってしまった。
冥界は暗く寒く底知れない闇がおそろしい。
被衣をかぶり狐面で視界を狭くしていたら耐えられるかと沖常は思っていたが……
(相性が悪かったか)と沖常が強引に新たな扉を作ろうとしたので、ちょちょちょ! と案内人が焦った声を出した。
そこでようやく美咲がハッとした。
「こ、この声の方に会えるとは……!」
『あ、驚いてたの、そっち?』
「なぜ直に知り合っているんだ……?」
『縁だよぉ、縁! だからお狐様そのだね尻尾膨らませるのやめてたもれ? ついつい独占欲出てるんだろうね、けれどやめよう? ほぅら残りの狐火たちのご案内〜!』
美咲の狭い視界の端に、チラチラと青白い光が舞う。
そして沖常の懐に飛び込んでいって、消えた。
隣の存在感が「ブワリ!」と増した。
九尾の白銀狐だ。
「ひええっ」
『そうそう。冥界通って地獄の横を抜けて、下位の世をかっとばして中位の世を駆け足三段跳び、梅舞の舞台に間に合うように行くならこの姿じゃなきゃあね〜』
(こ、今度はおきつねさんが眩しすぎて見られないいい! 手は繋いでくれているし、居るんだろうけど……)
「ここでもう狐火を連れてきているとは。相変わらずせっかちだな、千代」
『うむ、夏の間、風鈴がなる時期にしか降りてこれないものでね〜。生き急ぐしかないのさ。おっと死んでいた。いとあわれなり〜』
「ころころとした言い回しだな」
『受け入れてくれる柔軟なところ、いとエモし〜』
「……おきつねさんたちこそ、お知り合いなんですか?」
「前の【四季堂】の従業員というのが“これ”さ」
「えええっ!?」
『どもでーーす。千代と申します』
現れた人影は女人と見まごう艶やかな容姿をしていて、平安時代のような服装。
扉の向こうに広がる黄泉の川の上で、小舟に乗ってひらりと軽快に礼をしてみせた。
小舟に乗って川の流れを遡る。上へ、上へ。
読んでくださってありがとうございました!
千代さん、できるだけ平安リストにないものを選びました。記録にあるのは僧侶さんや貴族さんなので、おふざけする人格と合わせるのはちょっと失礼かも、という感じです。
立場が伏線になるわけではないので 、柔軟に読んでいただけると幸いです(。>ㅅ<。)!
あと感想返信で
(わりと大事な概念だと思うのでこちらに共有させてください)
叔母を殴らないのか、という点。
それをしても喜ぶタイプではないのが美咲ですし、
神様ゆえに 瞬発的な怒りをもってはいけないのが沖常です。
この四季堂のはなしでは、神様たちの長い目でみて帳尻をあわせるように進みます。生傷を癒しながら励まして、人間たちの前進をうながしてくれます。
夏の終わりに、美咲の居場所もちゃんと工作してくれるのでしばらく待っていただけると幸いです。
そして何より、読んでくれてありがとうございます!
それでは、また明日!