お迎えの時間
キッチンの隅で膝を抱えてうずくまっている美咲の上に、影がさした。
影、なのだけど、白と銀色なので視界はむしろ明るくなったように感じる。
柔らかい声が落ちてきた。
「美咲。迎えにきたよ」
「おきつねさん……?」
まさかと思った。
まだ夜だ。
叔母と言い合いになった朝方から、美咲はこのキッチンにこもり続けて、眠れない夜を過ごしていた。
袖口から覗く、もらいものの「向日葵色の腕時計」は午前三時半を指している。
「どうして家にいらしたですか……」
「【四季堂】には来ないなと思ったから」
「時間はまだ、早いですよ。夜明け前で、雨が降ってますし……宴の時間は、晴れてからのはずです……」
「この状態だといつまでも晴れないよ」
「状態?」
「紫陽花姫がずうっと泣いていて、止まらないそうだから」
「……どうして、って聞きたいけど、私のせいでしょうか……。だっておきつねさんがこちらにいらして、私に知らせてくれるとなると。紫陽花姫は、紫陽花の花を通して近隣の様子を知ることができます。影クンさんとも仲良しですし。……」
「そうだね」
「う。先に自分のことを尋ねて、紫陽花姫のことを後回しにした私は、嫌な子ですよねぇ……」
言いながら、声がかすれた。
さっき叔母にぶつけられたような言葉を、心の傷をえぐるように自分でまた口にしてしまったのだ。
恥ずかしかった。こんなところを見られてしまって。
【四季堂】で、きれいに整えた自分だけを見せたかったのに。
せっかく少しできるようになってきたのに、また、下手になってしまった。
言い訳も弁解も出てこなくて、美咲はしばらく沈黙した。
自分と向き合うのを待ってから、沖常が凪いだような声で言う。
「誰かを大事にできるのは余裕があるときだよ。紫陽花姫のことを心配したいのなら、美咲はまずその余裕を取り戻さなくてはならないね。今は、無駄なものが欲しい気分?」
「いいえ……今は、なにも……」
「ほら、余裕がない」
くすくすと笑ってくれた。
いつものように寄り添ってくれる声だ。
失望されたわけではないと思って、美咲は深く安堵した。
そして、離れていってほしくなくて、震える指先で着物の裾をつまんだ。
沖常は振り払ったりしなかった。
うずくまっていた美咲の頭を、そっと沖常が撫でた。
(いい香りがする。緑と花の香りをやわらかく調香したような……。いつも香る自然な匂いではなくて、もっと華やかで、きっと今日のために特別にあしらえたものだよね。それなのに、私、ううう……)
ぼさぼさだったはずの美咲の髪を大きな手のひらが撫でていくと、潤って見事な艶を持つ。
くるりとひねって、簪をさしてくれた。
差し出された手ぬぐいを美咲はおずおずと受け取った。
ひんやりとしている。【四季堂】の台所にある保冷庫のようにずうっと冷たいままだ。季節外れの雪が染め抜かれている。いつまでもぼうっと持っていると、沖常が手を誘導して、赤くなった目のところに当ててくれた。
ふかっとした布地をかぶせられて、冷えた体が包まれる。
だんだんと、わずかずつ、じんわりと心に優しさが浸みてきて、美咲は唇を噛み締めて嗚咽をこらえた。
こういうとき、堪えるしか知らなかった。
叔母との生活は窮屈で我慢の連続だった。
昔の生活といえば快適だったけれど、ずっと良い子でいればよかったので、嫌な思いをした時の対処法や、感情を救ってあげる方法を知らずに育ってしまった。
結果、悪意をうけたら壊れるまでじっとしているしかできなかったのだ。
(ほんとうにダメだ)
(──そうでもないさ)
ぼんやりと見知らぬ声が聞こえた。
沖常のものでもない。けれど非常に耳に滲んでくる。
(──勇気を出していただろう?)
よくわからなかったけど、
(心を読まないでくれます……!?)
(──いとおかし)
何事だろうかと、頭を上げた。
ひどく心配そうにした表情の沖常がいて、どきりとした。
悪い意味で。
「ううう……見られたくなかったですよぉぉ……」
「すまないな。その要望を消そうとすると、頬の腫れが引かないといけないようだ。……けれど完治を待っていると梅舞いの開始時刻を過ぎてしまうな」
美咲の頬は赤くなり、腫れている。
叔母の怒りがヒートアップした時に、投げてきた化粧ボックスがぶつかったのだ。
顔を狙ったわけではなかったので叔母はぎょっとしていたが、後始末をなにもせずに美咲をリビングに置き去りにして二階に逃げていった。
リビングを片付けながら、美咲は(つらいな)とだけ思っていた。
それ以上を考えてしまうと泣いてしまうのがわかっていたから。
でも鏡で顔を見た時に、どうしたって隠せそうもないくらい腫れていたから、梅舞いのお誘いはどうしようかと、それを理由にちょっと泣いてしまったけれど。
そのあとうずくまったりして過ごしていたら、起こしに行く前にこちらに沖常が来てしまった。
美咲は、もらった合鍵を使う暇もなかった。
「……どうしたらいいですか? 私……」
「それを俺が決めてしまっていいのか?」
「……自分で決めようと思ったら、もう、行かないって言ってしまいそうなんです」
「わかった。じゃあ上手く彩ってあげよう」
沖常が手を引いて、美咲を立ち上がらせた。
ふわりと白い霧が美咲の足などを撫でた。ひゃ、と声が出る。見ると、狐の尻尾のようなものが四つ、霧のように薄くなったり濃くなったりしながら、揺らいでいた。
「頬の他には外傷はないようだ」
それを確認してから、まっすぐに言った。
「一緒に行こう」
ふわりと薄布が被せられる。
(これ……あっ、被衣?)
確か、神様の世を人間が歩くために必要なもの。
美咲の視界を、高名な巫女のように彩るもの。
尻尾を四つ戻した沖常を見ると、神々しい光をまとっていて、畏れ多いような敬愛を抱いた。足が震えそうだ。
「お誘い、してもらって、光栄、です。ぅぅ……」
……視線をそちらに奪われていたので、一階の様子を見に降りてきていた叔母には気づかなかった。
被衣を被った美咲が視認できなくなっているので、キョロキョロとしている。
その落ち着きのない頭に、鬼の金棒が落とされた。
発泡スチロール製の模造品でありながらも、叔母の意識を速攻で刈り取った。
だるだるになったスエットの首裏をむんずと掴んで、彼岸丸が、ズーリズーリと二階に叔母を引き上げていく。
このあと意識下の制裁(と書いて悪夢と言い訳する)が行われるのだ。
最近叔母の夢見が悪いのも、その一環なのであった。
あくまで鬼と生き物の関係性のコンプライアンスは守られています、と彼は大真面目に語る──。
読んで下さってありがとうございました!
落ち込んじゃった美咲を慰めにいってきます!(宴)