遥かなり満洲帝国
満洲。
緑に萌える一面の農地を車窓から眺めつつ、彼女は故国の土を踏む。
王道楽土と呼ばれたその国を走る、五族協和の理想「あじあ号 502系」。
大日本帝国の技術供与を受けて完成された高速列車だ。
もっとも、その高速鉄道にまつわる利権のほとんどは米帝の企業が握っているのだが。
ミッドウェー海戦に勝利した大日本帝国と英米仏蘭の早期講和により、かろうじて存続を認められた国。それがこの満洲帝国である。
今ではその帝国はソ連と中華民国の緩衝地となっている。
──たとえそれが米帝の傀儡政権だったとしても。
愛新覚羅鈴麗は名を隠し、留学先の日本から故国に戻ってきた。
全ては亡き祖父、溥儀の遺訓である。
国の象徴として。
そこに彼女としての意思は無い。
あるのは国家のシステムの安全弁、潤滑油としての役割だけ。
婚約者も幼少の頃から決まっている。
友邦であり、かつもっとも警戒すべき宗主国大日本帝国の皇族の御曹司である。
国の象徴とは何なのか。
彼女なりに考える。
父が崩御した今、皇位を継承するのは彼女以外にはいない。
「お静かに」
ふと、背後から声がかかる。
耳にしたことも無いものの声。近衛の者ではない。
──テロリスト──。
彼女の頭に嫌な予感が過ぎる。
微かに匂う、硝煙の匂い。
「お人違いでは?」
「その態度が何よりの証拠」
「私に価値はありません」
「ご自分の価値をご存じない?」
背に押し付けられた冷たい感触が彼女の鼓動を早くする。
「馬鹿な事はお止めなさい」
「あなたはこの国の要。お話があるのです。ご同行ください」
KGBか、MIBか、はたまたCIAか……。
もしくは、どこぞ二重三重スパイなのか。
どちらにせよ、自分の正体は知られていると思ったが良い。
「列車での移動とは、それにしても随分と暢気なものですな?」
「航空機でも同じです」
「それもそうですな。属国の悲哀です」
属国。
なんと嘆かわしい事か。
女真の誇りが泣く。
「ここで私が散っても、帝国は守られましょう」
「あなたは統合の象徴。ご自愛願いたいものですな」
「銃を突きつけておいて?」
「気のせいですよ、姫様」
「私に銃を向けること。それは帝国の臣民に向けて銃を向けている事と同じですよ?」
「何、あなたの故国も臣民に銃を向けているではありませんか」
ファシズム。監視社会。
それは満洲帝国の暗部だ。
だが、ソ連のKGBや東ドイツのシュタージに比べればどれほどマシなものか。
国民を統治するのに必要なシステム──。
そう。
彼らも、そしてこの男も、そして彼女自身さえもシステムの一員なのだ。
「私に何を望むのか」
「簡単な事です。わが祖国への便宜を」
……。
こうしてシステムは狂って行く。
深く、浅く、静かに。
この帝国は自分の代でも変わりそうに無い。
列強の餌食にならぬよう足掻き続けるしかないのだ。
生き残るにはどんな境遇に落ちようと足掻き続けるしかない。
たとえ銃で脅されようと、目の前に破滅しか見えなくとも。
彼女は思う。
我が祖国。
真の開放、王道楽土が実現する日はいつの日か。
だが、彼女は象徴。
国民の、臣民の希望とならねばならない。
たとえ初手から躓こうと、彼女は希望なのだ。
彼女の目に意思の光が点る。
「わかりました」
彼女は力強く答える。
故国の未来を信じて。
このお話はフィクションです。
特定の国家・民族・宗教を誹謗する意思はありません。あしからず。